兄・魏咎の擁立と滅亡
- 魏豹は故魏の公子。兄・魏咎はかつて魏の寧陵君に封じられていたが、秦が魏を滅ぼすと庶民に落とされた。陳勝が挙兵すると咎はこれに従った。陳勝が周市に魏地平定を命じると、魏地の人々は周市を魏王に推したが、周市は「天下が乱れてこそ忠臣が現れる、道理として魏王の後継を立てるべき」と辞退し、陳から魏咎を迎えた。使者が五度往復した末、陳勝は咎を魏王に立てることを許した。
- 章邯が陳勝を破った後、臨済で魏王を攻めた。魏王は斉・楚に救援を求め、項它・田巴らが兵を率いて赴いたが、章邯は周市らの軍を撃破して臨済を包囲した。魏咎は民のために降伏を約し、約定が成ると自ら焼身自殺した。
西魏王への封と離反、死
- 魏豹は楚に逃れ、楚懐王から数千の兵を得て魏地を回復し、項羽が秦を破り章邯を降した後には魏の二十余城を落とし魏王に立てられた。豹は精兵を率いて項羽に従い関中に入った。漢元年(前206年)、項羽が諸侯を封じる際、自ら梁の地を得たいがために魏豹を河東に移し西魏王とした。
- 漢王が三秦を平定し臨晋を渡ると、魏豹は国を挙げて漢に属し彭城の戦いにも従軍した。漢が敗れると魏豹は親の病を口実に帰国し、黄河の渡し場を絶って漢に背いた。漢王は東方の楚に忙殺されながらも酈生を遣わして説得させたが、魏豹は「人の一生は白駒が隙を過ぎるようなもの、漢王は諸侯・群臣を奴のごとく罵り礼節がない、二度と会いたくない」と拒んだ。漢王は韓信を遣わし河東で魏豹を虜にして滎陽へ送り、その国を郡とした。漢王は魏豹に滎陽の守備を命じたが、楚の急襲の中、周苛によって殺害された。