史記卷九十一 列傳第三十一 黥布
黥布(英布、?–前196年)は六の人。秦代に法に触れて黥刑を受けたのち群盗となり、陳勝の挙兵を機に挙兵、項梁・項羽に従って軍功を重ね九江王に封じられた。のち随何の説得で漢に帰順して淮南王となり、垓下の戦いで楚を破る功を立てた。韓信・彭越の誅殺を見て身の危険を恐れ挙兵したが、高祖に敗れて長沙哀王に欺かれ殺された。
出自と若き日
- 黥布(英布)は六の人、姓は英氏。秦代は庶民であった。若い頃、相者に「刑を受けてから王となる」と予言され、壮年で法に触れて黥刑(顔面刺青)を受けた際、布は喜んで「予言が当たるのか」と笑い、人々は嘲笑した。麗山(始皇陵)の労役に送られ、数十万の徒とともに豪傑と交わり、やがて仲間を率いて江中に逃亡し群盗となった。
秦末の挙兵と項梁・項羽への従属
- 陳勝の挙兵に際し、布は番君(呉芮)に会い秦に叛いて数千の兵を集め、番君は娘を布に嫁がせた。章邯が陳勝を滅ぼし呂臣の軍を破ると、布は秦の左右校を清波で破って東進、項梁が江東で挙兵したと聞くと江を渡って合流した。項氏に従っていた陳嬰も項梁に属し、蒲将軍とともに英布も項梁の軍に加わった。
- 項梁が景駒・秦嘉らを撃つ際、布は常に軍功最高であった。項梁は薛で楚懐王を立て武信君と号し、布は当陽君となった。項梁が定陶で敗死すると懐王は彭城に遷都し、布ら諸将も彭城を守った。秦が趙を急襲すると懐王は宋義を上将、范増を末将、項籍を次将とし、布・蒲将軍を将軍として救援に向かわせた。項籍が河上で宋義を殺し上将軍となると諸将は項籍に属し、布は先鋒として渡河し秦軍を破って章邯らを降した。楚軍は連戦連勝し、諸侯の兵が楚に服属したのは布の少数精鋭による戦功が大きい。
- 項籍が新安へ進軍した際、布らは夜襲で章邯の秦兵二十余万を生き埋めにした。関に至って入れなかった際も布らが間道から先に破って進路を開き、咸陽に至るまで常に軍の先鋒を務めた。項王が諸将を封じる際、布は九江王に立てられ六を都とした。
義帝暗殺と楚からの離反
- 漢元年(前206年)4月、諸侯はそれぞれ本国へ帰った。項氏は義帝(懐王)を長沙へ遷し、ひそかに九江王布らに暗殺を命じた。同年8月、布は部将を遣わし義帝を郴県で追殺させた。
- 漢2年(前205年)、斉王田栄が楚に叛くと項王は斉討伐のため布に出兵を求めたが、布は病と称し数千の兵のみを派遣した。漢が彭城で楚を破った際も布は援護しなかった。項王はこれを恨み使者を送って責めたが、北の斉・趙、西の漢を憂う項王は、布の武才を惜しみあえて攻めなかった。
- 漢3年(前204年)、漢王は彭城の大戦に敗れ虞へ退いた際、「ともに天下を語るに足る者がいない」と嘆いた。謁者・随何が淮南(布)への使者を志願し、20人で赴いたが3日間面会できなかった。随何は太宰を説き「王が私に会わぬのは楚を強く漢を弱いと見ているからだ、会えば漢が有利であることを示せる、会わずして殺すも本望」と述べ、ようやく布に謁見した。随何は「王は楚に臣従しながら実際には援軍を出し惜しみ、漢の彭城の戦いでも傍観していた、これは真に国を託す者の姿ではない」と指摘し、楚が不義の名を負い兵站に困難を抱える一方、漢は堅守して有利な立場にあると説き、「王が挙兵して楚に叛けば項王は必ず足止めされ、漢の天下取りは万全となる、王には漢王が必ず地を裂いて封じるであろう」と離反を勧めた。布は「命に従おう」と密かに漢への帰順を約した。
- 折しも楚の使者が布に出兵を督促していたところ、随何は「九江王はすでに漢に帰した」と告げて楚使を驚かせ、布に楚使殺害と挙兵を勧めた。布はこれに従い楚使を殺して楚を攻撃した。楚は項声・龍且を派遣し、龍且の攻撃で布は敗れた。布は妻子を項伯に殺されながらも間道を経て随何とともに漢に帰順した。
漢の淮南王として
