清史演義熊廷弼、遼を守り功績を立つ/王化貞、塞を棄て関に入る(第 四 回 熊廷弼守遼樹績  王化貞棄塞入關)

熊廷弼の遼東経略

  • 劉鋌を討ったのは満洲軍が偽装した「杜」の旗を掲げた部隊であったと明かされる。劉鋌の死で明は勇将を失い、辺防はさらに手薄となった。
  • 開原・鉄嶺も相次いで陥落し、明廷は経略楊鎬を罷免して熊廷弼を後任とした。熊廷弼は湖北出身で胆略に富み、赴任途上で難民を慰撫し、遼陽・瀋陽で城の修築・兵糧の整備・軍紀の粛正を行い、戦没将士を親祭するなど士気を鼓舞し、十八万の兵を要地に分守させて遼瀋の防衛を固めた。
  • 一方満洲太祖は葉赫を攻略し、東西両城主の金台石・布揚古を降して葉赫を滅ぼした。金台石は最期まで抗い、死しても満洲への遺恨を子孫に伝えると誓って斬られた。

経略交代と遼瀋の陥落

  • 熊廷弼は魏忠賢配下の姚宗文らに讒訴されて辞職に追い込まれ、後任の袁応泰は寛容な統治で蒙古の飢民を城内に入れたが、これが仇となり内応を招いて瀋陽が陥落、総兵賀世賢が殉節した。
  • 続いて遼陽も攻められ、袁応泰と巡按御史張銓は自刎・自縊して殉じた。太祖は両名の忠節を惜しみ、蘇生した張銓に降伏を勧めたが、張銓は拒んで再び自ら命を絶ち、太祖は丁重に埋葬させた。遼陽陥落後、河東の諸城は次々に降伏した。
  • 明廷は熊廷弼を遼東経略に復帰させ、「三方布置策」(広寧を陸路の要、天津・登萊を海路の要とする策)を上奏させたが、遼東巡撫王化貞は河川防衛策を主張して対立した。
  • 王化貞は毛文龍の鎮江堡攻略を機に独断で朝廷へ上奏し、蒙古援兵や李永芳の内応を頼みに六万の兵で一挙平定できると豪語、熊廷弼の統制を離れて出兵の裁可を得た。
  • しかし数度出兵しても敵影はなく、天啓二年正月、満洲軍が西平堡を攻めると、援軍に赴いた游撃孫得功が裏切って戦線を混乱させ、劉渠・祁秉忠は奮戦の末戦死。孫得功は瀋陽方の内応となり王化貞を捕らえて手土産にしようと企てたが、王化貞は総兵江朝棟に救われて脱出し、大凌河で熊廷弼と合流した。
  • 熊廷弼は自らの手勢五千を王化貞に託し撤退を援護したが、広寧はすでに孫得功によって満洲軍に明け渡され、錦州・大凌河・松山・杏山も相次いで陥落。熊廷弼と王化貞はともに責任を問われ投獄された。

孫承宗の登用

  • 御史左光斗の推薦により東閣大学士孫承宗が兵部尚書として登用され、将権を重んじ現地の将に権限を委ねるべきと上奏、これが嘉納された。
  • 遼東経略王在晉の重関築城策に対し、孫承宗は自ら視察のうえ寧遠城の築城を主張してこれが採用され、督師薊遼として赴任。寧遠に拠点を築き、十一万の兵を訓練し屯田を開くなど四年にわたり関内外を安定させた。
  • しかし魏忠賢は孫承宗の廉直な態度に恨みを抱き、まず熊廷弼を讒殺して首級を九辺に晒し、続いて孫承宗を「兵権が重すぎる」と讒言、その奏請の多くは握りつぶされ、孫承宗は次第に地位に安んじられなくなっていった。

評語

  • 熊廷弼・孫承宗の二人は明末の良将であり、久しくその任にあれば満洲の脅威も防げたはずと評す。熊廷弼は誅殺され、孫承宗は罷免に追い込まれ、遼東を鎮める人材を失ったことで満洲軍がその隙に乗じた。明の禍いは満洲の福いであり、天命とはいえ人事の咎も免れないとする。本回は熊廷弼・孫承宗の合伝であり、袁応泰・王化貞らはその陪賓にすぎないと結ぶ。