史記卷四十 楚世家第十

楚の始祖は帝顓頊高陽の後裔で、周成王期に熊繹が楚蛮の地に封じられたことに始まる(羋姓)。武王熊通の代に自ら王を称して自立し、莊王の代には「鳴かず飛ばず」の逸話を経て邲の戦いで晉を破り春秋の覇者の一に数えられた。以後も晉・呉・秦と抗争を繰り返し、靈王の暴政による乾谿の乱や白公の乱など内紛も経験したが、戦国末期には秦に圧迫され懷王が秦に抑留されて客死、郢を秦将白起に陥落させられて東方へ遷都した。最終的に秦の将軍王翦・蒙武により滅ぼされた。

年表(19件)
  • 武王
  • 37年熊通が「自ら王と称そう」と述べ武王を名乗り、王号を僭称する
  • 成王
  • 46年太子商臣(穆王)が成王を包囲して自害させ、代わり立つ
  • 莊王
  • 3年「鳴かず飛ばず」の淫楽をやめて政に励み、伍舉・蘇從を用いる
  • 17年鄭を降し、邲で晉軍を大破する
  • 共王
  • 16年鄢陵の戦いで晉に敗れ、共王が目を負傷する
  • 郟敖4年公子圍(靈王)が王を絞殺して即位する
  • 靈王
  • 12年乾谿の乱で国人が離反し、靈王は山中をさまよい飢死する
  • 平王
  • 6年費無忌の讒言により伍奢父子を誅殺、伍子胥は呉へ出奔する
  • 昭王
  • 10年呉軍が郢に攻め入り平王の墓を辱め、昭王は出奔する
  • 27年陣中で病没し、遺言により越女の子章(惠王)が立つ
  • 惠王
  • 8年白公勝の乱で惠王は幽閉されるが、葉公の救援で復位する
  • 懷王
  • 11年蘇秦の合従により楚懷王が縦約長となる
  • 17年丹陽の戦いで秦に大敗し、漢中の郡を失う
  • 30年秦に武関で騙され咸陽に抑留される
  • 頃襄王
  • 3年懷王が秦で客死する
  • 21年秦将白起が郢を陥し先王の墓を焼く。楚は陳城へ退く
  • 36年頃襄王が没し太子熊元(考烈王)が立つ
  • 考烈王
  • 22年諸侯と共に秦を伐つが敗れ、都を壽春へ遷す
  • 王負芻5年秦将王翦・蒙武が楚を破り王負芻を虜にし、楚は滅ぶ

出自

  • 楚の先祖は帝顓頊高陽に出る。高陽は黄帝の孫、昌意の子。高陽は稱を生み、稱は卷章を生み、卷章は重黎を生んだ。重黎は帝嚳高辛の火正(火官)となり大功を立て天下を照らしたため、帝嚳は祝融と命名した。共工氏が乱を起こすと帝嚳は重黎に討伐させたが討ち切れず、庚寅の日に重黎を誅し、弟の吳回を重黎の後継として火正・祝融とした。
  • 吳回は陸終を生み、陸終には六人の子があり、みな身を裂いて生まれたという。長子は昆吾、次は參胡、次は彭祖、次は會人、次は曹姓、六番目が季連(羋姓、楚の祖)である。昆吾氏は夏代に侯伯を務めたが桀の時に湯に滅ぼされ、彭祖氏は殷代に侯伯を務めたが殷末に滅ぼされた。季連は附沮を生み、附沮は穴熊を生んだが、その後は中原にいたり蛮夷にいたりして系譜が定かでない。
  • 周文王の時代、季連の末裔鬻熊が文王に仕えたが早世した。その子熊麗、熊麗の子熊狂、熊狂の子熊繹と続いた。

熊繹の封建と初期系譜

  • 熊繹は周成王の時、文王・武王に功労のあった子孫を挙用する中で楚蛮の地に封じられ、子男の田を与えられ羋氏を名乗り丹陽に居した。楚子熊繹は魯公伯禽、衛康叔の子牟、晉侯燮、齊太公の子呂伋と共に成王に仕えた。
  • 熊繹は熊艾を生み、熊艾は熊䵣を生み、熊䵣は熊勝を生んだ。熊勝は弟の熊楊を後継とし、熊楊は熊渠を生んだ。
  • 熊渠には三子があった。周夷王の時代、王室が衰え諸侯が互いに伐ちあう中、熊渠は江漢一帯の民心を得て庸・楊粵を伐ち鄂に至った。熊渠は「我らは蛮夷であるから中国の号諡には従わない」と述べ、長子の康を句亶王、中子の紅を鄂王、少子の執疵を越章王に立て、いずれも江上の楚蛮の地に置いた。周厲王の暴虐の時代には熊渠は討伐を恐れ王号を取り下げた。
  • 熊渠の後は熊毋康が継ぐはずであったが早世し、熊渠没後は子の熊摯紅が立った。摯紅が没するとその弟が弑して代わり立った。これが熊延である。熊延は熊勇を生んだ。
  • 熊勇六年、周人が厲王を攻め厲王は彘に出奔した。熊勇は十年で没し弟の熊嚴が後を継いだ。
  • 熊嚴は十年で没した。四子(長子伯霜、中子仲雪、次子叔堪、少子季徇)のうち長子伯霜が代わり立った。これが熊霜である。
  • 熊霜元年、周宣王が即位した。熊霜六年、没すると三弟が位を争い、仲雪は死に、叔堪は難を避けて濮に逃れ、末弟の季徇が立った。これが熊徇である。熊徇十六年、鄭桓公が初めて鄭に封じられた。二十二年、熊徇が没し子の熊咢が立ち、九年で没して子の熊儀(若敖)が立った。

