出自と受難
- 范睢は魏人、字は叔。諸侯遊説を志したが家貧しく、まず魏の中大夫・須賈に仕えた。
- 須賈の斉への使いに随行した際、斉の襄王が范睢の弁舌を聞き金十斤と牛酒を贈ったが、范睢は辞退した。須賈はこれを范睢が魏の機密を斉に漏らした証と誤解し激怒、帰国後に魏の相・魏斉(魏の公子)に告げた。魏斉は舎人に范睢を鞭打たせ肋骨と歯を折り、范睢は死んだふりをして簀に巻かれ厠に置かれた。酔った賓客に小便までかけられる辱めを受けたが、番人に「出してくれれば厚く謝礼する」と持ちかけ、死体として運び出させて脱出した。後に魏斉が後悔して再び捜索させたため、范睢は魏人・鄭安平の助けで身を隠し、張禄と名を変えた。
秦への亡命
- 秦の昭王の使者・王稽が魏を訪れた際、鄭安平は卒を装って接近し、賢人を求める王稽に「里に張禄先生あり、天下の事を語りたいが仇がいて昼は会えない」と紹介した。夜に対面した王稽は范睢(張禄)の賢を見抜き、密約を交わして三亭の南で待たせた。
- 王稽は魏を発つ際に范睢を車に乗せて秦へ向かった。途中、秦の相・穣侯(宣太后の弟)の一行と行き会い、諸侯の客を嫌う穣侯を恐れた范睢は車中に身を隠した。穣侯は特に異状なしと立ち去ったが、范睢は「智士である穣侯は後で気づくはず」と読み、車を降りて歩いた。案の定、穣侯は騎馬を戻して車を検めさせたが客はすでにいなかった。王稽は范睢を伴い咸陽に入った。
- しかし秦王(昭王)は范睢をすぐには信用せず、粗末な待遇のまま一年余り放置した。
秦王への説客
- 当時、昭王は即位36年。楚の鄢郢を落とし懐王を秦で客死させ、斉を破って湣王を一時称帝させたが取り消させ、三晋をたびたび苦しめていたが、天下の弁士を疑って信用しなかった。
- 穣侯(華陽君、昭王の母・宣太后の弟)と涇陽君・高陵君(昭王の同母弟)は封邑を持ち王室以上に富み、穣侯は韓・魏を越えて斉の綱・寿を攻めようとしていた。范睢は上書し、功に応じた賞罰の必要、無用に疑われる立場にある自身の危うさを述べ、王への謁見を求めた。昭王はこれに感じ入り、傳車で范睢を召した。
- 范睢は王の永巷に迷い込んだふりをして宦者と諍いを起こし、「秦に王などいない、太后と穣侯がいるだけだ」とわざと発言して昭王を怒らせ関心を引いた。昭王は謝罪し賓主の礼で迎えたが、范睢は三度問われても「唯唯」とだけ答え、本題を避けた。
- 昭王が重ねて教えを乞うと、范睢は太公望が文王に出会った故事を引き、交誼の浅い自分が骨肉の間に立ち入る大事を語ることの危険を述べつつも、死を恐れず秦のために尽くす覚悟を語った。伍子胥・箕子・接輿の例も挙げ、自分の死後、天下が忠言を憚るようになることこそ恐れると述べ、太后・姦臣に阻まれる王の立場を案じた。昭王は跪いて重ねて教えを求め、范睢もついに拝礼して応じた。
遠交近攻策
- 范睢は秦の地勢の要害と民の勇猛を称え、覇業の可能な条件は揃っているのに十五年も関を出られぬのは穣侯の失策であると述べた。左右に盗聴者を憚り、まず外交策から説いた——穣侯が韓魏を越えて斉の綱・寿を攻めるのは得策でなく、遠く攻めて近くを疎かにするのは「賊に兵を貸し盗人に糧を送る」に等しい。遠交近攻し得た土地は確実に王のものとなる、と説き、中山を独占した趙の例、韓魏こそ天下の枢要であり親しむべきことを述べた。昭王はこれに従い韓魏との親交を図り、范睢を客卿として兵事を諮った。范睢の策により五大夫綰が魏を攻め懐を抜き、二年後に邢丘を抜いた。
