史記卷九十二 淮陰侯列傳第三十二 韓信

韓信は淮陰の人。若い頃は貧窮し人に厭われたが、蕭何の推挙で漢王に大将と仰がれ、漢中対で項王の弱点を説いて漢の東征を導いた。魏・代・趙を平定し、井陘の戦いで陳餘を破り、龍且を討って斉を平定するなど楚漢戦争最大の功臣となり、斉王のち楚王に封じられた。のち謀反を疑われて淮陰侯に降格され、陳豨の乱に呼応しようと画策したところを呂后・蕭何に謀られ、長楽宮の鐘室で斬られて三族を滅ぼされた。

年表(6件)
  • 漢二年魏・河南を接収し韓・殷両王を降すが、四月に彭城で漢軍が敗散、滎陽で漢王と合流し楚を破る
  • 漢二年魏王豹を虜として魏地を平定し、代を破って夏説を捕らえる
  • 漢四年斉を平定し、仮王への任命を漢王に願い出て斉王に立てられる
  • 漢五年正月斉王から楚王に移され、下邳を都とする
  • 漢六年楚王としての謀反を告げられ捕らえられ、淮陰侯に降格される
  • 漢十年陳豨の反乱に呼応しようと画策するが密告され、呂后・蕭何に謀られて長楽宮で斬られ三族を滅ぼされる

出自と生い立ち

  • 韓信は淮陰の人。若い頃は貧しく素行も定まらず、官吏に推挙されることも商売で身を立てることもできず、人の家に食を寄せて多くの者に厭われた。下郷南昌の亭長の家に幾月も居候したが、亭長の妻は嫌気がさして食事の時刻をずらし、信に食を与えなかった。信はその意を悟って怒り、去った。
  • 城下で釣りをしていた際、布を漂す老女の一人が飢えた信を見て数十日にわたり食を恵んだ。信が「必ず厚く報いる」と言うと、老女は「王孫を哀れんで食を進めただけ、報いなど望まぬ」と怒った。
  • 淮陰の屠殺業の若者に「刀を帯びていても内心は臆病者だ」と侮られ、「死ねるなら刺せ、死ねぬなら股をくぐれ」と辱められた信は、じっと相手を見た末に股の下をくぐり、市の人々に臆病者と笑われた。

項梁・項羽への従軍

  • 項梁が淮水を渡った際、信は剣を杖に従い麾下にいたが名を知られなかった。項梁の敗死後は項羽に属し郎中となった。しばしば策を項羽に献じたが用いられなかった。

漢への帰順と蕭何の推挙

  • 漢王の入蜀に従い楚を離れ漢に帰したが、なお名を知られず連敖の職にあった。法に坐して斬られる際、同罪の十三人が既に斬られ次は信の番となったところ、滕公(夏侯嬰)を見て「上は天下を取る意がないのか、なぜ壮士を斬るのか」と言い、滕公はその言葉と容貌に驚き斬るのをやめた。語り合って大いに気に入り、上に推挙して治粟都尉に任じたが、上(漢王)はまだ信を特別視していなかった。
  • 信はしばしば蕭何と語り、蕭何も彼を評価した。南鄭に至る道中、諸将で逃亡する者が数十人に及んだ。信も、蕭何らが幾度も自分を推挙したのに上が用いないと見て逃亡した。蕭何は信の逃亡を聞くと、報告する間もなく自ら追った。人が「丞相の蕭何が逃げた」と告げると、上は左右の手を失ったように激怒したが、一、二日して蕭何が戻り「逃げたのではなく、逃げた者を追っていた」と答えた。追った相手が韓信だと聞いた上は「将は数十人逃げたのに追わなかったのに、信を追うとは偽りだろう」と罵ったが、蕭何は「他の諸将は得やすいが、信は国士無双。王が漢中に長く留まるだけなら不要だが、天下を争うつもりなら信なくして共に事を計れる者はいない」と説いた。漢王が東征を望むと蕭何は「信を用いれば留まり、用いねば必ず去る」と答えた。漢王は初め「将にしよう」と言ったが蕭何は「それでは留まらない」と諫め、「大将にする」との言に「幸甚」と応じた。
  • 蕭何は「王は元来横柄で、大将を子供のように呼びつければ信はまた去るだろう。吉日を選び斎戒し壇場を設け礼を尽くすべき」と説き、王はこれに従った。諸将は皆自分が大将に選ばれると喜んだが、拝命したのは韓信であり、全軍が驚いた。