若敖から武王まで

  • 若敖二十年、周幽王が犬戎に弑され周は東遷、秦襄公が諸侯に列せられた。二十七年、若敖が没し子の熊坎(霄敖)が立ち、六年で没して子の熊眴(蚡冒)が立った。蚡冒十三年、晉が曲沃の内紛で乱れ始めた。蚡冒十七年、没すると弟の熊通が蚡冒の子を弑して代わり立った。これが楚武王である。
  • 武王十七年、晉の曲沃莊伯が晉孝侯を弑した。十九年、鄭伯の弟段が乱を起こした。二十一年、鄭が天子の田を侵した。二十三年、衛が桓公を弑した。二十九年、魯が隱公を弑した。三十一年、宋の太宰華督が殤公を弑した。
  • 三十五年、楚が隨を伐った。隨は「我らに罪はない」と主張し、楚は「我らは蛮夷である、今諸侯は互いに叛き殺し合っている、我らも兵を有し中国の政を見たいので王室に我らの号を尊ばせてほしい」と述べた。隨人が周に取り次いだが王室は聞かず、隨は楚に報告した。三十七年、楚熊通は怒り「我が祖鬻熊は文王の師であったが早世した。成王は我が先公を挙げ子男の田を与えて楚に居させ、蛮夷はみな服したのに王は我に爵位を加えない、ならば自ら尊号を名乗ろう」と述べ自ら武王と称し、隨人と盟して去った。ここに濮の地を開いて領有した。
  • 五十一年、周は隨侯を召し楚が王を僭称したことを咎めさせた。楚は隨が自分たちに背いたとして隨を伐った。武王は軍中で没し兵は引いた。子の文王熊貲が立ち、初めて郢に都を定めた。

文王・莊敖・成王の即位

  • 文王二年、申を伐つため鄧を通過した際、鄧人は「楚王は取りやすい」と忠告したが鄧侯は聞かなかった。六年、蔡を伐ち蔡哀侯を虜にしたが後に釈放した。楚は強大となり江漢一帯の小国を圧迫し、小国はみな畏れた。十一年、齊桓公が覇を始め、楚もまた強大になり始めた。
  • 十二年、鄧を伐ち滅ぼした。十三年、文王が没し子の熊囏(莊敖)が立った。莊敖五年、弟の熊惲を殺そうとしたため惲は隨に出奔し、隨と共に莊敖を襲い弑して代わり立った。これが成王である。
  • 成王惲元年、即位すると徳を布き恵みを施し諸侯との旧好を結んだ。天子に使者を送ると天子は胙を賜り「南方の夷越の乱を鎮め、中国を侵すな」と命じた。ここに楚の地は千里に及んだ。
  • 十六年、齊桓公が兵をもって楚に迫り陘山に至った。楚成王は将軍屈完に兵を率いて防がせ桓公と盟を結んだ。桓公が周への貢納が滞っていることを責めると楚はこれを認め、桓公は引き上げた。
  • 十八年、成王は兵をもって北の許を伐ち、許君が肉袒して謝すと釈放した。二十二年、黄を伐った。二十六年、英を滅ぼした。

成王と諸侯

  • 三十三年、宋襄公が盟会を望み楚を招いた。楚王は怒って「招くとは、好んで来て辱めてやろう」と述べ、盂の会で宋公を捕らえ辱め、後に釈放した。三十四年、鄭文公が南朝し楚に服した。楚成王は北の宋を伐ち泓で破り、宋襄公を射傷し襄公はこの傷がもとで没した。
  • 三十五年、晉の公子重耳が楚を通過し、成王は諸侯の客礼で饗し秦へ厚く送った。
  • 三十九年、魯僖公が援軍を求めて来ると楚は申侯に兵を与えて齊を伐たせ穀を取り、齊桓公の子雍をここに置いた。齊桓公の七人の子は皆楚に亡命し、楚はみな上大夫とした。また祝融・鬻熊を祀らぬ夔を滅ぼした。
  • 夏、宋を伐つと宋は晉に急を告げ晉が救援に赴き、成王は兵を引いて帰った。将軍子玉が開戦を望んだが、成王は「重耳は長く国外に困窮していたが結局帰国できた、天が開いた者には敵し難い」と述べた。子玉が固く望んだため少数の兵を与えて出させたが、果たして晉は城濮で子玉を破った。成王は怒って子玉を誅した。
  • 四十六年、成王が初め商臣を太子に立てようとした際、令尹子上は「王はまだ齢若く、しかも多くの寵姫がおられます、太子の廃立は乱のもとです。楚国では代々年少の子を立てる慣習があります。しかも商臣は蜂の目に豺の声で残忍な人物、立てるべきではありません」と諫めたが成王は聞かず商臣を立てた。後に成王は子職を立て太子商臣を廃そうとし、商臣は噂を確かめようと傅の潘崇に相談した。潘崇は「王の寵姫江羋を饗応してわざと敬わずに接してみよ」と献策し商臣が実行すると、江羋は怒って「王がお前を殺して職を立てようとするのも当然だ」と口にした。商臣が潘崇に「本当だった」と告げると、崇は「事に仕えられるか」「亡命できるか」と問い、商臣は「できない」と答えたが「大事を行えるか」には「できる」と答えた。冬十月、商臣は宮衛の兵で成王を包囲した。成王は熊の掌の料理を食べてから死にたいと願ったが許されず、丁未、自ら絞首して死んだ。商臣が代わり立った。これが穆王である。

