史記卷六十 三王世家第三十 燕王旦

燕王旦の末路

  • 燕の地は痩せ地で北は匈奴に迫り民は勇猛で思慮浅いため、策文で匈奴征討の経緯と「怨みを抱くな、徳に背くな、武備を怠るな、教養なき者を側に置くな」と戒めた。
  • 武帝晩年、太子が不幸にして薨じ後継が定まらぬ中、旦は長安への宿衛入りを願う上書をしたが、武帝は激怒し「子を斉魯の礼儀の地でなく燕趙に置いたゆえ、案の定争心が生じた」と使者を闕下で斬った。
  • 武帝崩御後、昭帝即位に際し旦は怨みを抱き大臣を望み、自らが長子として立つべきと考え斉王の子劉沢らと謀反を企て「弟がいるものか、今立った者は大将軍の子に過ぎぬ」と発言し挙兵を図ったが発覚。昭帝は恩義から厳罰を控え、宗正・太中大夫公戸満意・御史2人を燕に派遣し説諭させた。宗正は昭帝が武帝の実子である事実を説き、侍御史は法に照らせば厳罰は免れぬと脅し、最後に公戸満意が経術・国家の大礼を説き「古の天子は内に異姓の大夫を置き骨肉を正し、外に同姓の大夫を置き異族を正した、周公は成王を輔け両弟を誅して国を治めた、武帝在世中は寛大だったが昭帝はまだ幼く大臣が政を委ねられており親戚も容赦なく罰する古の道理からすれば寛恕は望めない、自ら慎み身を滅ぼし天下の笑い者となるな」と諭すと、旦はついに恐れ服罪し謝罪した。大臣は骨肉の情から法で厳しく処断することを避けた。
  • しかしその後旦は左将軍上官桀らと再び謀反を企て「自分こそ本来の太子であるのに大臣に抑えられている」と宣言。大将軍霍光は公卿と協議し「旦は過ちを改めず悪行を重ねる」として法に基づき誅罰、旦は自殺し国除、策文の戒めの通りとなった。有司は旦の妻子の誅殺を請うたが昭帝は骨肉の情から忍びず庶人に落とすにとどめた。「蘭根と白芷も汚泥に浸せば君子は近寄らず庶人も身に着けぬ」との伝えのように、環境が人を変えることを説く。
  • 宣帝即位の本始元年、恩を及ぼし旦の2子のうち1子を安定侯に封じ、燕の故太子建を広陽王に立てて旦の祭祀を継がせた。