史記卷九十三 韓信盧綰列傳第三十三 陳豨
陳豨は宛朐の人。高祖に仕えて趙相国として趙・代の辺兵を監督したが、賓客を厚く集めて権勢を張ったことを疑われ、追い詰められて自ら代王を称して反乱を起こした。漢の討伐を受けて敗れ、樊噲に靈丘で斬られた。
代の辺境守備
- 陳豨は宛朐の人で、いつから高祖に従ったかは分からない。高祖七年冬、韓王信が反して匈奴に入り上が平城から帰った後、豨を列侯に封じ、趙相国として趙・代の辺兵を監督させ、辺兵は皆その下に属した。
賓客の盛大さと謀反
- 豨は帰省の際に趙を通り、趙相周昌は豨に随う賓客が千余台にも及び邯鄲の官舎が満ちるのを見た。豨は賓客を布衣の交わりのように厚遇し、客の方が上座に着くほどであった。豨が代へ戻ると周昌は上に見えて豨の賓客の盛大さ、数年にわたり外で兵を専断していることを詳しく述べ変事を恐れると告げた。上は豨の客のうち代にいる者の不法な財物を調べさせると多くが豨に連なった。豨は恐れ密かに客を通じて王黄・曼丘臣と連絡を取った。高祖十年七月、太上皇が崩じ豨を召したが豨は重病と称した。九月、ついに王黄らと共に反し自ら代王を称して趙・代を劫略した。
高祖の親征
- 上はこれを聞き、豨に脅されて劫略に加わった趙・代の吏民を赦した。上自ら邯鄲に至り「豨が漳水に拠らず邯鄲を守らないのは無能の証だ」と喜んだ。趙相は常山の守・尉の斬罪を上奏し「常山二十五城のうち豨の反で二十城を失った」と述べた。上が「守・尉は反したのか」と問うと「反していない」と答えたため上は「力不足だったのだ」と赦し常山守・尉に戻した。上は周昌に「趙にも将にできる壮士はいるか」と問い「四人います」との答えに四人を謁見させ「豎子に将が務まるか」と罵った。四人が恥じ入ると上は各千戸を封じ将とし、「蜀・漢入りや楚討伐に従った者すら功が行き渡っていないのに、なぜ彼らを封じたのか」との諫めに「陳豨が反し邯鄲以北は皆豨に取られ、羽檄で天下の兵を徴しても至らず今は邯鄲の兵のみ、四千戸を惜しんで趙の子弟を慰めずにいられるか」と答え、皆が「善し」と応じた。上は「豨の将は誰か」と問い「王黄・曼丘臣、共にもと商人」と聞くと各千金の懸賞をかけた。
討伐と最期
- 十一年冬、漢兵は陳豨の将侯敞・王黄を曲逆で斬り、豨の将張春を聊城で破り首級万余を得た。太尉勃(周勃)は太原・代の地を平定した。十二月、上自ら東垣を攻めたが下らず、卒が上を罵ったため、東垣が降ると罵った卒を斬り罵らなかった者を黥にし、東垣を真定と改称した。王黄・曼丘臣はその麾下が懸賞欲しさに生け捕り、陳豨の軍はついに敗れた。上は洛陽に戻ると「代は常山の北にあるのに趙が山の南から治めるのでは遠い」と述べ、子の恆(後の孝文帝)を代王に立て中都を都とし、代・鴈門を代に属させた。高祖十二年冬、樊噲の軍がついに豨を靈丘で斬った。
史論
- 太史公は言う。韓信・盧綰はもとより徳を積んだ家系ではなく、一時の権謀に乗じ詐力によって功を成し、漢の初定にあたったため封地を得て南面して王を称した。しかし内には強大さを疑われ、外は蛮貊に頼って身の支えとしたため、日ごと疎まれ自ら危うくなり、事窮まり智も尽きてついに匈奴に走った、何と哀れなことか。陳豨は梁の人で、若い頃からしばしば魏公子(信陵君)を慕ったと称し、将となって辺を守るや賓客を招き士に下ったが、その名声は実力を超えていた。周昌に疑われ疵瑕がしきりに現れ、禍が身に及ぶことを恐れ邪な者の説くところに従いついに無道に陥った。ああ悲しいことだ。事の生起から成敗までを人はどれほど深く計るべきものか。