穆王から莊王の覇業まで

  • 穆王は立つと太子時代の宮を潘崇に与え太師として国事を掌らせた。穆王三年、江を滅ぼした。四年、六・蓼(皋陶の後裔の国)を滅ぼした。八年、陳を伐った。十二年、穆王が没し子の莊王侶が立った。
  • 莊王は即位三年、号令を出さず日夜遊興に耽り「敢えて諫める者は死罪」と国中に令した。伍舉が入って諫めようとした時、莊王は左に鄭姫、右に越女を抱き鍾鼓の間に座していた。伍舉が「隠喩をお聞かせしたい」と言い「阜にいる鳥が三年飛ばず鳴かない、これは何の鳥でしょう」と問うと、莊王は「三年飛ばぬのは飛べば天を衝くため、三年鳴かぬのは鳴けば人を驚かすためだ、下がってよい、わかっている」と答えた。数か月経ってもなお淫楽は甚だしく、大夫蘇從が入って諫めた。王が「命令を聞いていないのか」と問うと、蘇從は「身を殺してでも君を明らかにするのが臣の願いです」と答え、ここに莊王は淫楽をやめ政に励み、数百人を誅し数百人を登用し、伍舉・蘇從を用いて政を執らせ、国人は大いに喜んだ。この年に庸を滅ぼした。六年、宋を伐ち五百乗を得た。
  • 八年、陸渾の戎を伐ち洛に至り周の郊外で示威した。周定王は王孫滿を遣わし楚王を労った。楚王が鼎の大小軽重を問うと、王孫滿は「徳の有無によるもので鼎そのものではありません」と答えた。莊王が「鼎を私に阻むな、楚国の折れた矛先だけでも九鼎を鋳るに十分だ」と言うと、王孫滿は「昔虞夏の盛時、遠方から皆参内し金を九州の牧から貢がせ鼎を鋳て物の形を象り、百物を備えさせ民に神姦を知らしめた。桀に乱徳あり鼎は殷に遷り六百年続き、殷紂の暴虐で鼎は周に遷った。徳が明らかならば小さくとも重く、姦悪ならば大きくとも軽い。昔成王が郟鄏に鼎を定めた時、卜で三十世七百年と出た、これは天命による。周の徳は衰えても天命はまだ改まっていない、鼎の軽重は問うべきものではない」と答え、楚王は帰った。
  • 九年、若敖氏を宰相とした人物を讒言する者があり、誅を恐れて反乱を起こしたが、王は若敖氏の一族を滅ぼした。十三年、舒を滅ぼした。
  • 十六年、陳を伐ち夏徵舒を殺した。徵舒がその君を弑したための誅であった。陳を破ると即座に県として併合したが、群臣が皆祝う中、齊から使いに来ていた申叔時だけは祝わなかった。王が理由を問うと「諺に、牛を引いて人の田を通れば田主がその牛を取るという。通ったのは不当だとしても、牛まで取るのはやりすぎではありませんか。しかも王は陳の乱を理由に諸侯を率いて討伐しながら、その県を貪るのでは、義による討伐と何が違うのですか」と答え、莊王は改めて陳を旧に復した。
  • 十七年春、楚莊王が鄭を包囲し三月でこれを陥した。皇門から入ると鄭伯は肉袒し羊を牽いて迎え「私は天に見放され君にお仕えできず、君の怒りをこの邑にまで招きました、私の罪です。仰せに従うほかありません。南海に賓客として送られるのも、臣妾として諸侯に与えられるのも、仰せのままです。ですがもし君が厲・宣・桓・武の代からの好誼を忘れず社稷を絶やさず改めてお仕えさせていただけるなら、それが私の願いですが、望んでよいものかもわかりません。ここに真情を申し上げます」と述べた。楚の群臣は「王よ許すな」と言ったが、莊王は「その君主が人にへりくだれるのだから、民を用いることもできよう、どうして絶やせようか」と述べ、自ら旗を執り左右を指図して三十里退いて陣を張り、和睦を許した。潘尪が盟に入り子良が人質として出た。夏六月、晉が鄭を救援に来て楚と戦い、楚は河上で晉軍を大破し衡雍まで進んで帰った。
  • 二十年、宋を包囲した。楚の使者を宋が殺したためであった。包囲は五ヶ月に及び城中の食糧は尽き、子を交換して食べ骨を折って炊く有様であった。宋の華元が実情を告げると、莊王は「君子だ」と述べ兵を引いた。
  • 二十三年、莊王が没し子の共王審が立った。