漢中対(項羽との比較論)

  • 拝礼の後、漢王は信に策を問うた。信は「東で天下の権を争うのは項王ではないか」と問い、漢王が「そうだ」と答えると、「大王御自身、勇猛・仁・強さで項王に及ぶか」と重ねて問い、漢王は長く黙った末「及ばない」と答えた。
  • 信は再拝して賀し、項王の人となりを論じた。項王が一喝すれば千人が竦むが、賢将に任せられぬ匹夫の勇に過ぎない。人には恭敬慈愛を示し病人には涙して食を分けるが、功のある者への封爵は印を手の中で擦り切らせるほど惜しみ、これは婦人の仁である。天下に覇したのに関中に都せず彭城に都し、義帝との約束を破って親愛の者を王とし諸侯の不満を買った。義帝を江南へ追いやったことで諸侯も自国の主を逐って良地に王を称するに至った。項王の通過した地は残滅を免れず、天下は怨み、百姓は親しまず、ただ武威に脅されているに過ぎない。名は覇者でも実は天下の心を失っており、その強さはかえって弱まりやすい。
  • 大王がその道を逆にして天下の武勇を用い功臣に城邑を分与し、東帰を望む義兵を率いれば、天下は服し従うだろう。三秦の王(章邯・司馬欣・董翳)はもと秦の将として秦の子弟を多数死なせ、新安では項王が秦の降卒二十余万を欺いて生き埋めにしたが、邯・欣・翳の三人だけは逃れた。秦の父兄はこの三人を骨髄まで怨んでおり、秦の民は彼らを愛していない。一方、大王が武関に入った際は秋毫も害さず、苛法を除き法三章のみを民と約した。秦の民は大王が秦王となることを望んでおり、諸侯の約定でも大王は関中に王たるべきであった。それを失って漢中に入れられたことを秦の民は皆恨んでいる。今、大王が東に軍を挙げれば三秦は檄文一つで平定できると説いた。
  • 漢王は大いに喜び、信を得るのが遅かったと悟り、その計に従って諸将の配置を定めた。

三秦平定から井陘の戦いまで

  • 八月、漢王は陳倉から東進して三秦を平定した。漢二年、関を出て魏・河南を接収し韓・殷の両王が降った。斉・趙と合して楚を撃ったが、四月に彭城で漢軍は敗散した。信は兵をまとめ漢王と滎陽で合流し、京・索の間で楚を再び破って楚の西進を止めた。
  • 彭城で漢が敗れると塞王欣・翟王翳は漢から楚に降り、斉・趙も漢に反して楚と和した。魏王豹も国に帰るや河関を絶って漢に反した。漢王が酈生を遣わして説得しても豹は降らなかったため、八月、信を左丞相として魏を撃たせた。魏王が蒲坂に兵を盛り臨晋を塞ぐと、信は疑兵を陳船で見せかけ、伏兵を夏陽から木罌缻で渡し安邑を襲った。驚いた魏王豹を虜とし、魏の地は河東郡となった。漢王は張耳を信に添え、東進して趙・代を撃たせた。
  • 後九月、代兵を破り夏説を閼与で捕らえた。信が魏を下し代を破るたび、漢はその精兵を集めて滎陽に送り楚に当てさせた。

