史記卷五十五 留侯世家第二十五 張良
韓の名家の出で、祖父・父5代にわたり韓の相を務めた家系に生まれた張良(字は子房)。秦滅亡の報復を志し博浪沙で始皇帝を狙撃するも失敗、下邳で圯上の老人から兵法書を授かった。沛公に従属して以来、鴻門の会・楚漢戦争を通じて漢の帷幄の参謀として数々の献策を行い、留侯に封じられた。晩年は太子廃立を防ぐため四皓を招く策を成し、辟穀・道引の術を学んで世を離れた。
年表(11件)
- (秦皇帝東遊の際)博浪沙で始皇帝を狙撃したが失敗し下邳に潜伏した
- (兵法書を授かって10年後)沛公に従属し厩将となった
- 漢元年正月漢王に棧道を焼くよう勧め、項王を油断させた
- 漢3年酈食其の六国復興策の不可を説き漢王に退けさせた
- 漢4年韓信を斉王に立てるよう漢王を説得した
- 漢6年正月留侯に封ぜられ、雍歯を先に封じるよう進言して功臣の不満を鎮めた
- (遷都論争時)関中遷都を説き、高帝はその日のうちに関中へ遷都した
- 漢11年黥布反乱の太子出征を諫め、少傅として太子を補佐した
- 漢12年招いた四皓の助力で太子(惠帝)の廃立を防いだ
- (高帝崩御の8年後)死去し諡は文成侯とされた
- 孝文帝
- 5年子の不疑が不敬の罪で国除となった
出自と秦への復讐
- 留侯張良、その先祖は韓の人。祖父開地は韓の昭侯・宣恵王・襄哀王の相、父平は釐王・悼恵王の相。悼恵王23年に父平が死去、その20年後に秦が韓を滅ぼした。良は若く韓に仕えぬまま、韓滅亡時に家僮300人を擁しながらも弟の葬儀すら行わず家財を全て投じ秦王暗殺の刺客を求めた。祖父・父5代にわたり韓の相であったための報復である。
- 良はかつて淮陽で礼を学び、東で倉海君に会い力士を得て120斤の鉄椎を作らせた。秦皇帝東遊の際、良は客と共に博浪沙で狙撃したが誤って副車に命中。秦皇帝は激怒し天下に大捜索をかけたため、良は姓名を変え下邳に身を潜めた。
圯上の老人と兵法書
- 下邳で橋の上を散策中、褐衣の老人が履を橋下に落とし「取って来い」と命じた。良は怒りをこらえ取りに行き、さらに「履かせよ」と言われ跪いて履かせた。老人は笑って去り、良が驚いて見送ると、老人は戻ってきて「孺子教うべし。5日後の明け方にここで会おう」と告げた。
- 5日後、良が行くと老人は先に来ており「老人と約束して遅れるとは」と怒って去り「5日後もっと早く来い」と命じた。再び同じことが繰り返され、3度目に良は夜半前から待ち、老人はようやく「これでよい」と一冊の書を与え「これを読めば王者の師となれよう。10年後に興り、13年後に済北の穀城山下で黄石を見れば、それが私である」と告げて姿を消した。翌朝見ると『太公兵法』であった。良はこれを異とし常に誦読した。
- 下邳では任侠として過ごし、人を殺した項伯を匿ったこともあった。
沛公との出会いと初期の献策
- その10年後、陳渉らが挙兵、良も少年百余人を集めた。景駒が楚の仮王を自称し留にいたため良は帰属しようとしたが、道中で沛公に遭い数千の兵を率いる沛公に属した。沛公は良を厩将とし、良が『太公兵法』を説くと沛公はよく理解し常にその策を用いた。他の者に説いても理解されなかったため、良は「沛公はまさに天授の人」として従い続け、景駒の元へは行かなかった。
- 沛公が薛で項梁に会った際、良は項梁に韓の公子横陽君成の擁立を勧め、項梁は良に韓成を求めさせて韓王に立て、良を申徒とし千余人で韓地を西方に略取したが秦に奪還され潁川で遊軍を続けた。
咸陽入城と鴻門の会
- 沛公が雒陽から轘轅へ南出する際、良が兵を率いて従い韓の10余城を落とし楊熊軍を破った。沛公は韓王成を陽翟に留め良と共に南下、宛を落とし武関から西入。嶢関の秦軍撃破に際し良は「秦兵はなお強い、まず酈食其に秦将を金で誘い、疑兵で見せかけて隙をつくべし」と献策し、秦将が離反した隙を突いて秦軍を大破、藍田でも再戦して勝利し咸陽に至り秦王子嬰が沛公に降伏した。
- 沛公が秦の宮殿の財宝・美女に留まろうとした際、樊噲の諫言を聞かなかったが、良が「秦の無道あってこそ沛公はここに至れた。天下のため残賊を除くには質素であるべき。今贅沢に安んじれば『助桀為虐』となる。忠言は耳に逆らえど行いに利あり、毒薬は口に苦けれど病に利あり、樊噲の言を聞くべき」と説き、沛公は霸上に軍を退いた。