共王・康王・郟敖・靈王

  • 共王十六年、晉が鄭を伐ち鄭が急を告げ共王は鄭を救援した。晉と鄢陵で戦い晉が楚を破り共王の目を射た。共王は将軍子反を召したが、酒好きの子反は従者豎陽穀の酒に酔って会見できず、王は怒って子反を殺し兵を引いて帰った。
  • 三十一年、共王が没し子の康王招が立った。康王は十五年で没し子の員(郟敖)が立った。
  • 康王が寵愛した弟には公子圍・子比・子皙・棄疾がいた。郟敖三年、季父の康王の弟公子圍を令尹とし兵事を掌らせた。四年、圍が鄭への使いの途中に王の病を聞いて引き返し、十二月己酉、圍は王の見舞いと称して入り絞め殺し、さらにその子莫・平夏も殺した。使いを鄭に出し、伍舉が「誰が後を継ぐのか」と問うと「我らの大夫圍です」と答えたが、伍舉は「共王の子圍が年長」と言い改めさせた。子比は晉に出奔し、圍が立った。これが靈王である。
  • 靈王三年六月、楚は晉に使者を出して諸侯を会したいと告げ、諸侯は申に集った。伍舉は「昔夏の啓には鈞臺の饗、商湯には景亳の命、周武王には盟津の誓、成王には岐陽の蒐、康王には豐宮の朝、穆王には塗山の会、齊桓公には召陵の師、晉文公には踐土の盟がありました、君は何を用いますか」と問うと靈王は「桓公にならう」と答えた。この時鄭の子産も居合わせた。晉・宋・魯・衛は参加しなかった。靈王は盟が済むと驕色を見せ、伍舉は「桀は有仍の会を開いたが有緡が叛き、紂は黎山の会を開いたが東夷が叛き、幽王は太室の盟を開いたが戎・翟が叛いた、君よ終わりを慎まれよ」と警告した。
  • 七月、楚は諸侯の兵を率いて呉を伐ち朱方を包囲した。八月、これを陥し慶封を捕らえその一族を滅ぼした。慶封を引き回して「齊の慶封のようにその君を弑しその孤児を弱らせ諸大夫と盟を結ぶことのないように」と晒したが、慶封は逆に「楚の共王の庶子圍がその兄の子員を弑して代わり立った例に及ぶ者などいない」と切り返した。靈王は激怒して人を遣わし慶封を殺させた。
  • 七年、章華臺を築き、諸国の亡命者を招き入れて実らせた。
  • 八年、公子棄疾に陳を滅ぼさせた。十年、蔡侯を召し酔わせて殺し、棄疾に蔡を治めさせ陳蔡公とした。
  • 十一年、徐を伐ち呉を恐れさせようとし、靈王は乾谿に陣して待った。王は「齊・晉・魯・衛はいずれも封建の折に宝器を受けたのに我らだけは受けていない、今周に鼎を求める使いを出せば与えるだろうか」と問うと、析父は「王にお与えするでしょう。昔我らの先王熊繹は荊山の辺鄙な地に居し、粗末な身なりで草莽を切り開き山林を跋渉して天子に仕え、ただ桃の弓と棘の矢で王事を助けたのみでした。齊は王の舅、晉・魯・衛は王の同母弟の国です、それゆえ楚には分与がなく彼らにはあったのです。周が今この四国と共に君王に服従しようとしているのに、どうして鼎を惜しむでしょうか」と答えた。靈王が「昔わが皇祖の伯父昆吾は旧許の地に居した、今鄭人がその田を貪り与えない、求めれば与えるだろうか」と問うと「周が鼎を惜しまぬのに鄭がどうして田を惜しめましょう」と答えた。靈王がさらに「昔諸侯は我らを遠ざけ晉を畏れていた、今我らは陳・蔡・不羹に大きな城を築き千乗の賦を課している、諸侯は我らを畏れるだろうか」と問うと「畏れましょう」と答え、靈王は喜んで「析父はよく古事を語る」と述べた。
  • 十二年春、靈王は乾谿での遊興を止められずにいた。国人は労役に苦しんでいた。かつて靈王が申で兵を会した折、越の大夫常壽過を辱め蔡の大夫觀起を殺していた。觀起の子は呉に亡命しており、呉王に楚討伐を勧め、常壽過の恨みを利用して乱を起こそうとし呉の間者となった。公子棄疾の命と偽って公子比を晉から召し、蔡に至って呉・越の兵と共に蔡を襲おうとした。公子比と棄疾を引き合わせ鄧で盟を結ばせた。ついに宮中に入り靈王の太子祿を殺し、子比を王に立て公子子皙を令尹、棄疾を司馬とした。まず王宮を掃討し、觀從は乾谿の軍に至り「国には新王が立った、先に帰れば爵位邑田室を戻す、遅れれば流刑にする」と楚の兵に告げると、楚の軍勢はみな潰えて靈王を見捨てて帰った。
  • 靈王は太子祿の死を聞き自ら車から身を投げ「人が子を愛するのはこれほどまでか」と述べた。侍者が「甚だしいものです」と答えると王は「私は多くの人の子を殺してきた、これに及ばぬはずがない」と述べた。右尹は「郊外で国人の意向を待つべきです」と勧めたが王は「衆怒には逆らえぬ」と拒んだ。「大県に入って諸侯に兵を乞うては」との勧めにも「みな叛いた」と答え、「諸侯に亡命して大国の考えを聞いては」との勧めにも「大きな福は二度は来ない、ただ辱めを受けるだけだ」と答えた。王は舟に乗って鄢に入ろうとしたが、右尹は王が策を用いぬと見て共に死ぬのを恐れ王を見捨てて逃げた。
  • 靈王は独り山中をさまよい、野人は恐れて誰も近づかなかった。王はかつての鋗人(宦官)に出会い「食を求めたい、もう三日食べていない」と告げると、鋗人は「新王が法を下し、王に食を与え従う者は三族に罪が及ぶと定めました、それに食を得る所もありません」と答えた。王はその者の股を枕にして眠り、鋗人は土塊を身代わりに置いて逃げた。王は目覚めても誰もおらず、飢えて起き上がれなくなった。芋尹申無宇の子申亥は「我が父は再三王命に背いたのに王は誅さなかった、この恩に応えねば」と述べて王を捜し、釐澤で飢えた王を見つけて連れ帰った。夏五月癸丑、王は申亥の家で死に、申亥は二人の娘を殉死させ共に葬った。
  • この時楚国は既に比を王に立てていたが、靈王がまだ戻るのではと恐れ、その死を知らなかったため、觀從は初め比に「棄疾を殺さねば国を得てもなお禍を受けるだろう」と進言したが、比は「忍びない」と拒んだ。從は「人があなたを忍ばないでしょう」と答えたが王は聞かず、去った。棄疾は帰国した。国人は毎夜「靈王が来た」と怯えていた。乙卯の夜、棄疾は船人に江上から「靈王が来たぞ」と叫ばせると国人はますます驚いた。さらに曼成然に初王比と令尹子皙に「王が来た、国人があなた方を殺そうとしている、司馬も間もなく来る、早く自ら図りなさい、辱めを受けぬように、衆怒は水火のように防ぎがたい」と告げさせると、初王比と子皙はついに自殺した。丙辰、棄疾は即位して名を熊居と改めた。これが平王である。

