史記卷五十七 絳侯周勃世家第二十七 周勃・周亞夫
沛の人、絳侯周勃。高祖の挙兵に従い各地を転戦して秦を滅ぼし、諸将討伐でも戦功を重ね絳侯に封じられた。呂太后崩御後は陳平と謀って諸呂を誅滅し孝文帝を擁立、丞相を歴任したが晩年は不遇にも見舞われた。子の周亜夫は条侯に封じられ、細柳での厳格な軍規統率で文帝に「真の将軍」と称され、呉楚の乱では太尉として反乱軍を大破したが、丞相昇進後も剛直を貫き景帝に疎まれ、晩年は謀反の疑いをかけられ絶食のすえ獄死した。
年表(12件)
- 孝恵帝
- 6年太尉官が置かれ周勃が太尉となった
- (高后崩御後)周勃、陳平と謀り諸呂を誅して孝文帝を立てた
- 文帝即位後周勃、右丞相となったが、禍を恐れ自ら丞相印を返上した
- (陳平死去後)再び丞相となったが、列侯就国の詔を機に免職・就国した
- (河東守尉巡行の頃)誣告により逮捕されたが薄太后の取りなしで釈放された
- 文帝
- 11年周勃死去し諡は武侯とされた
- (河内守の頃)周亜夫、許負に「3年後に侯となり、8年後に将相となるが9年後に餓死する」と予言された
- 後6年匈奴侵入に備え細柳に布陣し、軍規を厳格に守って文帝に「真の将軍」と称賛された
- 孝景3年太尉として呉楚の乱に出征し、梁を犠牲に糧道を断つ策で反乱軍を大破した
- (帰還後5年)丞相に昇進したが、栗太子廃立に反対し景帝に疎まれた
- 景帝
- 中3年匈奴降将の封侯に反対し、病と称して丞相を辞した
- (子の甲楯購入事件を機に)謀反の疑いをかけられ5日間絶食し血を吐いて死んだ
出自と挙兵前
- 絳侯周勃は沛の人。先祖は卷の人で沛に移住した。簿曲(蚕具)を編んで生計を立て、喪事では簫を吹く仕事もし、材官(弓兵)として彊弓を引いた。
高祖に従い秦を滅ぼすまで
- 高祖が沛公として起った当初、中涓として胡陵を攻め方与を落とした。方与が反すると再戦しこれを撃退。豊を攻め碭東で秦軍を撃ち、留・蕭に還軍後再び碭を攻略。下邑を先登で落とし五大夫の爵を賜る。蒙・虞を攻略、章邯の車騎軍を撃ち殿(しんがり)を務め魏地を平定。爰戚・東緡・栗を攻略、齧桑を先登、阿の下で秦軍を破り濮陽まで追撃、甄城を落とす。都關・定陶を攻め宛朐を襲取し単父令を捕らえ、臨済を夜襲、張を攻め卷まで進んで破った。李由軍を雍丘の下で撃ち、開封城下に先着した功が最多とされた。
- 章邯が項梁を破り殺すと、沛公・項羽は東の碭へ引いた。挙兵から碭復帰まで1年2ヶ月。楚懐王は沛公を武安侯に封じ碭郡長とし、沛公は勃を虎賁令に任じ魏地平定に従わせた。城武で東郡尉を破り、王離軍を撃破、長社を先登、潁陽・緱氏を攻め黄河の渡し場を絶ち、尸の北で趙賁軍を撃った。南下し南陽守齮を攻め武関・嶢関を破り、藍田で秦軍を破って咸陽に至り、秦を滅ぼした。
漢中入りと三秦平定
- 項羽入関後、沛公は漢王となり勃は威武侯に封ぜられた。漢中に従い将軍を拝命。三秦平定に戻り秦の地で食邑懐徳を賜る。槐里・好畤で功第一(最)、咸陽で趙賁・内史保を撃ち再び最。北で漆を攻め章平・姚卬の軍を撃ち汧を平定、郿・頻陽に還り章邯を廃丘に包囲、西丞を破り盗賊の巴軍を破り上邽を攻め嶢関を守り項籍を転戦で撃った。曲逆を攻め最、敖倉を守り項籍を追撃。項籍死後、東の楚地泗水・東海郡22県を平定、雒陽・櫟陽を守り潁陰侯と共に鍾離を食邑とした。
- 燕王臧荼討伐に将軍として従い易で破り、馳道を守った兵功が最多で列侯に封ぜられ、剖符・世世不絶の誓いを受けた。絳8180戸を食邑とし絳侯と号した。
韓王信・陳豨・盧綰の討伐
- 韓王信討伐に将軍として従い霍人を降し武泉まで進んで胡騎を破り、韓信軍を銅鞮で破り太原六城を降し晋陽の胡騎を破って晋陽を落とした。硰石で韓信軍を破り80里追撃、楼煩三城を攻め平城下で胡騎を撃ち、馳道の功最多で太尉に昇進した。