- 項羽が鴻門に迫った際、項伯が沛公軍の良の元へ密かに来て共に逃げるよう誘ったが、良は「韓王のため沛公を送った身、危急に際し逃げるのは義に反する」と断り沛公に急報。沛公は項伯を通じ弁明し宴を結び、賓婚の約を交わして事なきを得た(詳細は項羽本紀)。
漢中封建と棧道焼却
- 漢元年正月、沛公は漢王となり巴蜀に封ぜられた。漢王は良に金百溢・珠二斗を賜り、良はこれを項伯に献じ漢中の地を得させた。漢王入国に際し良は襃中まで送り韓へ帰され、漢王に「通ってきた棧道を焼き絶ち天下に還る意志なきを示し項王を安心させよ」と勧め、その通り実行された。
- 良が韓に戻ると、項王は韓王成を漢王に従った罪で国に帰さず連行した。良の勧めで棧道焼却を項王に告げさせ、斉王田栄反乱の報も伝え項王の目を漢から逸らさせた。しかし項王は結局韓王成を侯に落とし彭城で殺害した。良は逃れて密かに漢王の元へ帰り、成信侯に封ぜられ東征に従う。彭城で楚に敗れ下邑まで撤退した際、漢王が「関以東を捨てて共に功をなす者は誰か」と問うと、良は「九江王黥布・彭越・韓信の3人を急ぎ用いるべし」と進言、その通り黥布・彭越を誘い韓信に燕・代・斉・趙を平定させ、最終的に楚を破ったのはこの3人の力であった。良自身は多病で将として出陣せず常に参謀として漢王に従った。
楚漢戦争での献策
- 漢3年、項羽に滎陽を包囲された漢王は酈食其の「六国の後裔を復興し印綬を与えれば天下は帰服する」との策に同意しかけたが、食其が発つ前に良が外から戻り、その策を聞くと「湯・武が桀紂の後を封じたのは既にその死命を制していたから、しかし今陛下は項籍を制していない」など八つの不可を挙げて説き、酈食其の策を退けさせた。漢王は激怒し「豎儒め、危うく我が事を敗るところだった」と印を鋳るのをやめさせた。
韓信王封と垓下会戦への献策
- 漢4年、韓信が斉を破り自立して斉王になろうとした際、漢王は怒ったが良の説得で信に印綬を授けさせた(詳細は淮陰侯列伝)。
- 同年秋、漢王が楚を陽夏南に追うも敗れ固陵に籠り諸侯が集まらなかった際、良の計により諸侯が集結した(詳細は項籍本紀)。
留侯への封と論功の助言
- 漢6年正月、功臣を封じる際、良は戦闘の功はなかったが高帝は「帷幄の中で策を巡らし千里の外で勝利を決めたのは子房の功」として斉の3万戸から自由に選ばせようとした。良は「下邳で挙兵し留で上と会ったのは天の授け、留に封じられれば十分、三万戸は当たらぬ」と辞退し留侯に封ぜられ、蕭何らと同時に封じられた。
- 論功が定まらず二十余人の大功臣が未だ封じられない中、上が雒陽南宮の復道から諸将が砂地で密談する様を見て良に問うと、良は「これは謀反の相談」と答え、理由を「陛下が天下を得たのはこの者たちのおかげだが、封じられたのは蕭何・曹参ら旧知の者ばかりで、誅した者は皆生平の仇怨。今、天下は全員には行き渡らぬと恐れ、過去の過失で疑われ誅されることも恐れて相聚まり謀反を企てている」と説明した。高祖が対策を問うと、良は「陛下が最も憎む者は誰か」と問い、高祖は「雍歯、しばしば我を辱めたが功多く殺せずにいる」と答えた。良は「雍歯を真っ先に封じれば皆自ら安んずる」と進言、高祖はその通りにし雍歯を什方侯に封じ、丞相・御史に急ぎ論功行封を進めさせた。群臣は「雍歯すら侯となった、我らも心配ない」と喜んだ。
定都論争と道引
- 劉敬が関中への遷都を説いたが高帝は迷い、山東出身の大臣らは「雒陽は東に成皋、西に殽黽があり、河を背に伊雒に向かい、その堅固さも頼むに足る」と雒陽の地の利を主張した。良は「雒陽は数百里に過ぎず地薄く四面受敵の地、用兵の国にあらず。関中は左に殽函、右に隴蜀、沃野千里、南に巴蜀の饒、北に胡苑の利があり、三方を阻んで一方のみ東で制せばよい。諸侯が安定していれば河渭の漕運で京師を支え、変あれば流れに乗じて出兵し輸送できる。これぞ金城千里・天府の国、劉敬の説が正しい」と論じ、高帝はその日のうちに関中へ遷都した。