平王

  • 平王は二人の王を欺いて弑して自立したため国人・諸侯の離反を恐れ、百姓に恵みを施した。陳・蔡の地を復しその子孫を旧に復して立て、鄭の侵略した地も返した。国中を慰撫し政教を修めた。呉は楚の混乱に乗じ五人の将を捕らえて帰った。平王は觀從に「望みを叶えよう」と告げ、觀從は卜尹(占者の長)を望みそれが許された。
  • かつて共王には寵愛する五人の子があり嫡子が定まらず、諸神に祭って神意を問い、社稷を主る者を決めようと巴姬とひそかに璧を室内に埋め、五公子を斎戒させて招き入れた。康王は璧をまたぎ、靈王は肘をこれに触れさせ、子比・子皙は共に遠かった。平王は幼く上位に抱かれて拝んだ拍子に璧の紐を押さえた。そのため康王は年長で立ったがその子で失い、圍は靈王となったがその身で弑され、子比は十余日王位にあったのみ、子皙は立てず共に誅された。四子はみな後嗣を絶ったが、ただ棄疾だけが後に立ち平王となり楚の祭祀を継いだ、まさに神の啓示の通りであった。
  • かつて子比が晉から帰国した際、韓宣子が叔向に「子比は成功するだろうか」と問うと「成らないでしょう」と答えた。宣子が「同じ悪を求める者どうし市場の商人のようなものではないか、なぜ成らないのか」と問うと、叔向は「共に好むものがなければ共に悪む者もいません。国を取るには五つの難があります。寵を得ても人材を得ないのが一つ、人材を得ても主となる者を得ないのが二つ、主を得ても謀がないのが三つ、謀があっても民を得ないのが四つ、民があっても徳がないのが五つです。子比は晉に十三年いましたが、晉楚の従者で通じる者がないのは人材がない証、一族は尽き親族も叛いたのは主がない証、機に乗じずに動いたのは謀がない証、長く異国に留まったのは民がない証、亡命しても慕う者がなかったのは徳がない証です。王は虐であっても忌みはばからず、子比はこの五つの難を経て君を弑した、誰が成功させられましょう。楚国を得るのは棄疾ではないでしょうか。陳・蔡を治め方城の外を従え、悪事は起こらず盗賊は隠れ、私欲を通さず民に怨みがない、神もこれを命じ国民もこれを信じています。羋姓に乱があれば必ず末子が立つのが楚の常です。子比の官は右尹に過ぎず、身分では庶子に過ぎず、神意からも遠い、民の支持もない、どうして立てましょう」と答えた。宣子が「齊桓公・晉文公もそうではなかったか」と問うと、叔向は「齊桓公は衛姫の子で釐公に寵愛され、鮑叔牙・賓須無・隰朋を輔とし莒・衛を外の支え、高・国を内の支えとし、善を聞けば速やかに従い恵みを施して倦まなかった、国を得るのは当然でした。我らの文公も狐季姬の子で獻公に寵愛され、学を好んで倦まず十七歳で五人の士を得、子餘・子犯を腹心とし魏犨・賈佗を股肱とし、齊・宋・秦・楚を外の支え、欒・郤・狐・先を内の支えとし、亡命十九年なお志を篤くし、惠公・懷公が民を棄てた際にその民は文公に従いました、国を得たのも当然です。子比には民への施しもなく外の援けもなく、晉を去っても晉は送らず、楚に帰っても楚は迎えなかった、どうして国を得られましょう」と答えた。子比は果たして最後まで立たず、立ったのは棄疾であった、叔向の言葉通りであった。
  • 平王二年、費無忌を秦に遣わして太子建の妃を娶らせた。妃は美しく、まだ到着せぬうちに無忌が先に帰り「秦女は美しい、自ら娶り太子には別の女を求めるべきです」と平王に説いた。平王はこれに従い自ら秦女を娶り熊珍が生まれた。太子には改めて別の女を娶らせた。この頃伍奢が太子太傅、無忌が少傅であったが、無忌は太子に寵愛されなかったため常に太子建を讒言した。建は当時十五歳、母は蔡の女で王に寵愛されず、王は次第に建を疎んじるようになった。
  • 六年、太子建を城父に置き辺境を守らせた。無忌はさらに日夜太子建を讒言し「無忌が秦女を入れて以来、太子は恨みを抱き王をも恨みかねません、王よ自ら備えを。しかも太子は城父にあって兵を擁し諸侯と外交を結んでおり、いずれ攻め込むつもりでしょう」と述べた。平王は傅の伍奢を召して咎めた。伍奢は無忌の讒言と知り「王はなぜ小臣の言葉で骨肉を疎んじるのですか」と答えた。無忌は「今抑えねば後で悔いますぞ」と述べ、王はついに伍奢を幽閉した。司馬奮揚に太子建を召させ誅そうとしたが、太子はこれを聞き宋に亡命した。
  • 無忌は「伍奢には二子がある、殺さねば楚の患いとなる、父を赦す条件で召せば必ず来る」と述べ、王は伍奢に「二子を差し出せば生かし、そうでなければ死ぬ」と告げさせた。奢は「尚は来るが胥は来ないでしょう」と答えた。理由を問われ「尚は廉直で節義に篤く慈孝仁愛の人、召されて父の赦免と聞けば必ず来て死をも顧みません。胥は智謀に富み勇敢で功を誇る質、来れば必ず死ぬと知って来ないでしょう。しかし楚の患いとなるのはこの胥でしょう」と述べた。王は使者を送り「来れば父を赦す」と告げると、伍尚は伍胥に「父の赦免を聞いて行かねば不孝、父が殺されても報いねば無謀、力量を考えて事にあたるのが知恵というものだ、そなたは逃げよ、私は帰って死のう」と告げ、伍尚は帰った。伍胥は弓を構え矢をつがえて使者の前に現れ「父に罪があるのになぜその子まで召すのか」と述べ、射ようとする姿勢に使者は逃げ帰り、伍胥はそのまま呉へ出奔した。伍奢はこれを聞き「胥が逃げたからには楚国は危うい」と述べ、楚人は伍奢と尚を殺した。
  • 十年、楚太子建の母は居巢にあり呉に通じていた。呉は公子光に楚を伐たせ陳・蔡を破り太子建の母を連れ去った。楚は恐れ郢に城を築いた。かつて呉の辺邑卑梁と楚の辺邑鍾離の子供が桑の葉を争って両家が争い卑梁の人を殺す事件があり、卑梁の大夫が怒って鍾離を攻めると、楚王はこれを聞いて怒り卑梁を滅ぼした。呉王もこれを聞いて激怒し兵を発し、公子光に建の母の縁を頼らせ鍾離・居巢を滅ぼした。楚はますます恐れ郢に城を築いた。
  • 十三年、平王が没した。将軍子常は「太子珍は幼く、その母はもと太子建が娶るはずだった女だ」と述べ令尹子西を立てようとした。子西は平王の庶弟で義に篤かったが「国には常法があり勝手に立て替えれば乱を招き言えば誅を受ける」と拒み、太子珍を立てた。これが昭王である。

