清史演義二祖を喪い誓師して復讐す/九部を合するも驕りで敗る(第 二 回 喪二祖誓師復仇  合九部因驕致敗)

覚昌安の死と復仇

  • 布庫里雍順が築いた鄂多里城は小部落にすぎなかったが、代を重ねて明代中葉に至り、孟特穆が基盤を広げ赫図阿拉へ移った。四世孫の福満の子・覚昌安が赫図阿拉城を継ぎ、その子塔克世は喜塔喇氏を娶り、努爾哈赤(のちの清太祖)が生まれた。
  • 努爾哈赤の従姉が古埒城主阿太章京に嫁いでいたが、明の総兵李成梁が図倫城主尼堪外蘭を誘い古埒城を包囲させた。覚昌安と塔克世は救援に赴き、城中に入って共に守った。
  • 尼堪外蘭は単身城下に来て詫びを入れ、明軍撤退の仲介と覚昌安への封爵斡旋を約束すると偽り、覚昌安はこれを信じた。明軍は退いたが、その夜、油断して酒宴に酔いつぶれていた城内を明軍が急襲し、覚昌安・塔克世父子と阿太章京夫妻はことごとく殺害された。
  • 訃報を受けた努爾哈赤(当時二十五歳)は激しく悲嘆したのち、遺甲十五副を分け一族に復仇を訴え、兵を挙げて図倫城の尼堪外蘭を攻めた。尼堪外蘭は敗走し明領へ逃げ込んだが、のちに明の官憲に捕らえられ、努爾哈赤の陣営に引き渡されて誅殺された。
  • 事件の経緯を知った明廷は李成梁の専断を非とし、覚昌安父子の柩を送還し、努爾哈赤を建州衛都督に封じて懐柔した。

葉赫との抗争と九部連合軍の撃破

  • 努爾哈赤は明との通交を保ちつつ勢力を拡大し、堂子建立の際に「滅建州者葉赫」と刻まれた古碑を発見し、これを打ち砕かせた。まもなく葉赫国大貝勒・納林布祿から割地を求める書が届いたが、努爾哈赤はこれを拒絶し軍備を整えた。
  • 納林布祿は哈達・輝発・烏拉・長白山下の珠舍裡・訥殷、蒙古の科爾沁・錫伯・卦勒察を糾合し、総勢三万余の連合軍を編成して満洲へ侵攻した。
  • 努爾哈赤は札喀城で迎撃態勢を取り、古埒山に布陣。葉赫方の先鋒・布塞は寡兵の満洲軍を侮って深追いし、伏兵に囲まれて討ち取られた。援軍の科爾沁部統領明安も伏兵に阻まれ、ほうほうの体で敗走した。
  • 主寨を突かれた納林布祿自身も努爾哈赤と一騎打ちとなり劣勢に陥ったところを烏拉部の布占泰に助けられたが、布占泰は逆に努爾哈赤に生け捕りにされ、連合軍は総崩れとなって敗走した。

評語

  • 尼堪外蘭と納林布祿は名目上は満洲の仇敵だが、実は満洲にとっての「功臣」であったと評す。英雄豪傑は逆境によって奮起するものであり、外患こそ英傑を鍛える試金石である。本回前半は努爾哈赤の勇、後半はその智を描き、智勇兼備の開国の主たる所以を示す。憂患に生き安楽に死すという古来の道理がここに見えると結ぶ。