- 留侯は関中入りの後、多病を理由に道引・不食穀を実践し1年余り門を閉ざした。
太子廃立問題と四皓
- 高帝が太子を廃し戚夫人の子趙王如意を立てようとした際、大臣の諫言も功を奏さず、呂后は不安に思い建成侯呂沢を使い留侯を強要した。良は「陛下が危急の際にこそ我が策が用いられたが、今は天下安定し骨肉の情の問題、我らが百人いても無益」と当初固辞したが、呂沢に強く迫られ「陛下が招けない4人の隠士がいる、皆年老いて陛下が人を侮ると考え山中に逃れ漢の臣たらぬと決めているが、陛下はこの4人を高く評価している。金玉璧帛を惜しまず太子の書と謙った言葉・安車で辯士に固く請わせれば来るはず。来れば客とし時に朝に伴わせ上の目に触れさせれば、必ず異として問うだろう。そこで陛下がこの4人の賢を知れば一助となる」と提案した。呂后は呂沢に太子の書を送らせ厚礼で4人を迎え、建成侯の元に客として置いた。
- 漢11年、黥布反乱で高帝が太子に将として出征させようとした際、4人は「太子が功なければ位は上がらず、功なく還れば禍となる。太子に従う諸将は皆かつて高帝と天下を定めた梟将、羊に狼を率いさせるようなもので力を尽くさぬだろう」と危惧し、建成侯に「呂后に上の前で泣いて『黥布は天下の猛将で用兵に長け、諸将は皆陛下と同輩ゆえ太子が率いても従わぬだろう、布がこれを聞けば西進の勢いを増す。陛下は病でも輜車に臥し諸将を護れば皆力を尽くす』と訴えさせよ」と勧めた。呂沢が夜に呂后へ伝え、呂后が上に泣訴すると、上は「豎子には任せられぬ、私が自ら行く」と述べ自ら東征に赴いた。留侯は病を押して曲郵まで見送り「太子を将軍とし関中兵を監させよ」と進言、上は「子房は病でも太子を補佐せよ」と命じ、留侯は少傅の任を代行した(太傅は叔孫通)。
太子存続の決着
- 漢12年、高帝は黥布を破り帰還後病が重くなり、なお太子を替えようとしたが留侯の諫言も聞かず、叔孫太傅の死を賭した諫言にも上辺だけ従うふりをした。宴席で太子に4人の老人(80歳超、鬚眉真っ白で立派な姿)が従うのを見た高帝が問うと、4人は名乗り出て「陛下は士を軽んじ罵るため隠れていたが、太子が仁孝で士を敬うと聞き参じた」と答え、高帝は驚き「彼らに太子を助けてほしい」と頼んだ。
- 4人が去った後、高帝は戚夫人に「彼ら4人が太子を助ける以上、羽翼は既に成り動かし難い。呂后こそ真の主となろう」と告げ、悲しむ戚夫人のため「鴻鵠高飛、一挙千里、羽翮已就、横絶四海、横絶四海、当可柰何、雖有矰繳、尚安所施」との楚歌を作り自ら楚舞を求め歌った。結局太子が替わらなかったのは留侯が4人を招いた功による。
晩年と死
- 留侯は代への遠征に従い馬邑で奇計を出し、蕭何を相国に立てる際にも上に多くを進言したが、天下の存亡に関わらぬ話は記録されなかった。留侯は「韓の相の家系として万金の財を惜しまず秦に報復し天下を震わせ、今は三寸の舌で帝者の師となり万戸に封ぜられ列侯となった、これは布衣の極み、良にとっては十分すぎる。人間の事を棄て赤松子に従い遊びたい」と述べ辟穀・道引軽身の術を学んだ。高帝崩御の際、呂后が留侯を徳とし無理に食を勧め「人生は白駒の隙を過ぎるがごとし、なぜ自ら苦しむのか」と言われ、やむなく食した。
- 8年後に死去、諡は文成侯。子の不疑が跡を継いだ。
- 子房が下邳橋上の老人から兵法書を授かった13年後、高帝に従い済北を過ぎた際、果たして穀城山下で黄石を見つけ持ち帰って祀った。留侯の死後、黄石と共に葬られ、以後墓参りのたびに黄石も祀られた。
- 留侯不疑は孝文帝5年、不敬の罪で国除となった。
史論
- 太史公曰く、学者の多くは鬼神なしと言うが、物の怪の存在を語る者もいる。留侯が老人から書を授かった話も怪しむべきものである。高祖は幾度も窮地に陥ったが留侯は常に功を為した、これを天意でないと言えようか。上は「帷幄の中で策を巡らし千里の外で勝利を決めるのは、我は子房に及ばぬ」と述べた。私(太史公)は留侯を魁梧奇偉な人物と想像していたが、その像を見ると容貌は婦人のように優しい。孔子の「貌を以て人を取れば子羽を失う」との言葉の通りであろう、留侯についても同じことが言える。