昭王

  • 昭王元年、楚の民は太子建を讒言により亡命させ伍奢父子と郤宛を殺した無忌を憎んでいた。郤宛の一族伯氏の子嚭と伍子胥は呉に亡命し、呉は再三楚を侵し楚人は無忌をますます恨んだ。楚の令尹子常は民心を宥めるため無忌を誅殺し、民は喜んだ。
  • 四年、呉の三公子が楚に亡命し、楚はこれを封じて呉に備えさせた。五年、呉が楚の六・潛を伐ち取った。七年、楚は子常に呉を伐たせたが、呉は豫章で楚を大破した。
  • 十年冬、呉王闔閭・伍子胥・伯嚭が唐・蔡と共に楚を伐ち、楚は大敗し呉軍は郢に入り伍子胥の恨みから平王の墓を辱めた。呉軍が来た際、楚は子常に兵を迎え撃たせ漢水を挟んで陣したが、呉に子常は破られ鄭へ出奔した。楚軍は敗走し呉は勝ちに乗じて追撃し五戦して郢に至った。己卯、昭王が出奔した。庚辰、呉人が郢に入った。
  • 昭王の亡命は雲夢に至ったが、雲夢の民は王と知らず矢を放って傷つけた。王は鄖へ走った。鄖公の弟懷は「平王は我が父を殺した、今その子を殺してもよいのではないか」と述べたが鄖公はこれを止め、それでも昭王が弑されることを恐れ共に隨へ出奔した。呉王は昭王が隨にいると聞くと隨に迫り「江漢の間に封じられた周の子孫は楚がことごとく滅ぼした」と述べ昭王の引き渡しを求めた。王の従臣子綦は王を深く隠し自らを王と偽り「私を呉に引き渡せ」と隨人に告げた。隨人が卜すると不吉と出たため、隨は呉に「昭王は逃げ隨にはいない」と偽って断った。呉は自ら捜索を求めたが隨は許さず、呉も兵を引いた。
  • 昭王の郢脱出後、申鮑胥を秦に遣わし救援を求めた。秦は戦車五百乗を送って楚を救い、楚も残兵を収めて秦と共に呉を撃った。十一年六月、稷で呉を破った。この時呉王の弟夫概が呉軍の敗傷を見て逃げ帰り自ら王を称した。闔閭はこれを聞き兵を引いて楚を去り、夫概を討った。夫概は敗れ楚に亡命し、楚は堂谿に封じ堂谿氏と号させた。
  • 楚昭王は唐を滅ぼした。九月、郢に帰還した。十二年、呉が再び楚を伐ち番を取った。楚は恐れ郢を去り北の鄀に都を移した。
  • 十六年、孔子が魯の相となった。二十年、楚は頓・胡を滅ぼした。二十一年、呉王闔閭が越を伐ち、越王句踐に射傷され没した。呉はこれ以来越を恨み西の楚を伐たなくなった。
  • 二十七年春、呉が陳を伐つと楚昭王は救援に赴き城父に陣した。十月、昭王が軍中で病み、赤雲が日を挟んで飛ぶという異変があった。昭王が周の太史に問うと「これは楚王に害があるが、将相に移すことができます」と答えた。将相はこれを聞き自ら禍を引き受けようと神に祈願を願い出たが、昭王は「将相は私の股肱、その禍を移してどうする」と許さなかった。占いで黄河の神が祟りとされ、大夫が河への祈祷を勧めたが、昭王は「我が先王が封を受けて以来、望みは江・漢の範囲を出たことがない、河は我が罪の及ぶ範囲ではない」と拒んだ。孔子は陳でこの話を聞き「楚昭王は大道に通じている、国を失わなかったのも当然だ」と評した。
  • 昭王の病が重くなると諸公子・大夫を召し「私は不才の身で二度楚の軍を辱めた、今こそ天寿を全うできる、私の幸いである」と述べ、弟の公子申に位を譲ろうとしたが辞退され、次に公子結に譲ろうとしたが辞退され、さらに公子閭に譲ってようやく(五度目に)許された。まさに戦端が開かれようという庚寅の日、昭王は軍中で没した。子閭は「王の病は重く、その子を措いて群臣に譲られた、私が承知したのは王の意を広く示すためであった、今君王が亡くなられた以上、どうして君王の真意を忘れられようか」と述べ、子西・子綦と謀り兵を伏せ道を閉ざして越女の子章を迎え立てた。これが惠王である。その後兵を収め昭王を葬った。

惠王・白公の乱

  • 惠王二年、子西は旧太子建の子勝を呉から召し巢の大夫とし白公と号させた。白公は兵を好み士にへりくだり、仇討ちを望んでいた。六年、白公は令尹子西に鄭討伐の兵を求めた。かつて白公の父建は鄭に亡命していたが鄭に殺され、白公自身も呉に亡命し、子西が再び召したことから鄭への恨みを募らせ討伐を望んだのであった。子西は許したがまだ兵を発していなかった。八年、晉が鄭を伐ち鄭が楚に急を告げると、楚は子西に鄭を救わせたが、子西は賂を受けて引き上げた。白公勝は怒り、勇力ある死士石乞らと共に令尹子西・子綦を朝廷で襲い殺し、惠王を捕らえて高府に幽閉し弑そうとした。惠王の従者屈固は王を背負って昭王夫人の宮へ逃げ込んだ。白公は自ら王を称した。一月余り後、葉公が楚を救援に来て惠王の徒党と共に白公を攻め殺した。惠王は復位した。この年、陳を滅ぼして県とした。
  • 十三年、呉王夫差が強大になり齊・晉を圧して楚に迫った。十六年、越が呉を滅ぼした。四十二年、楚は蔡を滅ぼした。四十四年、楚は𣏌を滅ぼし秦と和した。この頃越は既に呉を滅ぼしていたが江・淮の北を治める力はなく、楚は東方に侵攻し領地を泗水のほとりまで広げた。
  • 五十七年、惠王が没し子の簡王中が立った。