井陘の戦い

  • 信と張耳は数万の兵で東の井陘から趙を撃とうとした。趙王・成安君陳餘は井陘口に二十万と号する兵を集めた。広武君李左車は「韓信の軍は乗勝の遠征で鋭いが、千里の輸糧は兵を飢えさせる。井陘の道は車馬が並べぬ隘路で兵糧は必ず後方にある。私に奇兵三万を貸せば間道からその輜重を絶ち、貴殿は深く塹壕を掘り高く塁を築いて戦わずに守れば、十日以内に両将の首を得られる」と成安君に説いた。しかし儒者である成安君は「義兵は詐謀を用いぬ。兵法では十倍で囲み二倍で戦うというが、韓信の兵は数万と号しても実は数千に過ぎず、千里を襲ってきて既に疲弊している。これを避けて撃たねば諸侯に臆病と見られる」と広武君の策を用いなかった。
  • 韓信は間者からこれを知り大いに喜び、井陘口三十里手前に宿営した。夜半、軽騎二千人に赤旗を持たせ間道から山に潜んで趙軍を望ませ、「趙が我らを逃げたと見て空壁で追ってきたら、素早く趙の壁に入り趙の旗を抜いて漢の赤旗を立てよ」と命じた。裨将には「今日、趙を破って共に食事をしよう」と伝えたが、諸将は信じなかった。信は万人を先に出して背水の陣を敷かせ、趙軍はこれを見て大笑いした。夜明け、信が大将の旗鼓を掲げて井陘口から鼓行して出ると趙軍は壁を開いて撃ち、激しく戦った。信と張耳は旗鼓を捨てたふりをして水上軍に逃げ込み、水上軍は再び死戦して敗れなかった。趙軍は空壁にして漢の旗鼓を争って追ったが、その隙に伏せていた二千騎が趙の壁に入り趙の旗を抜いて漢の赤旗二千を立てた。趙軍は勝てぬまま壁に戻ろうとして赤旗を見て動揺し、漢が既に趙王・将を得たと誤解して総崩れとなり、趙将が斬っても止められなかった。漢軍は大いに撃って趙軍を破り、成安君を泜水の畔で斬り趙王歇を虜とした。
  • 信は軍中に広武君を殺すな、生け捕った者には千金を与えると命じた。縛られた広武君が連れてこられると信は自ら縄を解き、師として遇した。

背水の陣の理を説く

  • 諸将は首虜を献じて祝った後、「兵法では山陵を右背に、水沢を前左にすると言うのに、なぜ背水の陣を敷いて勝ったのか」と信に問うた。信は「兵法にも『死地に陥れてこそ生き、亡地に置いてこそ存する』とある。我が兵は日頃から統率された士大夫ではなく、いわば市人を駆り出して戦わせるようなもの。死地に置かねば人々は自ら戦わず、生きる余地を与えればすぐに逃げてしまう」と答え、諸将は皆感服した。

燕・斉への対応と広武君の献策

  • 信は広武君に「北の燕、東の斉を攻めるにはどうすればよいか」と問うた。広武君は「敗軍の将は勇を語れず、亡国の大夫は存を図れない」と辞退したが、信は「百里奚は虞にあっては虞が滅び、秦にあっては秦が覇したのは、用いるか用いないかの違いに過ぎない。成安君があなたの策を用いていれば私は捕らわれていた」と重ねて問うた。広武君は「智者も千慮に一失あり、愚者も千慮に一得あり」と述べ、「将軍の兵は疲弊しており、燕を堅城の下で攻めても長引けば齊が国境を固めて対抗し、燕斉が持久すれば劉項の帰趨も定まらない」と将軍の短所を指摘し、「兵を休め趙を鎮め、辺境に牛酒を送って士を饗し、後に弁士を送って燕に強みを示せば燕は従うだろう。燕が従えば斉にも風のように伝わり従うはず。兵には先に声威を示して後に実を成す道理がある」と説いた。信は「善し」と述べその策に従い、使者を燕に送ると燕は風になびくように従った。信はさらに漢へ報告し張耳を趙王に立てて国を鎮撫することを願い出、漢王はこれを許した。

