清史演義貝勒、朝鮮を下し師を旋す/撫軍、寧遠を守り捷を奏す(第 六 回 下朝鮮貝勒旋師 守甯遠撫軍奏捷)
阿敏の朝鮮遠征
- 太宗は朝鮮出兵を決め、二貝勒アミンを大元帥とした。出発に際し「明の毛文龍が東江に拠って朝鮮に呼応する」ことを気にかける太宗に、アミンは二路出兵を進言するが、太宗は密計を授けるにとどめた。
- 満洲軍は義州・定州を落として快進撃し、朝鮮国王李倧は江華島へ避難、和議を求めた。アミンは当初拒むが、貝勒済爾哈朗らの説得で講和交渉に応じることとなる。
江華島攻略と講和
- アミンはなお都城への進軍・略奪をやめず、貝勒らの諫めも聞かなかったが、副将劉興祚が江華島に赴いて講和の下交渉を進め、済爾哈朗も独断で盟約の草案をまとめてしまう。
- 太宗からの勅命が届き、講和と撤兵が命じられる。アミンは表向きこれに従うが、内心不満から兵士に略奪を許し、多くの財物を得て帰国した。
太宗親征、大凌河へ
- 朝鮮を服属させた太宗は明への親征を決意し、大軍を率いて遼河を渡り大凌河・小凌河方面へ進んだ。
趙率教の錦州籠城策
- 遼東経略が王之臣から袁崇煥に交代する中、崇煥配下の趙率教は錦州で満洲軍の偽装工作(明兵に扮した部隊)を見破って撃退。
- さらに太監紀用を名目上の和議交渉役に立てて時間を稼ぎ、その間に援軍を呼び寄せる計略を用いた。太宗は数日後にこの計に気づくが、時すでに遅く、明の援軍が到着して満洲軍は敗走した。
寧遠での太宗と袁崇煥の激突
- 錦州での敗戦後、太宗は別動隊で寧遠を急襲しようとするが、袁崇煥はあらかじめ伏兵を配して迎え撃つ。乱戦の中でアジゲが負傷し、満洲軍は多くの死傷者を出して錦州へ退いた。
袁崇煥の罷免と復帰
- 崇煥は戦功を報告するが、朝廷はかえって「錦州を救援しなかった罪」を咎め、崇煥は憤って辞任。後任は王之臣となる。
- 熹宗の崩御と魏忠賢誅殺を経て崇禎帝が即位すると、崇煥は薊遼督師として復職。「五年で遼東を回復する」と大言したことが、後の禍根となる。
- 崇煥は関内外の防備を整え、着実に成果を上げていく。
孔有德・耿仲明の投降
- 崇禎二年秋、明の将官孔有徳・耿仲明が満洲へ投降を申し出る。太宗はドルゴンや范文程と協議のうえ、二人を引見することとした。
評語
満洲太宗はまことに手練れで、声東撃西の策で朝鮮を服属させた手腕は父太祖に劣らない。朝鮮を失ったことで明は片腕をもがれたに等しい。袁崇煥は智将ながらこれには応じきれなかったが、それでも寧遠・錦州での満洲軍撃退は、明に袁崇煥ありと知らしめるものであった。五年で遼東を復すとの言はいささか誇張とはいえ、崇煥の咎とすべきではない。満洲が恐れたのはひとえに崇煥その人であった。