簡王から宣王まで

  • 簡王元年、北の莒を滅ぼした。八年、魏文侯・韓武子・趙桓子が初めて諸侯に列せられた。二十四年、簡王が没し子の聲王當が立った。聲王六年、盗賊に殺され子の悼王熊疑が立った。悼王二年、三晉(韓趙魏)が楚を伐ち乘丘まで至って退いた。四年、楚が周を伐った。鄭が子陽を殺した。九年、韓を伐ち負黍を取った。十一年、三晉が楚を伐ち大梁・榆関で楚を破った。楚は秦に厚く賄賂を贈り和を結んだ。二十一年、悼王が没し子の肅王臧が立った。
  • 肅王四年、蜀が楚を伐ち茲方を取った。楚はここに扞関を築いて防いだ。十年、魏が楚の魯陽を取った。十一年、肅王が没し子がなかったため弟の熊良夫が立った。これが宣王である。
  • 宣王六年、周天子が秦獻公を祝賀した。秦は再び強大になり、三晉もますます強大になり中でも魏惠王・齊威王が特に強かった。三十年、秦は衛鞅を商に封じ南で楚を侵した。この年、宣王が没し子の威王熊商が立った。

威王・懷王

  • 威王六年、周顯王が秦惠王に文武の胙を送った。
  • 七年、齊の孟嘗君の父田嬰が楚を欺いたため、楚威王は齊を伐ち徐州で破り齊に田嬰の追放を命じた。田嬰は恐れたが、張丑が楚王に「王が徐州で勝てたのは田盼子が用いられなかったからです。盼子は国に功があり百姓もその指揮に従います。嬰子は盼子を用いず申紀を用いました。申紀は大臣にも民にも支持されず、それゆえ王が勝てたのです。今嬰子を追放すれば盼子が用いられ、再び軍を整えて王に対抗するでしょう、それは王にとって得策ではありません」と偽って説き、楚王はついに追放を取りやめた。
  • 十一年、威王が没し子の懷王熊槐が立った。魏は楚の喪に乗じて陘山を取った。
  • 懷王元年、張儀が初めて秦惠王の相となった。四年、秦惠王が初めて王を称した。
  • 六年、楚は柱国昭陽に兵を与え魏を攻めさせ襄陵で破り八邑を得た。さらに兵を齊へ転じると齊王は憂えた。秦の使いで齊にいた陳軫は「王よご心配なく、私が兵を退かせましょう」と述べ昭陽の陣中を訪ね「楚国の法では敵軍を破り将を殺した者にどのような栄誉が与えられますか」と問うと、昭陽は「官は上柱国、爵は執珪です」と答えた。陳軫が「それより貴いものは」と問うと「令尹です」と答え、陳軫は「今あなたは既に令尹、これ以上の栄達はありません。たとえ話をしましょう。ある人が舎人たちに一杯の酒を与えたところ、皆で飲むには足りないので地面に蛇を描き最初に描き終えた者が飲むことにした。一人が『私が先に描けた』と杯を取り『さらに足まで描けるぞ』と描き足したところ、他の者が『蛇に足はない、足を描いたらもう蛇ではない』と酒を奪って飲んでしまった、という話です。今あなたは楚の相として魏を破り、その功績はこれ以上ない頂点にあります。さらに齊を攻めて勝てば官爵はこれ以上増えず、負ければ命を失い爵位も失い楚の恥となる、これは蛇に足を描くようなものです。兵を退いて齊に恩を売る方が、満を持する策というものです」と説いた。昭陽は「なるほど」と答え兵を引いた。
  • 燕・韓の君が初めて王を称した。秦は張儀を遣わし楚・齊・魏と会し齧桑で盟を結ばせた。
  • 十一年、蘇秦が山東六国の合従を約し秦を共に攻めることとなり、楚懷王が縦約長となった。函谷関に至ると秦が出兵し六国はいずれも兵を引いたが齊だけが遅れた。十二年、齊湣王が趙・魏の軍を破り、秦も韓を破り齊と長を争った。
  • 十六年、秦が齊を伐とうとしたが楚は齊と縦親の関係にあったため、秦惠王はこれを憂え張儀を偽って免相させ楚に遣わした。張儀は楚王に「我が王が最も好むのは大王です、私自身も大王の門番になりたいと願うほどです。我が王が最も憎むのは齊王です、私もまた同様です。それなのに大王は齊と親しくなさっている、そのため我が王は大王にお仕えできず、私も門番にすらなれません。大王が齊との関係を絶ってくだされば、秦は使者を通じてかつて楚から奪った商於の地六百里をお返しします。そうすれば齊は弱まり、北で齊を弱め、西では秦に恩を売り、商於の地で富を得る、これは一挙三得の策です」と説いた。懷王は大いに喜び張儀に相印を与え連日酒宴を開き「私は商於の地を取り戻した」と吹聴した。群臣は皆祝ったが陳軫だけは弔意を示した。懷王が理由を問うと、陳軫は「秦が王を重んじるのは王が齊と結んでいるからです。今地はまだ得ていないのに齊との関係だけ先に絶てば楚は孤立します。秦がどうして孤立した国を重んじるでしょうか、必ず楚を軽んじるようになります。しかも先に地を得てから絶交すれば秦の計略は成りませんが、先に絶交してから地を求めれば必ず張儀に欺かれます。欺かれれば王は必ず怨むことになり、それは西に秦の患いを起こし北に齊との交わりを絶つことになります。西に秦の患い、北に齊との断絶があれば両国の兵が共に攻めてくるでしょう、それゆえ弔うのです」と答えたが、楚王は聞かず一将軍を西へ送り地を受け取らせた。
  • 張儀は秦に帰ると酔って車から落ちたと偽り病と称して三ヶ月出仕せず、地は得られなかった。楚王は「張儀は私が齊との断交を不十分だと思っているのか」と考え、勇士宋遺を北へ遣わし齊王を辱めさせた。齊王は激怒し楚との符を折って秦と結んだ。秦齊の交わりが結ばれると張儀は初めて出仕し楚の将軍に「なぜ地を受け取らないのか、某所から某所まで、六里四方だが」と告げた。楚の将軍は「私が受けると聞いていたのは六百里で、六里ではない」と答え、懷王に報告した。懷王は激怒し秦討伐の兵を興そうとした。陳軫は重ねて「秦討伐は得策ではありません、いっそ名だたる都邑一つを秦に賄い、共に齊を伐つ方がよい。それなら秦に失った分を齊で取り返せ国を保てます。今すでに齊と絶交した上に秦にも欺かれたと責めれば、秦齊の交わりを結ばせ天下の兵を招くことになり、国は大きく傷つくでしょう」と諫めたが楚王は聞かず、秦との和を断ち西へ兵を発した。秦も兵を発して迎え撃った。
