史記卷六十 三王世家第三十 齊王閎

大司馬霍去病の上奏

  • 元狩6年3月、大司馬去病が「陛下が辺境の憂いに気を配るあまり皇子がまだ位も師傅官も持たないままである、盛夏の吉日を選んで皇子の位を定めるべき」と上疏した。御史大夫光が取次ぎ、武帝は「御史に下せ」と応じた。

丞相以下の連名上奏と武帝の謙譲

  • 6年3月、丞相青翟・御史大夫湯・太常充・大行令息・太子少傅安ら連名で去病の上疏を承け「皇子閎・旦・胥を諸侯王に立てたい」と上奏したが、武帝は「周は800国を封じ姫姓を並べたが支子は祭祀に与らぬのが礼であり、天は君のために民を生むのではない、朕の不徳で天下がまだ治まらぬうちに未熟な子を彊君とするのは股肱への示しがつかない、列侯にとどめよ」と詔した。
  • 丞相・御史大夫は再び列侯嬰斉・二千石賀・博士安らと連名で、周の康叔・伯禽の故事(幼くして封建された例)を引きさらに強く諸侯王への冊立を請うたが、武帝は「康叔だけが特に尊いのは有徳を襃めたもの、周公は郊祭を天に命じられ魯だけが白牡・騂剛の犠牲を用いた、賢愚に差があるゆえだ、朕はそれを慕う、未成年ゆえ抑え列侯にとどめよ」と再度退けた。
  • 4月、丞相・御史大夫・博士将行らはさらに周の五等爵制・高皇帝の封建の故事、武帝の匈奴・西域への征討や恩恵政治の実績を挙げ「支子を諸侯王とする慣例があるのに皇子を列侯に留めるのは尊卑の秩序に反する」と重ねて上奏したが留め置かれ裁可されなかった。
  • 続けて丞相青翟・太僕賀・太常充・太子少傅安が列侯壽成ら27人との合議で改めて「高皇帝の定めた王子分封の制度を継ぐべき」と請い、日を選んで儀礼を整え輿地図を奏上するよう求めると、武帝はついに「可」とした。

立太子の儀と国名決定

  • 4月丙申、太僕賀(御史大夫代行)が太常充の占った吉日(4月28日乙巳)を報告し輿地図を奏上、国名を請うた。武帝は「皇子閎を斉王、旦を燕王、胥を広陵王とせよ」と裁可。丁酉に奏上、御史大夫湯から丞相・二千石・郡太守・諸侯相へと文書が下達された。

三王の策文

  • 4月乙巳、御史大夫湯が廟にて閎を斉王に立てた策文は、東方の青土の社を受け、漢の藩輔として国家を保ち民を治めるよう戒める内容。
  • 同日、旦を燕王に立てた策文は、北方の玄土の社を受け、匈奴(葷粥)征討の経緯を述べ、怨みを抱かず徳に背かず武備を怠らぬよう戒める内容。
  • 同日、胥を広陵王に立てた策文は、南方の赤土の社を受け、江南楊州の民の軽薄な気風を戒め、法度を守り威福を専らにせぬよう説く内容。

史論

  • 太史公曰く、古人は「これを愛せばこれを富ませたく、これを親しめばこれを貴くしたい」と言う、王者が国を建て子弟を封じるのは親族を尊び骨肉の序を明らかにし同姓を天下に広めるためであり、これにより形勢は強まり王室は安泰となる。古来久しい慣わしで特に論ずるまでもないが、燕・斉の事跡自体は取るに足らぬものの、この三王封立に際して天子の謙譲・群臣の礼義・文辞の見事さは観るべきものがあり、ゆえに世家に付す。

褚先生の付記:三王策書の由来

  • 褚先生曰く、私は文学の侍郎として太史公の列伝を好んで読んだが、伝中に「三王世家」の文辞が優れていると称されながら世家そのものを見つけられず、長老・故事に詳しい者から封策の文書を得て編纂し後世に賢主の意図を伝えることとした。
  • 孝武帝の代、同日に三子を王に立て、それぞれの才力・封地の風土・民情に応じ策文で戒めた。「代々漢の藩輔として国を保ち民を治めよ」との言葉は深い意図があり浅学の者には理解しがたいとし、詔書の次第・文字の配置・簡の長短にまで意味があると述べ、真草の詔書をそのまま編み後世の読者が自ら意を汲み取れるようにしたという。

斉王閎の母王夫人

  • 王夫人は趙の人で衛夫人と共に武帝の寵を受け閎を生んだ。閎の立太子に際し病床の母を武帝が見舞い「子は王となるが、どこに封じてほしいか」と問うと王夫人は「陛下の御心のままに」と答えるにとどめ、重ねて問われ「洛陽に」と望んだが、武帝は「洛陽は武庫・敖倉を擁する天下の要衝で先帝以来子を封じた例がない、それ以外ならどこでもよい」とし、関東で最大の国である斉(東は海に臨み城郭大きく古来10万戸を数えた天下一の肥沃の地)を勧め、王夫人は感謝した。王夫人の死後、武帝は使者を送り「斉王太后」の位を贈り璧を賜った。閎は若くして子なく死去、国は絶え郡となり、天下は「斉に王を置くべきでなかった」と評したという。

「受此土」の由来

  • 諸侯王が初封の際に天子の社から土を受け国社とし歳時に祀る儀礼の由来を説明する。『春秋大伝』の「天子の泰社は東青・南赤・西白・北黒・中央黄」に基づき、封じる方角の色の土を白茅で包み社とする。「朕承祖考」「維稽古」の語義も解説する。

斉王への戒めの真意

  • 斉の地は権謀術策に富み礼義に疎いため、策文で「天命に従い徳を明らかにし義を忘れず心を尽くせ」と戒めた。斉王は礼義を保ちながら不幸にも若くして死んだが、過ちなく生涯を終え策文の趣旨通りであったとする。

燕・広陵への戒めの真意

  • 「青は藍より出でて藍より青し」という伝えのように教えの力を説き、賢主が斉王には内を慎むこと、燕王には怨みを抱かず徳に背かぬこと、広陵王には外を慎み威福を専らにせぬことを、それぞれの国情に応じて戒めたと述べる。
  • 広陵は呉越の地で民が精悍軽薄なため、策文で「江湖の間の民は軽薄、揚州の守りは三代このかた中原の政教が及びにくい地」と戒め、財幣を濫用して声誉を求めず(「臣は福を作さず」)、軽率に義に背かない(「臣は威を作さず」)よう説いたとする。
  • 昭帝即位後、広陵王胥は先朝への礼として金銭財幣3000余万、益地百里、邑万戸を賜った。宣帝即位の本始元年には胥の4子に領地が分封され、朝陽侯・平曲侯・南利侯、最も寵愛された末子弘は高密王となった。
  • しかしその後胥は威福を専らにし、楚王の使者と通じた。楚王は「我が祖先元王は高帝の弟として32城を封じられたが今は封地が減った、広陵王と共に挙兵し広陵王を盟主に立て自らは元王当時の楚32城を回復したい」と宣言。事が発覚し公卿は誅罰を請うたが天子は骨肉の情から胥を罰せず、首謀者の楚王のみを誅した。「蓬は麻の中に生えれば支えずとも真っ直ぐ育ち、白砂も泥の中では黒くなる」との伝えの通り、風土・教化の力を説く。その後胥は再び呪詛による謀反を企てて発覚し自殺、国は除かれた。