清史演義第二十五回 帝号を僭し疾に遘い冥誅に伏す/軍威を集め城を破り叛孽を殲す (僭帝號遘疾伏冥誅 集軍威破城殲叛孽)

呉三桂の即位と病

  • 呉三桂は挙兵から五年、康熙十七年に衡州で壇を築いて即位し、国号を周、元号を昭武と定めた。衡州を定天府とし百官を置いたが、即位の日は暴風雨に見舞われ朝房が半壊するなど不吉な兆しがあった。
  • 夏国相を相とし、胡国柱・馬宝を元帥として清軍に当たらせた。

永興をめぐる攻防

  • 清の安親王岳楽が湖南に進み、前鋒の碩岱が永興を攻めた。永興は衡州の門戸で、周軍は胡国柱・馬宝らが死力を尽くして防戦し、清の援軍の伊裡布・哈克山を討ち取るなど、しばらく周軍優勢が続いた。
  • 清の穆占も出兵したが伊裡布らの戦死を聞いて進撃をためらい、永興は辛うじて持ちこたえた。

呉三桂の死

  • 三桂は即位の際に風邪をひいて以来体調を崩し、八月には喀血・昏迷を繰り返すようになった。臨終間際、うわごとで「永暦帝が来た」と怯えるなど、非業の死者への恐怖に苛まれた様子が語られる。
  • 夏国相らに孫の世璠への輔弼を遺言し、遺書を書こうとしたが力尽きて昏倒し、まもなく息を引き取った。国相は当面秘喪とし、動揺を抑えた。

世璠の即位と退勢

  • 国相は胡国柱・馬宝を呼び、三桂の死と世璠の擁立を告げた。国相は雲貴を放棄して北上する策を提案したが、馬宝らの反対で当面は守勢を取ることとなった。
  • 世璠は衡州で即位し、明年を洪化元年と定め喪を発した。国相らは世璠を奉じて雲南へ退いた。

清軍の反攻

  • 三桂の死を知った清軍は岳楽・喇布らが湖南で岳州・常徳を回復し、勒爾錦が長沙を攻略。広西でも傅宏烈・莽依図が桂林を回復し、呉世琮は陝西で敗死した。図海・王進宝・趙良棟は漢中から四川を平定した。
  • 康熙帝は諸将を入れ替え、彰泰を定遠平寇大将軍とし、蔡毓栄・趙良棟・頼塔の三路で雲貴に進軍させた。彰泰・蔡毓栄は楓木嶺・辰龍関を突破し、貴州へ迫った。

象陣の攻防

  • 蔡毓栄は貴州西部で夏国相の象陣に一度大敗したが、火攻めの策を練り直し、誘い出して火種で象を敗走させ、国相軍を壊滅させて貴州を奪回した。
  • 広西では頼塔の部下傅宏烈が馬承蔭に謀殺されたが、莽依図が同じ火攻めの策で承蔭を破り南寧を奪還、承蔭は北京で処刑された。
  • 雲南でも郭壮図が三度目の象陣を用いたが、蔡毓栄の火攻めで再び敗れた。

雲南陥落と呉氏の滅亡

  • 清軍は雲南省城に迫り、康熙二十年十月、城内の内応により陥落。胡国柱は戦死、夏国相・馬宝は捕らえられ後に凌遅処死。郭壮図は自殺し、世璠は自ら首をくくって死んだ。
  • 蔡毓栄・穆占らは三桂の遺した美姫を分け合うなど、戦後の混乱ぶりも描かれる。趙良棟のみ部下の略奪を厳禁し、藩府の簿籍を接収して都に献じた。呉氏の乱はここに終息した。

評語

  • 三桂の即位の日に暴風雨があったこと、即位後まもなく病に倒れたことは、作者が天罰・因果を暗示する筆致であるとする。三桂の死後、大勢が急速に瓦解していく様を簡潔な筆で描いたのは、滅亡の速さを際立たせるためだと評している。