史記卷九十三 韓信盧綰列傳第三十三 韓王信

韓王信は韓の襄王の孼孫。項梁の敗死後、張良の招きで漢に仕え、漢王の東征を進言して韓王に立てられた。のち太原以北に転封され匈奴の圧迫を受けて降り、漢を攻めたが敗れて匈奴に逃れ、さらに漢に叛いて参合で漢軍に討たれた。

年表(5件)
  • 漢五年春割符を与えられ韓王として潁川に王する
  • 七年冬上自ら討伐し銅鞮で信の軍を破り、信は匈奴に逃れる
  • 漢十年王黄らを通じて陳豨をそそのかす
  • 十一年春参合に入り漢に抗するが柴将軍に斬られる
  • 孝文十四年子の穨当・嬰が衆を率いて漢に降り、それぞれ弓高侯・襄城侯に封ぜられる

出自と漢への帰属

  • 韓王信はもと韓の襄王の孼孫で、身の丈八尺五寸。項梁が楚の後裔懐王を立てた時、燕・斉・趙・魏には既に王があったが韓だけになく、韓の公子横陽君成を韓王に立てて韓の故地を鎮めようとした。項梁が定陶で敗死すると成は懐王のもとへ逃れた。沛公が陽城を撃った際、張良を遣わし韓の司徒として韓の故地を降させ、信を得て韓の将とし、沛公に従って武関に入らせた。
  • 沛公が漢王となると韓信も漢中に従い、「項王は諸将を故郷に近い地に王としたのに大王だけが遠くに置かれたのは左遷である。士卒は皆山東の出で帰郷を望んでいる、その勢いに乗じて東進すれば天下を争える」と説いた。漢王が三秦を平定すると信を韓王とすると約し、まず韓の太尉に任じて韓の地を略取させた。

韓王としての戦歴

  • 項籍が諸王を封じた際、韓王成は従軍の功がなかったため就国を許されず列侯に落とされた。漢が韓信に韓の地を略取させると聞いた項籍は、かつて自分に従った呉の県令鄭昌を韓王に立てて漢に抗させた。漢二年、韓信は韓の十余城を平定した。漢王が河南に至ると信は陽城で韓王昌を急撃し、昌は降った。漢王は信を韓王に立て、常にその兵を従えさせた。三年、漢王が滎陽を出る際、韓王信・周苛らが滎陽を守った。楚が滎陽を破ると信は一時楚に降ったが逃れて漢に復帰し、漢は再び韓王とした。項籍を撃破し天下が定まると五年春、割符を与えられ韓王として潁川に王した。

太原への転封と匈奴への反乱

  • 翌年春、上は韓信が勇武で、その王地が北は鞏・雒に近く南は宛・葉に迫り東に淮陽を有する天下の要衝であることを憂い、太原以北へ徙して匈奴の備えとし晋陽を都とさせた。信は「国は辺境にあり匈奴がしばしば侵入する、晋陽は塞から遠いため馬邑に治めたい」と上書し、上はこれを許した。秋、匈奴の冒頓が信を大いに囲んだため、信はしばしば使者を送り匈奴と和議を求めた。漢が兵を発して救おうとしたが、信が幾度も使いを胡に送ることに二心を疑い、人を送って責め立てた。誅殺を恐れた信は匈奴と共に漢を攻める約を結び、馬邑をもって胡に降り太原を撃った。

敗走と匈奴での没

  • 七年冬、上自ら討伐に赴き銅鞮で信の軍を破りその将王喜を斬った。信は匈奴に逃れた。(その将である白土の曼丘臣・王黄らは趙の末裔趙利を王に立て、信の敗残兵を集めて信・冒頓と共に漢を攻める謀を巡らせた。匈奴の左右賢王は一万余騎を率い王黄らと共に広武以南に屯し晋陽に至って漢と戦ったが漢が大破し、離石まで追撃してさらに破った。匈奴は楼煩の西北に再び兵を集めたが漢の車騎がこれを破った。匈奴はたびたび敗走し、漢は勝ちに乗じて追い、冒頓が代の上谷にいると聞いた高皇帝は晋陽におり、偵察を送って「撃てる」との報を得て平城に至った。上が白登に出ると匈奴の騎兵に囲まれ、上は人を送り閼氏に厚く贈り物をさせた。閼氏は冒頓に「漢の地を得ても住めるものではなく、両主が互いに苦しめ合う必要もない」と説いた。七日ののち胡騎は次第に引き、折しも深い霧で漢の使者の往来にも胡は気づかなかった。護軍中尉陳平は上に「胡は全兵力を張っている、強弩に二本の矢をつがえ外に向けて構えたまま徐々に囲みを出るべき」と進言し、平城に入ると漢の救援も到着し胡騎は解いて去った。漢も兵を収めて帰った。韓信は匈奴の将として辺境を撃ち続けた。)
  • 漢十年、信は王黄らに陳豨をそそのかさせた。十一年春、旧韓王信は再び胡騎と共に参合に入り漢に抗した。漢は柴将軍に撃たせ、信に「陛下は寛仁であり、諸侯が背いても帰参すればもとの位号に戻し誅さない、大王もご存知の通り」と書を送り、「敗れて胡に走ったこと自体は大罪ではない、急ぎ帰参されよ」と諭した。韓王信は「陛下が私を巷から抜擢し南面して王を称させてくれたのは僕の幸いだった。滎陽の事では死をもって守れず項籍に囚われたのが一罪、馬邑を寇に攻められて城を守れず降したのが二罪、今また賊の将として将軍と一時の命を争っているのが三罪。大夫種・范蠡は一罪もなくして身を滅ぼしたのに、僕は三罪を陛下に負いながら世に生を求めるのは伍子胥が呉で身を滅ぼした所以と同じだ。今、山谷に逃げ隠れ朝夕に蛮夷から乞い借りる身であるが、帰りたい思いは痿えた者が立つことを忘れぬように、盲人が見ることを忘れぬように、勢いとしてかなわぬだけだ」と返答し、なお戦った。柴将軍は参合を屠り韓王信を斬った。

子孫

  • 信が匈奴に入る際、太子を伴っていた。穨当城に至って子が生まれ穨当と名付けられた。韓太子もまた子をもうけ嬰と名付けた。孝文十四年、穨当と嬰はその衆を率いて漢に降り、漢は穨当を弓高侯に、嬰を襄城侯に封じた。呉楚の乱の際、弓高侯の功は諸将中随一であった。子孫に伝わり孫の代で子がなく侯を失った。嬰の孫は不敬の罪で侯を失った。穨当の孼孫韓嫣は貴幸を受け当世に富と名声を得た。その弟韓説は二度封ぜられ、しばしば将軍と称し最終的に案道侯となったが、子の代は歳余りで法に触れ死んだ。その後歳余り、説の孫韓曾が龍頟侯に拝され説の後を継いだ。