史記卷九十 列傳第三十 彭越
彭越(字は仲)は昌邑の人。鉅野沢で漁をしながら群盗の頭領となり、のち魏地を平定して漢に帰属、遊撃戦で楚の糧道を絶つなど楚漢戦争で功を挙げ梁王に封じられた。のち陳豨討伐への徴兵要請を病と称して拒んだことから謀反を疑われて捕らえられ、呂后の進言により宗族もろとも誅滅された。
群盗の頭領
- 彭越、字は仲、昌邑の人。常に鉅野沢で漁をしながら群盗の頭となっていた。陳勝・項梁の挙兵の際、少年たちに挙兵を勧められても「両龍がまさに闘っている、しばらく様子を見よう」と応じなかった。
- 1年余り後、沢のあたりの少年百余人が彭越のもとに集まり頭領となるよう求めた。彭越は固辞したが強く請われて承諾し、集合に遅れた者は斬ると布告した。当日、十余人が遅刻し、最も遅い者は日中まで現れなかった。彭越は「老いた身ながら諸君に頭領を求められた、皆殺すわけにはいかぬが最も遅れた者一人は斬る」と述べて実行させた。人々は大いに驚き畏れ、以後は命令に従うようになった。彭越は各地を略し諸侯の散兵を集めて千余人を得た。
漢への帰属と梁の平定
- 沛公が碭から北の昌邑を攻めた際、彭越はこれを助けたが昌邑は落ちず沛公は西へ去った。彭越はその後も鉅野に留まり魏の散兵を集め、項籍が関中に入り諸侯を王として引き上げた後も帰属先を持たず万余人を擁していた。
- 漢元年秋、斉王田栄が項王に叛くと、漢は彭越に将軍印を与え済陰で楚を撃たせ、彭越は楚の蕭公角の軍を大破した。漢王2年(前205年)春、彭越は三万余の兵を率いて外黄で漢に帰属した。漢王は「彭将軍が魏地の十余城を得た、魏の後継を急ぎ立てたい、西魏王豹は魏王咎の従弟で真の魏の後継である」と述べ、彭越を魏の相国に任じ、独自に兵を率いて梁地を平定させた。
遊撃戦と梁王への封
- 漢王が彭城で敗れ西へ退くと、彭越は占領地をすべて失い、単身兵を率いて黄河のほとりに退いた。漢王3年、彭越はしばしば漢のための遊撃戦を行い、楚の後方の糧道を梁地で絶った。漢4年(前203年)冬、彭越は睢陽・外黄など十七城を落としたが、項王が曹咎に成皋を守らせ自ら奪回に向かうと再び楚の手に落ち、彭越は穀城まで退いた。漢5年(前202年)秋、項王が南の陽夏へ退く隙に彭越は昌邑周辺二十余城を落とし、穀物十余万斛を得て漢王に供給した。
- 漢王が敗れ諸侯に合流を求めた際、彭越は「魏地がまだ定まらず楚を恐れている」として応じなかった。漢王が項籍に固陵で敗れると留侯(張良)に「諸侯の兵が従わぬ、どうすべきか」と問うた。留侯は「斉王・韓信の擁立は陛下の本意ではなく、信も自らの立場に確信がない。彭越はもともと梁地を平定した功が多いのに魏豹の存在のため相国に留められた、今豹は死んで後継もいない、彭越も王となることを望んでいるのに陛下はまだ決めていない。この二国に、勝てば睢陽以北・穀城までを彭相国に、陳以東・海に至る地を斉王信に与えると約すれば、二人は今すぐ動くだろう」と進言した。漢王がその通りにすると、彭越は兵を挙げて垓下に集結し、楚を撃破した。漢5年、項籍が死ぬと彭越は梁王に立てられ定陶を都とした。
謀反の疑いと族滅
- 漢6年、彭越は陳に朝した。9年、10年にも長安に朝した。10年(前197年)秋、陳豨が代で反乱を起こすと高帝は自ら討伐に赴き、邯鄲で梁王に徴兵を命じた。梁王は病と称し部将のみを派遣した。高帝は怒って譴責の使者を送り、梁王は自ら謝罪に赴こうとしたが、部将・扈輒は「一度見送られて後に譴責され赴けば捕らわれるだけ、いっそ挙兵すべき」と勧めた。梁王は従わず病と称し続けたが、太僕を斬ろうとしたことで太僕は漢に逃亡し、梁王と扈輒の謀反を密告した。上は密かに梁王を襲い捕らえ、雒陽に幽閉した。
- 有司の取調べで謀反の形跡ありとされたが、上は赦して庶人とし蜀の青衣県へ移送した。道中、鄭で呂后と行き合い、彭王は無実を訴え昌邑への帰還を願った。呂后は承知して同行させ雒陽に戻ったが、上に「彭王は壮士であり、蜀へ流せば後の禍根となる、むしろ誅すべき、私が連れ帰った」と進言した。呂后はその舎人に彭越の再度の謀反を告発させ、廷尉・王恬開が族滅を上奏、上はこれを許し、彭越の宗族は誅滅され国は除かれた。
史論
太史公曰く。魏豹・彭越はもとは卑賤の身でありながら、千里の地を席巻して南面し王を称し、勝利の血なまぐさい戦功が日々聞こえるほどであった。しかし謀反の意を抱き、敗れるや死を選ばず虜囚となり、身に刑戮を受けたのはなぜか。中位以上の人物でさえその行いを恥じるであろうに、まして王たる者においてをや。彼らに特別な理由があったわけではなく、知略が人に優れながらも、ただ自らの身を全うする道に欠けていたのである。わずかな権柄を握るとたちまち雲が湧き龍が変ずるように大成を望み、その願いを遂げようとしたがゆえに、幽囚の身となっても悔いることがなかったのであろう。