清史演義第二十六回 台湾島戦敗れ清室に降る/尼布楚条約を訂し露臣屈す (臺灣島戰敗降清室 尼布楚訂約屈俄臣)

尚藩・耿藩の終焉

  • 三桂死後、尚之信は出兵を渋り、弟の之孝と藩位簒奪を図って密告され、賜死となった。耿精忠も諸弟に告発され、大学士明珠の主張で磔死とされた。孫延齢の妻孔四貞は太后の義女として夫の帰順を勧めたため郡主に封じられた。
  • 康熙帝は三藩平定後、大赦を行い、賦税の減免など戦後処理を進める詔を発した。

台湾鄭氏との攻防

  • 台湾の鄭経は清に服さず、耿精忠の乱に乗じて広東・福建の諸郡を占拠したが、清軍に押し戻され厦門・海澄も失い、金門・厦門を清軍に奪われて台湾へ退いた。
  • 将軍頼塔は鄭経に招撫の書を送り、薙髪・入貢を求めず自治を認める寛大な条件を示したが、総督姚啓聖の反対で和議は成らなかった。

鄭氏の内訌

  • 鄭経の長子克臧は庶出ながら有能で内政を任されていたが、鄭経の死後、馮錫範らの謀略により鴆殺され、次子克塽が擁立された。克塽は幼く、実権は馮錫範が握り、人心を失った。
  • 福建総督姚啓聖はこの機に乗じ台湾平定を上奏、施琅を水師提督に起用させた。

澎湖・台湾の攻略

  • 施琅は水師を整え澎湖を攻めた。緒戦は暴風で苦戦し矢傷も負ったが、総兵藍理らの奮戦もあり持ち直した。翌日、劉国軒は気象を読んで暴風を予期し出撃したが、清軍先鋒藍理の奮闘(腹を撃たれながら戦い続けた逸話)などにより清軍が優勢となり、鄭軍は大敗して台湾へ退いた。
  • 施琅は台湾に迫り、劉国軒は清軍の勢いに天命を悟って降伏、延平郡王の印綬と台湾の版籍を献じた。鄭氏は成功以来二十三年で滅んだ。

台湾平定後

  • 施琅は靖海侯に封じられ、克塽・劉国軒・馮錫範も封爵された。清朝は台湾に一府三県を設け福建省に隷属させ、これ以降海外諸国との通商も広がった。

ロシアとの国境紛争

  • 北方ではロシアが黒龍江北岸の雅克薩を占拠し城を築いていた。康熙帝は三藩平定後、東北経略に乗り出し、彭春らを派遣して雅克薩を攻めさせた。
  • 清軍は一度雅克薩の土城を破棄させたが、ロシア軍(トルブジン、ベイトン)が再び築城したため再度攻囲。トルブジンは戦死したが、ベイトンらは地下壕にこもり抵抗を続けた。
  • オランダ使節の仲介などを経て両国は講和に向かい、ネルチンスクで索額図とロシア使節フョードロ(費耀多羅)が会談。清側が兵力を示して優位に立ち、交渉の末に国境条約が成立した。

ネルチンスク条約の要旨

  • 格爾必斉河・外興安嶺以南を清領、以北をロシア領とする。
  • 額爾古納河を境とし、河南を清、河北をロシア領とする。
  • 雅克薩城を破棄し住民はロシア領へ移す。
  • 越境する猟師の取り締まり、逃亡者の相互不引き渡し禁止、通商の許可などを定める。

評語

  • 台湾は成功以来清の版図外にあったが、天運や強弱の差により清に帰したとする。ネルチンスク条約も「清史上最も名誉な条約」とされるが、実際はロシア側が遠征で孤立し弱勢だったのに対し清側が近接して優勢だったための結果であり、彭春がなかなか雅克薩の土塁を落とせず、索額図も当初案から譲歩を重ねた経緯からロシアの強さもうかがえる、と評している。