- 陳豨討伐で馬邑を屠り豨の将乗馬絺を斬る。楼煩で韓信・陳豨・趙利の軍を破り豨の将宋最・鴈門守圂を捕獲、雲中守遬・丞相箕肆・将勲を得て鴈門17県・雲中12県を平定。霊丘で豨を破り斬り、丞相程縦・将軍陳武・都尉高肆を得て代郡9県を平定した。
- 燕王盧綰謀反に際しては相国として樊噲に代わり薊を攻め、綰の大将抵・丞相偃・守陘・太尉弱・御史大夫施を捕らえ渾都を屠った。上蘭・沮陽で綰軍を破り長城まで追撃、上谷12県・右北平16県・遼西遼東29県・漁陽22県を平定した。高帝に従い得た戦果の総計は相国1人・丞相2人・将軍と二千石各3人、別に破った軍2、落とした城3、平定した郡5・県79、丞相・大将各1人捕獲であった。
人物評と諸呂誅滅
- 勃は木訥剛直・敦厚な人柄で、高帝は大事を任せうる人物と見た。学問を好まず、儒者・説客を召しても東向きに座り「さっさと話せ」と促すほど無骨だった。
- 燕平定後に高祖崩御、勃は列侯として孝恵帝に仕えた。孝恵帝6年、太尉官が置かれ勃が太尉となり、10年後に高后が崩御。呂禄・呂産が漢の兵権を握り劉氏を危うくしようとしたが、勃は太尉でも軍門に入れず、丞相陳平も政を任せられなかった。そこで勃は平と謀り諸呂を誅して孝文帝を立てた(詳細は呂后・孝文の記に記す)。
文帝擁立後の栄辱
- 文帝即位後、勃は右丞相となり金5000斤・食邑万戸を賜った。ある人が「誅呂立代の功で威震天下、その上厚賞尊位にあれば禍が及ぶ」と説くと、勃は恐れて自ら丞相印を返上した。1年余り後、丞相陳平が死に再び丞相となったが、十余月後、文帝の「列侯就国」の詔を諸侯が実行しないのを見て、勃は「丞相たる自分が率先すべき」と言われ免職・就国となった。
- その後、河東守尉の巡行のたびに周勃は誅殺を恐れ甲を着て家人に武器を持たせ出迎えるようになった。誣告により逮捕され廷尉に送られ、獄吏に千金を贈って娘婿の公主(文帝の娘、太子勝之の妻)を証人にするよう教示された。薄昭が薄太后に取りなし、太后は文帝を「絳侯は皇帝の璽を帯び北軍を統率した時期に反さなかったのに、今更小県で反そうとするか」と叱責、文帝は釈放し爵邑を戻した。周勃は出獄後「かつて百万の軍を率いたが、獄吏の貴さを知らなかった」と述懐した。
周勃の死と後継、周亜夫の登場
- 周勃は再び就国、文帝11年に死去、諡は武侯。子勝之が継ぐが6年後、公主と不仲で殺人の罪を得て国除。1年絶えた後、文帝は勃の賢子で河内守だった亜夫を条侯に封じ絳侯家の後を継がせた。
- 亜夫がまだ河内守だった頃、人相見の許負が「あなたは3年後に侯となり、8年後に将相となり国政を握る、人臣として並ぶ者なき富貴を得るが、その9年後に餓死する」と予言した。亜夫は笑い「兄が既に父を継いで侯となっている、兄に何かあれば子が継ぐはず、なぜ私が侯になるのか。もし本当に貴くなるなら、なぜ餓死などありえるのか、示してくれ」と問うと、許負は口を指して「ここに餓死の相がある」と答えた。3年後、兄絳侯勝之が罪を得て文帝が勃の賢子を選ぶ際、皆が亜夫を推挙し条侯に封じられ絳侯家を継いだ。
細柳の軍と将軍の器
- 文帝後6年、匈奴が大挙して侵入。宗正劉礼を将軍として覇上に、祝茲侯徐厲を棘門に、河内守亜夫を細柳に配して備えた。文帝は自ら労軍し、覇上・棘門では馳せ入り将以下が騎馬で送迎したが、細柳軍では軍吏が甲冑を着け弓を張り詰めており天子の先駆すら入れなかった。「軍中では将軍の令のみを聞き天子の詔は聞かぬ」と門都尉が告げ、天子自ら使者を送って初めて開門、軍中では馳駆を禁じられ天子は轡を按じて徐行、亜夫は「甲冑の士は拝礼せず、軍礼で見える」と持兵のまま揖礼した。天子は威儀を正し「皇帝敬んで将軍を労う」と伝えさせ礼を終えて去った。群臣は驚き、文帝は「これぞ真の将軍、覇上・棘門は児戯に等しく襲えば虜にできよう、亜夫は犯しがたい」と称賛し続けた。1月余りで3軍とも解散、亜夫は中尉に拝命した。