漢王による軍権掌握と斉攻め

  • 楚はしばしば奇兵で黄河を渡って趙を撃ち、趙王耳と韓信は往来して趙を救いつつ趙の城邑を平定し、兵を漢に送った。楚が滎陽で漢王を急襲すると、漢王は南に出て宛・葉の間で黥布を得たのち成皋に入るが、また楚に急囲された。六月、漢王は成皋を出て東に黄河を渡り、滕公とだけで張耳の脩武の軍に至り、旅館に宿った。翌朝、漢の使者と称して趙の壁に馳せ入り、張耳・韓信がまだ起きぬうちにその寝所で印符を奪い、諸将を招集して入れ替えた。信と耳は起きて漢王の来訪を知り大いに驚いた。漢王は両人の軍を奪い、張耳に趙の地の守備を命じ、韓信を相国として趙の未発の兵を集め斉を撃たせた。

斉平定と龍且との戦い

  • 信は東に兵を進め平原を渡る前に、漢王が酈食其を遣わして既に斉を説き降したと聞き、進撃を止めようとした。范陽の弁士蒯通は「将軍は詔を受けて斉を撃つのに、漢が別に間使を送って斉を降したのは詔の停止ではない。酈生は一士で舌先三寸で斉の七十余城を下したのに、将軍は数万の兵で歳余かけて趙の五十余城しか下せなかった。将数年の功が一豎儒に劣るのか」と説いた。信はこれに従い黄河を渡った。斉は既に酈生に従い酒宴に浸り漢への備えを解いていたため、信は斉の歴下軍を襲い臨菑まで至った。斉王田広は酈生に欺かれたとして彼を煮殺し、高密へ逃れて楚に救援を求めた。信は臨菑を平定し東進して田広を高密の西まで追った。楚も龍且に二十万と号する兵を率いさせ斉を救援に送った。
  • 齊王廣と龍且は軍を合わせて信と戦おうとしたが、ある者が龍且に「漢兵は遠征の窮戦でその鋭さは防げない。斉楚は自国の地で戦えば兵が敗れやすい。深く塁を築き斉王に亡地の招撫をさせ、楚が救援に来たと知れば亡城は漢に反するはず。漢兵は二千里も客居しており斉の城が皆反すれば無戦で降せる」と進言したが、龍且は「韓信は与しやすい。戦わずに降させては何の功があるか」と拒み、濰水を挟んで信と対陣した。信は夜、万余の袋に砂を満たして水上流を堰き止め、軍を半ば渡らせて龍且を攻め、負けたふりをして退いた。龍且は「信は臆病だ」と喜んで水を渡って追ったところ、信は堰を切らせて大水を起こした。龍且軍の大半は渡りきれず、漢軍が急撃して龍且を殺した。龍且軍の東岸に残った兵は散走し、斉王広も逃げた。信は追撃して城陽まで至り楚兵をことごとく虜とした。

斉の仮王要求

  • 漢四年、斉を全て平定・降した信は漢王に使者を送り「斉は偽詐の変わりやすい国で南は楚に接しており、仮王を置いて鎮めなければ安定しない、仮王になりたい」と願い出た。ちょうど楚に滎陽で急囲されていた漢王は使者から書を受け取り「私はここで苦しみ日夜お前が来て助けるのを待っているのに、自ら王になろうとするとは」と怒って罵った。張良・陳平は漢王の足を踏んで耳打ちし「漢は今不利であり、信の王を禁じられようか。むしろ立てて厚遇し自ら守らせるべき。そうしなければ変事が起こる」と諫めた。漢王も悟り「大丈夫が諸侯を平定したら真王となるべきで、仮王など何だ」と改めて罵り、張良を送って信を斉王に立て、その兵を徴して楚を撃たせた。

