史記卷九十三 韓信盧綰列傳第三十三 盧綰

盧綰は豊の人で高祖と同郷、同日生まれの幼馴染として終生高祖に近侍した。天下平定後、劉氏でない王として異例の寵遇を受け燕王に立てられたが、陳豨の乱に際し匈奴と通じたことを疑われ、樊噲に討たれる中で匈奴に逃げ入り東胡盧王となって没した。

年表(5件)
  • 漢五年八月燕王に立てられる
  • 漢十一年秋陳豨反乱に呼応するのを疑われ、密かに匈奴と通じる
  • 漢十二年謀反の疑いで召還されるも病と称して応じず、樊噲に燕を討たれる
  • 漢十二年四月高祖崩御を機に匈奴へ逃げ入り、東胡盧王となる
  • 孝景中六年孫の他之が東胡王として降り、亜谷侯に封ぜられる

高祖との縁

  • 盧綰は豊の人で高祖と同郷。父同士が親しく、二人は同日に生まれ里の人々は羊酒を持って両家を祝った。長じて共に学び、また相親しんだ。里の人々は両家が親しく子も同日生まれ壮年になっても仲が良いことを喜び、再び羊酒で祝った。高祖が布衣の頃、官事で身を隠す際には盧綰が常に付き従った。高祖が沛で挙兵すると盧綰は客将として従い、漢中に入って将軍となり常に側近くに侍った。項籍を東に撃つ際も太尉として常に従い、寝所への出入りや衣食・恩賞に群臣は誰も及ばず、蕭何・曹参らでさえ礼遇される程度で、その親密さは盧綰に及ぶ者がなかった。綰は長安侯に封ぜられた(長安はもとの咸陽)。

燕王への即位

  • 漢五年冬、項籍打倒の後、盧綰は別将として劉賈と共に臨江王共尉を撃って破った。七月に戻り燕王臧荼を撃つ従軍で臧荼は降った。高祖は天下を平定した後、劉氏でない王が七人いることを憂え、盧綰を王にしたかったが群臣の不満を招く。臧荼を虜とすると諸将相列侯に功ある者を燕王に選ばせる詔を下し、群臣は上の意向を察して「太尉長安侯盧綰は常に天下平定に従い功最も多い、燕に王たるべき」と述べた。詔はこれを許し、漢五年八月、盧綰を燕王に立てた。諸侯王で燕王ほどの寵を得た者はなかった。

謀略と匈奴への逃亡

  • 漢十一年秋、陳豨が代の地で反乱を起こすと、高祖は邯鄲に赴いて豨の軍を撃ち、燕王綰もその東北を撃った。この時、陳豨は王黄を匈奴に送って救援を求め、燕王綰も臣の張勝を匈奴に送り豨らの軍が破れたことを伝えさせた。張勝が胡に至ると、旧燕王臧荼の子で胡に逃れていた臧衍が張勝に「あなたが燕で重んじられるのは胡の事情に通じているからだ。燕が久しく存続するのは諸侯がしばしば反し兵乱が続くからだ。今、燕が急いで豨らを滅ぼせば、次はあなたたちが虜となるだろう。なぜ燕をして豨への攻撃を緩め胡と和させないのか。事が緩めば長く燕に王たり得、漢に急なことがあれば国を安んじられる」と説いた。張勝はこれを是とし、密かに匈奴に豨らを助けて燕を撃たせた。燕王綰は張勝が胡と共に反したと疑い、張勝の一族誅殺を上書したが、戻った張勝の弁明を聞いて悟り、別人を偽って罪を着せ張勝の家族を脱がせ、匈奴との間者として使わせる一方、密かに范斉を陳豨のもとに送って戦を長引かせようとした。
  • 漢十二年、東で黥布を撃つ間、豨は常に兵を率いて代におり、漢は樊噲に豨を撃たせ斬った。豨の裨将が降り燕王綰が范斉を通じて豨と謀を通じていたと告げた。高祖は使者を送って盧綰を召したが綰は病と称した。辟陽侯審食其・御史大夫趙堯を送って燕王を迎えさせ左右を取り調べた。綰は益々恐れて閉じこもり、幸臣に「劉氏でなくて王たる者は私と長沙王だけだ。昨年春、漢は淮陰を族滅し、夏には彭越を誅した。皆呂后の計だ。今、上は病で呂后に任されている。呂后は婦人でありながらもっぱら異姓王や大功臣を誅そうとしている」と語り、ついに病と称して行かなかった。その左右も皆逃げ隠れた。事が漏れ、辟陽侯がそれを聞いて上に報告すると上は益々怒った。さらに匈奴からの降者が張勝が匈奴に逃げ燕の使いとなっていることを告げると、上は「盧綰は果たして反したのだ」と述べ樊噲に燕を撃たせた。燕王綰は宮人・家属・騎兵数千を率いて長城の下に留まり、上の病が癒えれば自ら参内して謝罪しようと様子を伺った。四月、高祖が崩じると盧綰はついにその衆を率いて匈奴に逃げ入り、匈奴は彼を東胡盧王とした。綰は蛮夷に侵奪されながらも常に漢への帰参を望んだが、歳余りで胡の地で没した。

子孫

  • 高后の時、盧綰の妻子が漢に降り帰ったが、折しも高后が病で会えず燕邸に留め酒宴で会おうとしたところ高后は崩じ会うことは叶わなかった。盧綰の妻もまた病死した。孝景中六年、盧綰の孫他之が東胡王として降り亜谷侯に封ぜられた。