出自と入秦
- 蔡澤は諸侯に遊説したが用いられなかった。人相見の唐挙に「先生は李兌を占い『百日以内に国政を握る』と言い当てたそうだが」と尋ね、自身の相を問うと、唐挙は容貌の醜さを挙げつつも「聖人は相に表れぬというから、あるいは」と答えた。寿命を問うと「今から43年」と告げられ、蔡澤は「肉を食らい富貴を極め、金印紫綬を帯びて人主に接するなら43年で十分」と笑って去った。趙・韓・魏を巡ったが受け入れられず、応侯が鄭安平・王稽の罪で苦境にあると聞き、秦に入った。
范睢説得
- 蔡澤は自分が応侯の地位を奪うと吹聴させて怒らせ、面会にこぎつけた。会うと横柄な態度を取り、応侯に「私が秦相に代わると言ったそうだが本当か」と問われ「然り」と答えた。
- 蔡澤は四季の巡りと成功者の退き際を説き、商鞅・呉起・大夫種の三者を例に、彼らは君に忠を尽くしながらも功成って後に非業の死を遂げた(商鞅は車裂き、白起は自刎を賜り、呉起は八つ裂き、大夫種は句踐に殺された)ことを述べ、「功成りて去らざれば禍これに至る」と説いた。范蠡だけは事を悟って身を退き陶朱公として天寿を全うしたことを対比させた。
- さらに応侯自身の功はすでに極まっており(三川に利を及ぼし宜陽を実らせ、羊腸・太行の険を制し六国の合従を断ち、蜀漢に棧道を通じさせた)、これ以上位に留まれば四子と同じ禍を招くと説き、相印を返上して賢者に譲り、隠退して長く応侯の名を保つべきだと勧めた。応侯はこれに感服し、蔡澤を上客として迎えた。
拝相と晩年
- 数日後、応侯は昭王に蔡澤の弁舌と識見を推挙し、昭王は蔡澤を召して客卿とした。応侯は病と称して相印の返上を願い出、昭王は初めは慰留したが、応侯が固く病篤を称えたため、ついに范睢は相を退き、蔡澤が秦の相となって東周を収めた。
- 蔡澤も相となって数月で人に憎まれ、誅殺を恐れて病と称し相印を返上、綱成君と号した。秦に十余年留まり、昭王・孝文王・荘襄王に仕え、始皇帝の代には燕への使者を務め、3年後に燕の太子丹が秦に人質として入った。
史論
- 太史公は「長袖は善く舞い、多銭は善く賈す」との韓非子の言を引き、范睢・蔡澤のような一流の弁士でも、諸侯遊説では白髪に至るまで機会を得られなかったのは策の拙さではなく、遊説先の国力の強弱による、と評する。二人が秦に入って卿相の地位を継いだのは、秦の強大さゆえである。士には偶然の巡り合わせがあり、この二人のような賢者でも意を得ぬ者は数え切れない。しかし困窮なくして、この二人の奮起はなかったであろう、と結ぶ。