武渉・蒯通の説得

  • 龍且を失った項王は恐れ、盱眙の武渉を斉王信に送って説かせた。「天下は秦に長く苦しみ共に秦を撃った。秦が破れて功を計り地を分け諸侯となって休んだのに、今、漢王は兵を興し東進し、他人の地を侵し既に三秦を破って関を出、諸侯の兵を集めて楚を撃ち、天下を尽く呑もうとする欲は際限がない。漢王は信用できず、項王の掌中に幾度もありながら助けられて逃げるたび約を破って再び項王を撃った。あなたと漢王は厚い交わりと思っていても、力を尽くしても最後には捕らえられるだろう。あなたが今日まで存在できているのは項王がまだいるからだ。今二王の運命はあなたの手中にあり、右に投じれば漢が勝ち、左に投じれば楚が勝つ。項王が今日滅べば次はあなたの番だ。項王とは旧交があるのに、なぜ漢に反して楚と結び天下を三分して王とならないのか」と説いた。韓信は「私は項王に仕えたが官は郎中、位は執戟に過ぎず、言も策も用いられなかったので楚を捨て漢に帰した。漢王は私に上将軍の印を授け数万の兵を与え、衣食を分け与え言を聴き策を用いてくれたので今日に至れた。深く信頼してくれる人に背くのは不祥、死んでも変えない」と断り、項王への謝意だけを武渉に託した。
  • 武渉が去った後、斉人蒯通は天下の権が韓信にあると知り奇策で動かそうとし、人相見の術を口実に信に説いた。「貴賤は骨相に、憂喜は容色に、成敗は決断にある」と述べ、信の望みで人払いをした上で「あなたの顔相は封侯止まりで危うい。しかし背相は言葉にできぬほど貴い」と告げた。蒯通は続けて、秦滅亡以来の乱世で楚漢が争い天下の無罪の民が肝脳を地に塗り骸骨を野に晒すこと数知れず、楚は彭城から転戦して滎陽に迫るも三年膠着し、漢王も数十万を率いながら鞏・雒の険に拠って連戦連敗し宛・葉に走った智勇共に困窮した状態にあると説き、「両主の運命はあなたの手にある。漢に付けば漢が勝ち楚に付けば楚が勝つ。聴くもよし用いぬもよし、私は肝胆を披瀝して愚計を献じたい。両者を共に存し天下を三分して鼎足とすれば、あなたの賢聖と強斉・燕趙の従属をもって空虚の地から後方を制し、民の望みに従って西に百姓のため命乞いすれば天下は風のごとく応じ、諸侯を割いて立てれば徳は斉に帰する。天が与えるものを取らねば咎めを受け、時が至って行わねば災いを受けるという。よく考えられよ」と献策した。しかし信は「漢王は私を厚遇し、その車に乗せ、その衣を着せ、その食を食べさせてくれた。人の車に乗る者はその患を負い、人の衣を着る者はその憂いを懐き、人の食を食べる者はその事に死すという。利に向かって義に背けようか」と拒んだ。
  • 蒯生はさらに、常山王(張耳)と成安君(陳餘)がかつて刎頸の交わりを結びながら張黶・陳澤の一件で相怨み、常山王が漢に帰して漢の兵を借り成安君を泜水で殺し首足を異にした故事や、大夫種・范蠡が越を存続させ句践を覇にしながら身を滅ぼした故事(「野獣尽きて猟犬煮らる」)を挙げ、信の漢王との交わりも張耳・成安君ほど固くなく事はより大きい、忠信も種・范蠡に及ばないと説いた。さらに「勇略が主を震わせる者は身が危うく、功が天下を覆う者は賞されない。あなたは西河を渡り魏王を虜にし夏説を捕らえ井陘を下し成安君を誅し趙を平定し燕を脅し斉を定め、南に楚の二十万を摧き東に龍且を殺した。功は天下に二つとなく略は世に稀である。今、震主の威と賞し得ぬ功を抱えて楚に帰れば楚人は信じず、漢に帰れば漢人は震え恐れる。人臣の位にありながら主を震わす威を持てば、身の安全は危うい」と重ねて説いたが、信は「先生、しばらく休まれよ。私は考えてみる」とだけ答えた。
  • 数日後、蒯通はさらに「聴くことは事の兆し、計は事の機であり、聴き誤り計を失ってなお久しく安泰な者は稀である」「猛虎の躊躇いは蜂蠆の一刺しに劣り、騏驥の逡巡は駑馬の安歩に及ばず、孟賁の狐疑は凡夫の必行に及ばない。舜禹の智があっても口を噤めば瘖聾の身振りにも及ばない、行うことを尊ぶ」と説き、「功は成り難く敗れ易く、時は得難く失い易い。時は再び来ない、よく考えられよ」と迫った。しかし信は漢に背くに忍びず、また自らの功の大きさから漢が斉を奪うまいと考え蒯通を退けた。蒯通は説が用いられないと悟ると狂人を装って巫となった。