- 漢に着いた布は当初、漢王の傲慢な態度(踞して洗っていた)に憤り自殺を考えたが、後に帳幕・飲食など漢王に準じる待遇を受けると大いに喜んだ。故人・幸臣を頼り九江の兵数千を漢に帰属させ、成皋で兵を収めた。漢4年(前203年)7月、布は淮南王に立てられ項籍討伐に加わった。漢5年(前202年)、九江に人を送り数県を得た。漢6年(前201年)、劉賈とともに九江に入り大司馬・周殷を寝返らせ、垓下で楚を破った。
- 項籍死後、高祖は随何の功を軽んじ「腐儒」と評したが、随何は「歩兵5万・騎兵5千でも成し得なかった淮南平定を、私は20人で成し遂げた、それでも腐儒と言われるのか」と反論、高祖は納得し随何を護軍中尉とした。布は正式に符を分かたれて淮南王となり、九江・廬江・衡山・豫章の四郡を領した。漢7年(前200年)陳に、8年(前199年)雒陽に、9年(前198年)長安に朝した。
反乱への傾斜
- 漢11年(前196年)、高后が淮陰侯(韓信)を誅すると布は恐れを抱いた。同年夏、漢が梁王彭越を誅殺し塩漬け(醢)にして諸侯に配ると、布はこれを見て大いに恐れ、ひそかに兵を集め周辺郡の動静を伺った。
- 布の寵姫が病にかかり、医者の家に通ううち隣に住む中大夫・賁赫と親しくなった。姫が布に賁赫を「長者」と褒めると布は怒り姫との関係を疑った。賁赫は恐れ病と称して逃れようとしたが布はますます疑いを深め捕らえようとしたため、賁赫は長安へ逃げ布の謀反を密告した。蕭何は「怨恨による誣告の可能性がある、赫を繋いで慎重に検証すべき」と進言したが、布は賁赫の逃亡と密告を知ってすでに疑いを深めており、漢の使者の動きにも不審な点があると見て、賁赫の一族を族滅し挙兵、反乱に至った。上は賁赫を赦し将軍とした。
薛公の予言と決戦
- 高祖が諸将に問うと皆「討伐は容易」と楽観したが、汝陰侯・滕公が食客の元楚令尹(薛公)に問うと、令尹は「反乱は当然」と答え、その理由を「昨年彭越、一昨年韓信が誅された、この三者は功を同じくする間柄、身に禍が及ぶことを恐れて反乱に及んだのだ」と説いた。滕公の推挙で高祖に召された薛公は、布の取りうる三つの計を示した。上計は呉・楚を取り斉・魯を并せ燕・趙に檄を伝えて山東を制するもの、中計は呉・楚を取り韓・魏を并せ敖庾の粟に拠り成皋の口を塞ぐもので勝敗は未知数、下計は呉と下蔡のみを取り越に重きを置いて長沙へ退くもので、これなら陛下は安枕でいられるという。薛公は「布は麗山の徒出身で目先の利しか考えない、必ず下計を選ぶ」と予言し、高祖はこれに従い薛公を千戸に封じ、皇子・劉長を淮南王に立てて自ら東征に発った。
- 布は当初「上は老いて厭戦、諸将で恐れるべきは淮陰・彭越だけだったが今は死んだ、恐れるものはない」と楽観して反乱を続行した。予言通り下計を取り、東の荊を破って荊王・劉賈を敗死させ、楚を攻めた。楚軍は徐・僮の間で三軍に分かれ相互に助け合う陣形を敷こうとしたが、ある者が「布は用兵に長け民は畏れている、分散すれば各個撃破される」と諫めたにもかかわらず聞き入れられず、布は果たしてその一軍を破り残る二軍も敗走した。
- 布はさらに西進し、蘄西・会甀で高祖の軍と対峙した。布の陣立ては項籍の軍を思わせるほど精強で高祖は警戒した。両者が遠くから対話し、高祖が「何を苦しんで反乱したのか」と問うと、布は「帝になりたかっただけだ」と答え、高祖は怒り罵って大戦となった。布の軍は敗走し、淮を渡って数度戦いを試みるも利あらず、百余人と江南へ逃れた。布はかつて長沙哀王(番君の子)と姻戚関係にあったため信じてこれに従ったが、哀王は布を欺いて越へ誘い、番陽の民に殺させ、黥布は滅んだ。
- 戦後、皇子・劉長が改めて淮南王に立てられ、賁赫は期思侯に封じられ、諸将も多くが功により封じられた。
史論
太史公曰く。英布の先祖はもしや『春秋』に見える、楚に滅ぼされた英・六の国、皋陶の後裔ではないか。刑を受けた身でありながら、その興起は何と激しかったことか。項氏が人を生き埋めにすること千万を数えた際、布は常にその先頭に立った。功は諸侯に冠たるものがあり、それによって王となったが、結局は世の大戮を免れなかった。禍いの発端は愛姫から生じ、嫉妬が禍を生んで、ついに国を滅ぼすに至った。