史記卷五十六 陳丞相世家第二十六 陳平

陽武戸牖郷の人、陳丞相平。若くして貧しく学問を好み、魏・楚を転々とした後に漢に降り、たびたびの讒言にも関わらず漢王に重用された。反間の計で范増を失脚させ、韓信・韓王信・匈奴平城包囲などの局面でも数々の奇計を献じて漢を救った。呂后期には表向き従いつつ機を待ち、周勃と共謀して諸呂を誅滅し文帝を擁立、文帝の代に丞相として「宰相の役目」を説き名相と称された。

年表(8件)
  • (滎陽包囲の際)反間の計を献じ、項王の側近范増(亜父)を失脚に追い込んだ
  • 漢6年韓信の謀反疑惑に対し偽遊雲夢の計を献じ、韓信を捕縛させた
  • (代で韓王信討伐時)平城で匈奴に包囲された高帝を奇計で救った
  • 孝惠帝
  • 6年曹参の死去に伴い王陵が右丞相、平が左丞相となった
  • 呂太后崩御後太尉周勃と諸呂を誅滅し孝文皇帝を擁立した
  • 文帝即位時右丞相の位を周勃に譲り左丞相となった
  • (程なく)周勃が丞相を辞し、平が単独の丞相となった
  • 文帝
  • 2年丞相陳平が死去し諡は献侯とされた

出自と結婚

  • 陳丞相平は陽武戸牖郷の人。若くして家貧しく読書を好み、田30畝を兄伯と分けて暮らした。伯は耕作に励み平を遊学させた。平は長身で美貌。人から「貧しいのになぜそんなに肥えているのか」と問われると、嫂は平が家業を顧みないことを嫉み「糠と屑を食っているだけ、こんな叔父がいるくらいなら無い方がまし」と言い、伯はこれを聞いて妻を追い出した。
  • 平が成人し妻を娶る年頃になっても富者は嫁がせず貧者は平自身が恥じた。戸牖の富人張負の孫娘は5度嫁いで夫が皆死んでおり誰も娶らなかったが、平はこれを望んだ。ある家の喪の手伝いで平が誰よりも早く来て最後まで残ったのを張負が見て気に入り、平の粗末な家を訪ねるも門外に立派な車の轍が多いことに感心。張負は息子仲に「娘を陳平に嫁がせたい」と告げるが、仲は「平は貧しく何もせず一県中の笑い者、なぜ嫁がせるのか」と反対。負は「陳平ほどの美男が長く貧賎でいられるはずがない」と押し切り娘を嫁がせ、貧しい平のため聘礼の金も貸し与えた。負は孫娘に「貧しさゆえに兄伯・嫂への奉仕を怠るな、伯を父のように嫂を母のように仕えよ」と戒めた。婚姻後、平の生活は豊かになり交友も広がった。
  • 里の祭祀で平が宰(肉の分配役)を務めた際、公平な分配ぶりを父老に褒められ「陳孺子は宰たるべし」と言われると、平は「私に天下を宰させれば、この肉のようにうまくやろう」と応じた。

諸侯遍歴の末に漢へ

  • 陳渉が陳で王となり周市に魏地平定を命じ魏咎が魏王に立つと、平は兄に別れを告げ従軍し太僕となったが、進言が用いられず讒言もあり出奔した。
  • その後項羽の元へ帰し秦攻めに従い卿の爵を賜った。項羽が東の彭城で王となり漢王が三秦を平定して東進、殷王が楚に反した際、項羽は平を信武君とし魏王咎の旧臣を率いさせ殷王を降した。しかし後に漢が殷を落とすと項王は殷を平定した将吏を誅そうとし、平は誅殺を恐れ金印を封じて項王に返上、自身は剣を杖に単身逃亡した。渡河の際、船頭に金品を狙われそうになったが衣を脱いで裸で船を漕ぎ疑いを解いた。
  • 平は修武に至り漢に降り、魏無知を通じて漢王に謁見。万石君石奮の取次で入見し他の6人と共に食を賜るが、平は「事のために来た、話は今日中に」と述べ漢王と語らい意気投合。漢王は平を都尉・参乗・典護軍に任じたが、諸将は「一日で得た楚の亡卒を即座に重用し我らを監督させるとは」と不満を示した。しかし漢王は益々平を寵用した。彭城で楚に敗れ滎陽まで撤退した際、平は護軍として韓王信の軍に属した。

讒言と弁明

  • 絳侯・灌嬰らは「平は美男だが中身はない、家では兄嫁と密通、魏・楚を渡り歩き今また漢に来て賄賂で待遇を差配している、反覆常なき乱臣」と讒言した。漢王が疑い魏無知を責めると、無知は「私が推挙したのは能力、陛下が問うのは行い。今、尾生・孝己のような行いがあっても勝敗に無益なら陛下は用いる暇があろうか。奇謀の士を推挙する際、国家に利あるかどうかが問題で、兄嫂との噂や受金など問題にならぬ」と弁護した。
  • 漢王が平自身に問うと、平は「魏王は私の策を用いず楚に行ったが項王も人を信じず一族・妻の兄弟しか用いない、漢王が人を用いると聞き帰参した。裸で来たので受金なくば資となるものがなかった。策が使えぬなら金は全て官に返し辞去したい」と答えた。漢王は謝罪し厚く賜り護軍中尉に任じ諸将を統括させ、以後誰も文句を言わなくなった。