楚王への転封と滎陽以後

  • 漢王が固陵で困窮した際、張良の計を用いて斉王信を召し、垓下で軍を合わせた。項羽が破れると高祖は斉王の軍を襲い取った。漢五年正月、斉王信を楚王に移し、下邳を都とした。
  • 信は国に至ると自分に食を恵んだ漂母を召して千金を与え、下郷南昌の亭長には百銭を与えて「あなたは小人物だ、徳を最後まで施さなかった」と告げた。かつて辱めて股をくぐらせた若者を楚の中尉に取り立て、諸将相に「これは壮士である。あの時辱められて彼を殺すこともできたが、名分がなく忍んで今に至った」と語った。

楚王反逆の嫌疑と淮陰侯への降格

  • 項王の亡将鍾離眜は伊盧に家があり、もとより信と親しく、項王の死後に信のもとへ逃れた。漢王は眜を怨み楚に捕縛を命じたが果たされなかった。信が国に赴いて県邑を巡る際に兵を並べて出入りしたため、漢六年、人が上書して楚王信の謀反を告げた。高帝は陳平の計を用い、天子が諸侯を巡狩し会するとして雲夢に遊ぶと諸侯に告げ、実は信を襲おうとしたが信は知らなかった。
  • 高祖が楚に近づくと、信は兵を発して反乱を起こそうとしたが自ら罪なしとして拝謁も考え、捕らえられることを恐れた。ある者が「眜を斬って上に謁見すれば必ず喜び患いはない」と勧め、信は眜と相談した。眜は「漢が楚を撃たないのは私がここにいるからだ。私を捕らえて漢に媚びるなら私は今日死に、あなたも間もなく滅びる」と言い放ち「あなたは長者ではない」と信を罵って自ら首を刎ねた。信はその首を持って陳で高祖に謁したが、上は武士に信を縛らせ後ろの車に乗せた。信は「果たして人の言う通り、狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国破れて謀臣亡ぶというやつだ。天下が定まった以上、私も煮られる運命なのだ」と嘆いた。上は「お前が謀反を告げられたのだ」と言い信を械繋した。雒陽に至ると信の罪を赦し、淮陰侯とした。

淮陰侯としての晩年

  • 信は漢王が自分の才を畏れ嫌っていることを知り、病と称して朝見を避けるようになった。日夜怨みを抱き鬱々とし、絳侯(周勃)や灌嬰と同列に置かれることを恥じた。かつて樊噲将軍の家を訪れた際、噲が跪いて臣と称し「大王が私の所に来てくださるとは」と迎えたのに対し、信は門を出て「生きてまた噲などと同列になろうとは」と笑った。
  • 上はくつろいだ様子で信と諸将の器量を語り合い、それぞれ差があるとした。上が「私はどれほどの兵を率いられるか」と問うと、信は「陛下はせいぜい十万」と答えた。「では君はどうか」と問われ「私は多ければ多いほどよい」と答えた。上が「多々益善というならなぜ私に捕らえられたのか」と笑うと、信は「陛下は兵を率いるのは得意でないが、将を統べるのに長けている。それこそ私が陛下に捕らえられた理由。それに陛下は天の授けであって人力ではない」と答えた。

