清史演義猛参政、砲を用い敵を撃つ/慈喇嘛、使者と書を伝う(第 五 回 猛參政用炮擊敵  慈喇嘛偕使傳書)

孫承宗の失脚と高第の撤退

  • 遼東を守る孫承宗は、宦官が権勢を振るい賞罰が乱れる朝廷に憤り、熹宗の誕生日を機に入朝して弾劾しようとしたが、兵部の急使に阻まれ引き返す。
  • 閹党(宦官一派)はこれを「持ち場を離れた」と弾劾し、孫承宗は辞職に追い込まれ、後任には高第が経略として着任した。
  • 高第は着任するや関外の防備を撤去してしまい、これが満洲太祖(ヌルハチ)の侵攻を招く隙となった。

瀋陽遷都と寧遠攻略

  • 満洲太祖は孫承宗在任中は手を出さずにいたが、瀋陽に城郭・宮殿を築いて遷都し、諸将・后妃を率いて移った(後の盛京)。
  • 高第の防備撤去の報を得ると出兵し、遼河を渡って錦州を経て寧遠城に迫った。
  • 城将は袁崇煥。太祖の使者の降伏勧告を、崇煥は毅然と拒絶した。

寧遠籠城戦と太祖の敗北

  • 夜、崇煥は総兵満桂と将士に固く守りを誓わせ、翌朝の満洲軍の猛攻を迎え撃った。
  • 満洲側は盾兵で矢石をしのぎ雲梯で城壁に取り付いたが、崇煥は大石と火器で雲梯を壊し、さらに西洋伝来の大砲(閩の兵卒羅立が操作)を放って満洲軍の前列を粉砕した。
  • 満洲軍は数千の死傷者を出して撤退。太祖は「起兵以来はじめての大敗」と嘆き、心労から病を得て、天命十一年八月に没した。位は八男の皇太極(ホンタイジ)に継がれ、後の太宗文皇帝となる。

弔問使をめぐる書簡の応酬

  • ホンタイジ即位後、袁崇煥は喇嘛僧を弔問・祝賀の使者として派遣した。これは弔賀に名を借りた満洲の内情探索であった。
  • ホンタイジは和睦をほのめかす返書を送るが、対等の礼式を求める文面に崇煥は激怒し、「藩属の礼を取るか、さもなくば戦え」と突き返した。
  • ホンタイジは重ねて国書を送り、満洲側の「七つの恨み」(過去の明・葉赫らとの確執)を列挙して和議の条件(多額の金銀布帛)を提示した。
  • 崇煥は表向き穏当な返書をしたためつつ、内心では遼西の守りが整うまでの時間稼ぎと定め、条件を明言せず引き延ばした。

朝鮮への危機

  • 交渉の間に、満洲軍が東江(皮島)や朝鮮国境に侵入したとの急報が相次ぐ。崇煥は趙率教らを三岔河に配し、水軍を東江救援に向かわせたが、朝鮮までは遠く救援が間に合わない状況で、朝鮮の危急を案じつつ回を終える。

評語

本回は袁崇煥一人を描き出すことに主眼がある。熊廷弼・孫承宗にまさる戦上手・守り上手であり、初めは殿前参政として寧遠を死守し、のち遼東巡撫として和議の書を送ったのも、勇から怯に転じたのではなく、和を装って満洲軍の油断を誘い遼西の再建を図る計であった。『明史』袁崇煥伝にも「守は正着、戦は奇着、和は旁着」とあり、和議を本意としていなかったことがうかがえる。一方の清太宗もまた崇煥に劣らぬ英傑であり、両者の書簡の応酬にはそれぞれの本心が透けて見える。