呉楚討伐と丞相への道
- 孝文帝崩御に際し太子に「緩急あらば周亜夫こそ兵を任せられる」と遺言、文帝崩御後亜夫は車騎将軍となった。孝景3年、呉楚が反すると亜夫は中尉から太尉となり東征。「楚兵は剽軽で正面から争いがたい、梁を犠牲にして糧道を絶てば制せる」と献策し許可を得た。
- 滎陽で軍を集結、呉が梁を攻め梁が急を告げても亜夫は昌邑に向かい塁を深くして守り、梁の再三の要請にも応じなかった。梁の上訴で景帝が救援を命じても詔に従わず堅塁を守り、弓高侯らに呉楚の糧道を断たせた。呉軍は飢え度々挑発するも応じず、夜に軍中が驚き乱れ亜夫の帳下まで及んだが亜夫は動じず臥したまま、やがて鎮まった。呉軍が塁の東南陬に向かうと見せかけたが亜夫は西北を固め、果たして精鋭が西北を襲うも入れず、飢えた呉軍は退却、亜夫は精兵で追撃し大破した。呉王濞は軍を捨て壮士数千と丹徒に逃げたが漢軍は乗勝して残兵を降し呉王の首に千金の懸賞をかけ、月余りで越人が呉王の首を献じた。呉楚の攻防は3ヶ月で終わり、諸将は亜夫の計略を是とした。これにより梁孝王は亜夫を恨むようになった。
丞相としての剛直
- 帰還後太尉官を再置、5年後丞相に昇進し景帝に重んじられたが、景帝が栗太子を廃す際、丞相として固く争うも聞き入れられず、以後景帝は亜夫を疎んじた。梁孝王も朝見のたびに太后へ条侯の短所を訴えた。
- 竇太后が皇后の兄王信の封侯を望むと景帝は先帝が封じなかった南皮・章武侯の例を挙げ渋り、太后は「人はそれぞれ時機がある」と迫ったが、景帝が丞相に諮ると亜夫は「高皇帝の『劉氏に非ざれば王とせず、功なくば侯とせず、約に背けば天下共に撃つ』の約に照らせば信の封侯は約に反する」と拒み、景帝は沈黙して取りやめた。
- 後に匈奴の王唯徐盧ら5人が降ると、景帝は後続を勧めるため封侯しようとしたが、亜夫は「主に背いて降った者を侯とすれば臣下の節義を責められない」と反対、景帝は「丞相の議は用いぬ」として唯徐盧らを列侯に封じた。亜夫は病と称し景帝中3年に丞相を辞した。
冷遇と獄死
- 後日、景帝は禁中に条侯を召し食事を賜ったが大きな肉塊のみで切り分けず箸も置かなかった。条侯が不満げに尚席に箸を求めると、景帝は笑って「これはお前には物足りぬか」と皮肉り、条侯は冠を脱いで謝したが席を立つとすぐ趨り出た。景帝はこれを見送り「この不平顔の男は幼主に仕える臣ではない」と評した。
- 間もなく条侯の子が父の葬儀のため尚方の甲楯500具を工官から買ったが、雇った人夫に賃金を払わなかったため人夫が官器の密売を訴え条侯に累が及んだ。上書は天子に届き吏に下され、条侯は取り調べに応じなかったため景帝は「お前の申し開きは要らぬ」と廷尉に送った。廷尉が「謀反の意か」と問うと、亜夫は「買ったのは葬送具であり反とは無縁」と答えたが、廷尉は「地上で反さずとも地下で反する気か」と迫り、取り調べは苛烈さを増した。逮捕時に自殺しようとした亜夫を夫人が止めたため廷尉に送られ、5日間絶食し血を吐いて死んだ。国は除かれた。
平曲侯への継承と締めくくり
- 1年絶えた後、景帝は改めて勃の別の子堅を平曲侯に封じ絳侯の後を継がせた。19年後に死去、諡は共侯。子建徳が継ぎ13年、太子太傅となったが酎金の不正で元鼎5年に罪を得て国除。
- 条侯は果たして餓死し、その死後景帝は王信を蓋侯に封じた。
史論
- 太史公曰く、絳侯周勃は元々布衣の朴訥な人物で才は凡庸だったが、高祖に従い天下を定め将相の位につき、諸呂の乱に際して国難を匡し正道に復した功は伊尹・周公にも比すべきである。亜夫は用兵において威重と剛毅を兼ね、司馬穣苴も及ばぬほどであったが、自らの能に恃んで学ばず節を守り不遜であったため窮困に終わった。悲しむべきことである。