陳豨との謀議と誅殺

  • 陳豨が鉅鹿の守に拝された際、淮陰侯に暇乞いをした。淮陰侯はその手を取り左右を退けて庭を歩みながら天を仰いで嘆息し「お前に話せることか」と切り出した。豨が「将軍の命に従います」と答えると、淮陰侯は「あなたの任地は天下の精兵の集まる所であり、陛下の信頼厚い臣でもある。人があなたの謀反を告げても陛下は最初は信じず、二度目で疑い、三度目で怒って自ら出陣するだろう。その時、私が中で呼応すれば天下は図れる」と持ちかけた。陳豨は日頃から信の才を知っており「謹んで教えを奉じます」と応じた。漢十年、陳豨は果たして反乱を起こし上自ら討伐に赴いたが、信は病と称して従わなかった。密かに人を豨のもとへ送り「兵を挙げよ、私も助ける」と伝えた。
  • 信は家臣とともに夜、詔を偽って諸官の徒隷を発し呂后・太子を襲おうと部署を定め、豨からの報告を待った。ところが信に罪を得た舎人が捕らえられそうになり、その弟が呂后に信の謀反を密告した。呂后は信を召そうとしたが与党が動かぬことを恐れ、蕭相国と謀り、上のもとから来たと偽らせ豨が既に死んだと伝え、列侯群臣に賀を求めた。相国は信を「病でも無理をして参内し賀を述べよ」と欺いた。信が参内すると呂后は武士に信を縛らせ、長楽宮の鐘室で斬らせた。信は斬られる際「蒯通の計を用いなかったことを悔やむ、女子供に欺かれるとは天命か」と嘆いた。ついに信の三族は皆滅ぼされた。

高祖と蒯通のやりとり

  • 高祖は豨の軍から帰り、信の死を聞くと喜びと憐れみの両方を覚え「信は死に際に何と言ったか」と問うた。呂后が「蒯通の計を用いなかったのを恨んでいた」と答えると、高祖は「それは斉の弁士だ」と言い、蒯通の捕縛を命じた。蒯通が至ると上は「お前は淮陰侯に謀反を教えたのか」と問い、蒯通は「その通り、確かに教えた。あの豎子が私の策を用いなかったのでこのように自ら滅んだ。もし用いていたら陛下がどうして彼を滅ぼせただろうか」と答えた。怒った上が「煮よ」と命じると、通は「ああ、煮られるとは冤罪だ」と嘆いた。「韓信に謀反を教えて何の冤罪か」と問われ、通は「秦の綱紀が緩んだ時、山東は大いに乱れ異姓が並び立ち英俊が集まった。秦がその鹿を失い天下が共に追う中、才知と足の速い者が先に得た。蹠の犬が堯に吠えるのは堯が不仁だからではなく、飼い主でない者に吠えるからだ。当時、私は韓信を知るのみで陛下を知らなかった。それに天下には陛下と同じことをしようとする者が多くいたが、力が足りなかっただけだ。それらを皆煮ることができようか」と答えた。高帝は「よい、放っておけ」と述べ、蒯通の罪を赦した。

史論

  • 太史公は言う。淮陰へ赴いた際、地元の人が語るところでは、韓信は布衣の頃からその志は人と異なり、母の死に際して貧しく葬る余裕がなかったが、後々一万戸を置けるほどの高く広い地を選んで営んだという。実際に母の墓を見るとその通りであった。もし韓信が謙譲の道を学び、自らの功を誇らず能を誇らなかったなら、漢家における勲功は周公・召公・太公望に比肩し、後世まで血食を受けたであろう。それをせず、天下が既に定まってなお謀反を企てて宗族を滅ぼしたのは、当然の帰結と言うべきである。