反間の計と亜父失脚

  • 楚が滎陽を包囲し漢王が和睦を求めるも項王は応じず、漢王が平に問うと、平は「項王は恭敬で士に慕われるが論功行賞を渋るため士は離れる。漢王は無礼だが恩賞に厚いため頑鈍な士も帰服する。両者の短所を捨て長所を取れば天下は定まる。項王の側近の骨鯁の臣は亜父・鍾離眛・龍且・周殷ら数人に過ぎぬ、数万斤の金を投じて反間を行い君臣を疑わせよ、項王は疑い深く必ず内輪で誅し合う」と献策した。漢王は同意し黄金4万斤を平に与え使途を問わなかった。
  • 平は反間により鍾離眛らが功に見合う封地を得ておらず漢と通じているとの流言を広め、項羽は疑心を強めた。使者を欺く演出(太牢の饗応から一転粗末な饗応に替える)で項王は亜父をも疑うようになり、亜父は「天下事は既に大定した、君王自らなされよ、骸骨を乞う」と怒って辞去する途上、疽を患い死んだ。平は夜、女子2000人を滎陽城東門から出させ楚軍の注意を引き、その隙に漢王と共に西門から脱出、関中に入り兵を集めて再起した。

楚滅亡後の功績と欺瞞計略

  • 翌年、淮陰侯が斉を破り自立して斉王を称した際、漢王が怒り罵ると平は密かに足で漢王を制止し、漢王は悟って厚遇し張良を遣わし信を正式に斉王とした。平は戸牖郷を食邑に封ぜられ、その奇策で楚を滅ぼす功を成し、護軍中尉として燕王臧荼平定にも従った。
  • 漢6年、楚王韓信の謀反が上書された際、諸将は「即座に討伐すべき」と主張したが高帝は默然。平に問うと平は「信自身がこれを知っているか」「知らない」「陛下の精兵は楚に勝るか、将は韓信を超えるか」といずれも「否」との答えを引き出し、「兵で攻めれば戦を招くのみ」と危惧、「天子巡狩の故事にならい雲夢へ偽って出遊し陳で諸侯を会せば、信は郊迎に出るはずでそこを捕らえよ」と献策した。高帝はこれに従い、韓信は道中で捕縛され淮陰侯に格下げされた。

曲逆侯への転封と六出奇計

  • 平は世々絶えぬ約束で戸牖侯に封ぜられたが「これは臣の功ではない」と辞退し、高帝は「先生の策で勝利したのになぜ功でないのか」と問うと平は「魏無知の推挙なくば進めなかった」と答え、無知も改めて賞された。
  • 翌年、護軍中尉として代で反した韓王信を攻め平城で匈奴に包囲された際、陳平の奇計(単于の閼氏への働きかけ)で囲みが解けたが、その計略は秘され世に伝わらなかった。
  • 高帝が曲逆を過ぎ、その豪壮な城郭を見て「洛陽と並ぶ壮観、戸口はいかほどか」と問うと、秦代3万余戸が兵乱で今5000戸と答えられ、高帝は詔して平を曲逆侯に改封し全戸を食邑とし、以前の戸牖の食邑を除いた。
  • 以後、陳豨・黥布討伐にも護軍中尉として従い、6回の奇計を出しそのたびに加封を受けたが、多くは秘され世に伝わらなかった。

樊噲逮捕事件

  • 高帝が黥布討伐から帰る途中、傷病のため徐行。燕王盧綰反乱に対し樊噲が相国として出征したが、高帝は樊噲を讒言する者の言を信じ「噲は我が病を見て死を望んでいる」と怒り、陳平の計により絳侯周勃を病床に召し「陳平は急ぎ勃を乗せて噲に代えよ、平は軍中で噲の首を斬れ」と命じた。
  • 2人は途上で「樊噲は帝の故人で功多く、呂后の妹呂嬃の夫でもあり親密かつ貴い、怒りに任せて斬れば後悔する恐れがある」と考え、囚えて連行し上自身に処断させることにした。壇を築いて樊噲を召し捕縛して檻車で長安に送り、絳侯勃が代わって将となり燕の反乱平定を続けた。

呂后への接近

  • 平は道中で高帝崩御を聞き、呂太后・呂嬃の讒言を恐れ急ぎ先んじて都へ向かった。使者に会い平と灌嬰は滎陽駐屯を命じられたが、平は詔を受けてすぐ宮中に馳せ参じ哀哭し喪前で奏事。呂太后はこれを哀れみ「休め」と言ったが、平は讒言を恐れ宿衛を願い出て郎中令に任じられ「孝惠帝を教導せよ」と命じられた。以後呂嬃の讒言は効かなくなった。樊噲は帰還後赦され爵邑を回復した。