- 客卿・范睢はさらに韓を秦に取り込む策を説き、滎陽を攻めれば韓の国土は三分され服属せざるを得ないと進言した。
- さらに范睢は太后・穣侯・華陽君・高陵君・涇陽君の「四貴」が権を専らにし王の存在感がないことを指摘し、崔杼・淖齒が斉王を、李兌が趙の主父を弑した例を引いて危機を説いた。昭王は大いに恐れ、太后を廃し穣侯・高陵・華陽・涇陽君を関外に追放、范睢を相とした。穣侯の財宝は王室を上回るほどであった。
拝相と復讐
- 昭王41年、范睢は応(地名)に封じられ応侯と号した。
- 魏は范睢がすでに死んだと思い込んでいたが、秦が韓魏東伐を計画すると須賈が秦への使者となった。范睢は身をやつして須賈を訪ね、貧窮を装って同情を引き、須賈から綈袍を与えられた。須賈が秦の実権者・張君(范睢自身)への口利きを頼むと、范睢は自ら車を御して秦の相府に案内し、須賈を驚かせた。須賈は正体を知って肉袒して謝罪し、范睢は過去の三つの罪(讒言・傍観・辱め)を数え上げつつも、綈袍の情に免じて赦した。范睢は諸侯の使者を招いた宴で須賈だけを堂下に座らせ馬の飼料を食わせる辱めを与え、魏斉の首を差し出さねば大梁を屠ると魏王に伝えさせた。魏斉は趙に逃れ平原君の屋敷に匿われた。
- 王稽は自らの功に対する処遇の薄さを范睢に訴え、范睢は昭王に取り成して王稽を河東守に任じ、鄭安平も将軍に取り立てられた。范睢は家財を散じて恩には必ず報い、些細な恨みにも必ず報復した。
- 相となって2年、昭王42年、韓の少曲・高平を攻略した。
- 昭王は魏斉が平原君の下にいると知り、平原君を秦に招いて饗応した末に魏斉の引き渡しを迫ったが平原君は友を売らず拒んだ。昭王は趙王に書を送り、魏斉を差し出さねば趙を攻めると脅迫、趙王は平原君の屋敷を包囲させた。魏斉は逃れて趙の相・虞卿を頼ったが、虞卿は相印を捨てて共に逃げ、魏の信陵君を頼ろうとした。信陵君は当初躊躇したが、侯嬴の諫言(虞卿が高位を捨てて義に従った人物であることを説く)で恥じ入り自ら迎えに出たものの、その躊躇を知った魏斉は憤慨して自刎した。趙王はその首を秦に送り、平原君は帰国を許された。
- 昭王43年、秦は韓の汾陘を攻略し河上に広武を築いた。5年後、昭王は応侯の策で反間の計を用いて趙の将を馬服子(趙括)に代えさせ、長平で趙軍を大破し邯鄲を包囲した。その後、名将・白起と仲違いした昭王は白起を殺させた。范睢が用いた鄭安平は趙討伐で包囲され二万の兵とともに趙に降った。秦法では推挙者も連座するため応侯は罪に服そうとしたが、昭王は応侯を庇い、逆に厚遇を増した。二年後、王稽も諸侯との内通の罪で誅殺され、応侯は不安を深めていった。
失脚
- 昭王が朝廷で嘆息すると、応侯は自身の罪を問おうとした。昭王は「楚の剣は鋭いが俳優は拙い。武安君(白起)はすでに死し、鄭安平らも背いた。内に良将なく外に敵国多く、憂えている」と応侯を暗に責めた。応侯は答えに窮した。この様子を聞いた燕人・蔡澤が秦に入った。