史記卷一百二十四 游俠列傳第六十四 田仲

田仲・劇孟

  • 楚の田仲は俠として知られ剣を好み、朱家に父のごとく仕えたが自らその行いは及ばないと考えていた。田仲の死後、雒陽に劇孟が現れた。雒陽の人々は商売を生業とする風があったが、劇孟は任俠で諸侯に名を知られた。呉楚七国の乱の際、太尉条侯(周亜夫)が伝車で河南へ向かう途中、劇孟を得て「呉楚は大事を起こしながら劇孟を頼らなかった、彼らに大した力はないと分かった」と喜んだという。天下が騒然とする中で宰相が劇孟を得ることは一国の敵を得たに等しいとされた。劇孟の行いは朱家に似るが博打を好み若者の遊びに交わることも多かった。しかし母の葬儀には遠方から千台もの車が集まったといい、死後の家財はわずか十金にも満たなかった。符離の王孟も江淮の間で俠として名を知られた。
  • 同じ頃、済南の瞯氏、陳の周庸も豪族として名を知られたが、景帝はこれを聞いて使者を送りことごとく誅殺した。その後も代の諸白、梁の韓無辟、陽翟の薛兄、陝の韓孺らが次々と現れた。