王陵と丞相の座

  • 孝惠帝6年、相国曹参が死去、安国侯王陵が右丞相、平が左丞相となる。
  • 王陵は沛の人で高祖が微賤だった頃から兄事された。少文で気性が荒く直言を好む。高祖挙兵時には自らも数千の党を集め南陽にいて沛公に従わなかった。漢王が項籍を攻める頃になって陵は兵を漢に属した。項羽は陵の母を軍中に捕らえ招降の道具にしようとしたが、陵母は使者に密かに「陵に漢王に忠勤するよう伝えよ、私のために二心を持つな」と言い残し剣に伏して自殺、項王は怒り陵母を煮殺した。陵は結局漢に従い天下を定めたが、仇敵雍歯と親しかったため晩く封ぜられ安国侯となった。
  • 右丞相となって2年、孝惠帝崩御。高后が諸呂を王に立てようとし王陵に問うと「不可」と答え、陳平に問うと「可」と答えた。呂太后は怒り陵を帝太傅に偽って昇格させ実権を奪った。陵は病と称して辞し、二度と朝請せず7年後に死去した。

呂后期の処世

  • 陵の免官後、呂太后は平を右丞相に、辟陽侯審食其を左丞相に。左丞相は実務を執らず常に宮中で仕えた。
  • 食其も沛の人。漢王が彭城西で敗れ太上皇・呂后が楚の人質となった際、食其は舎人として呂后に仕えた。後に項籍打倒の功で侯となり呂太后の寵を得て、相となってからも宮中に常駐し百官は彼を通して決裁を得た。
  • 呂嬃はかつて平が高帝のため樊噲逮捕を謀ったことを恨み「陳平は政務を執らず日々醇酒を飲み婦女と戯れている」と讒言を重ねた。平はこれを聞きさらに酒色に耽ってみせた。呂太后はこれを密かに喜び、呂嬃を平の前で問い質し「婦人の言は当てにならぬ、君と私の関係が全て」と平を安心させた。

呂氏誅滅と文帝擁立

  • 呂太后が諸呂を王に立てた際、平は表向き従った。呂太后崩御後、平は太尉周勃と謀り諸呂を誅滅し孝文皇帝を擁立、これは陳平の本謀であった。審食其はこの際に相を免じられた。

文帝期の丞相職

  • 文帝即位に際し、太尉勃が自ら兵をもって呂氏を誅した功が大きいとして、平は右丞相の地位を勃に譲ろうと病と称した。文帝が理由を問うと、平は「高祖時代の功は勃に及ばず、呂氏誅滅の功は勃が我に及ばず、右丞相を勃に譲りたい」と述べ、文帝は絳侯勃を右丞相(位次第一)、平を左丞相(位次第二)とし、金千斤・3000戸を加増した。
  • ある日、文帝が右丞相勃に「天下の一年の決獄件数は」と問うと勃は答えられず、「銭穀の出入額は」にも答えられず冷や汗をかいた。左丞相平に問うと「担当者がいる」と答え、「決獄は廷尉、銭穀は治粟内史に問うべき」と述べた上で、「宰相の役目は陰陽を治め四時に従い万物を育み、四夷諸侯を鎮撫し百姓を親しませ、卿大夫にそれぞれの職を全うさせること」と述べ、文帝は称賛した。勃は恥じ入り平に「なぜ前もって教えてくれなかったのか」と詰ると、平は「その位にいて職務を知らぬのか、盗賊の数を問われたらどう答えるつもりだったのか」と笑い、絳侯は自らの器量が平に及ばぬことを悟った。程なく勃は病と称して丞相を辞し、平が単独の丞相となった。

死去と後嗣

  • 文帝2年、丞相陳平死去、諡は献侯。子の共侯買が継ぎ2年で死去、子の簡侯恢が23年で死去、子の何が継ぐが23年目に人妻を奪った罪で棄市となり国除。
  • 平はかつて「私は陰謀が多く道家の禁忌に触れる、我が代で家系が絶えても仕方ない、多くの陰禍のため二度と興ることはあるまい」と語っていたが、後に曾孫の陳掌が衛氏の外戚として貴顕になり陳氏の封を復そうとしたが叶わなかった。

史論

  • 太史公曰く、陳丞相平は若い頃より黄帝・老子の術を好んだ。肉を俎上で分ける際にもその志は既に遠大であった。楚魏の間を転々としながら最終的に高帝に帰し、常に奇計を出して紛糾を救い国家の患いを振るった。呂后の時代にも多事多難であったが平は自ら難を脱し宗廟を安定させ、栄誉ある名をもって生涯を終え賢相と称された。始めも終わりも善くしたと言えよう、知謀に長けた者でなければこれを成し得なかったであろう。