  • 十七年春、丹陽で秦と戦い秦は楚軍を大破し甲士八万を斬り、大将軍屈匄・裨将軍逢侯丑ら七十余人を虜にし漢中の郡を取った。懷王は激怒し国中の兵を挙げて再び秦を襲い藍田で戦ったが、楚軍は大敗した。韓・魏はこの窮状を見て南から楚を襲い鄧に至った。楚はこれを聞き兵を引いて帰った。
  • 十八年、秦は使者を送り再び楚と和親を結ぼうとし、漢中の地の半分を割いて和睦を求めた。楚王は「地は要らない、張儀が欲しい」と答えた。張儀はこれを聞き自ら楚行きを願い出た。秦王が「楚はそなたを恨んでいる、どうするのか」と問うと、張儀は「私は楚の側近靳尚と親しく、靳尚は楚王の寵姫鄭袖に取り入っており、袖の言葉には王も従います。しかも私はかつて商於の約束を違えた負い目があり、今秦楚が大戦した以上、直接楚に謝罪せねば解決しません。しかも大王が健在な限り楚は私を軽々しくは処断できないでしょう。もし私を殺すことで国のためになるなら、それも私の望むところです」と答え、ついに楚へ使いした。
  • 楚に至ると懷王は面会せず張儀を幽閉して殺そうとした。張儀は靳尚に取り入り、靳尚は懷王に「張儀を捕らえれば秦王は必ず怒ります、天下は楚に秦の後ろ盾がないことを知り楚を軽んじるでしょう」と説いた。さらに夫人鄭袖には「秦王は張儀を深く愛している、王が彼を殺そうとしているので、上庸の地六県を楚に贈り美人を楚王に嫁がせ後宮の歌姫まで添えて贖おうとするだろう。楚王が地を重んじれば秦の女は貴ばれ、夫人は疎まれることになる、それより口添えして張儀を釈放させた方がよい」と説いた。鄭袖はついに王に張儀の釈放を進言し王は張儀を釈放した。釈放された張儀は懷王の厚遇を受け、楚に縦約を破り秦との親和と婚姻を勧めさせた。張儀が去った後、齊から戻った屈原が「なぜ張儀を誅殺しなかったのですか」と諫めると、懷王は悔いて追わせたが間に合わなかった。この年、秦惠王が没した。
  • 二十年、齊湣王は縦約の長となろうとし、楚が秦と結んだことを憎み書を送って「私は楚が名分を明らかにしないことを憂えている。秦惠王が死に武王が立ち、張儀は魏へ去り樗里疾・公孫衍が用いられている今、楚は秦に仕えている。樗里疾は韓と、公孫衍は魏と親しい、楚が秦に仕えれば韓・魏も恐れて二人を頼って秦と結ぶだろう、そうなれば燕・趙も秦に仕えるようになる。四国が争って秦に仕えれば楚は郡県同然になる。王はなぜ私と力を合わせ韓・魏・燕・趙をまとめ縦約を結び周王室を尊び、兵を休め民を安んじて天下に号令しないのか。誰も逆らわず王の名は成るだろう。王が諸侯を率いて共に伐てば秦は必ず破れる。王は武関・蜀・漢の地を取り、呉・越の富を私し江海の利を独占できる。韓・魏が上党を割き函谷関に迫れば楚の強さは百万に及ぶ。しかも王は張儀に欺かれ漢中の地を失い藍田で兵を挫かれた、天下はみな王に代わって怒りを覚えている。それなのに今また秦に先んじて仕えようとするのか、大王よよくお考えいただきたい」と述べた。
  • 楚王は既に秦との和を望んでいたが、齊王の書を見て決めかねて群臣に議論させた。ある者は秦との和を、ある者は齊への同調を説いた。昭雎は「王が東で越から地を取っても恥をそそぐには足りません、秦から地を取ってこそ諸侯への恥をそそげます。王は齊・韓と深く結び樗里疾を重んじさせるのがよい、そうすれば韓・齊の重みを得て地を求められます。秦が韓の宜陽を破ったのに韓がなお秦に仕えるのは、先王の墓が平陽にあり秦の武遂がそこから七十里しか離れておらず特に秦を畏れているからです。そうでなければ秦が三川を攻め趙が上党を攻め楚が河外を攻めれば韓は必ず滅びます。楚が韓を救っても韓の滅亡を防げるわけではありませんが、それでも韓を存続させているのは楚です。韓が武遂を秦から得た上に王がこれを厚遇し、齊・韓の力で樗里疾を重んじさせれば、疾はその主に楚を見捨てさせられなくなります。今さらに楚の重みが加われば樗里疾は必ず秦に働きかけ、楚の侵された地も戻ってくるでしょう」と説いた。懷王はこれを容れ、結局秦とは結ばず齊と結び韓と親しんだ。
  • 二十四年、齊に背き秦と結んだ。秦昭王が初めて立ち楚に厚く賄賂を贈った。楚は嫁を秦に迎えた。二十五年、懷王は秦昭王と会盟し黄棘で約を結んだ。秦は楚に上庸を返した。二十六年、齊・韓・魏は楚が縦約に背いたとして秦と結び、三国共に楚を伐った。楚は太子を秦に人質に出して救援を求めた。秦は客卿通に兵を与え楚を救わせ、三国は兵を引いた。
  • 二十七年、秦の大夫が楚の太子と私闘し、太子はこれを殺して逃げ帰った。二十八年、秦は齊・韓・魏と共に楚を攻め楚将唐眜を殺し重丘を取って去った。二十九年、秦が再び楚を攻め楚軍二万が死に将軍景缺が殺された。懷王は恐れ太子を齊に人質に出して和を求めた。三十年、秦が再び楚を伐ち八城を取った。秦昭王は楚王に書を送り「かつて私と王は兄弟の約を結び黄棘で盟い太子を人質として深く歓びました。太子が我が重臣を殺して謝罪もせず逃げ去ったため、私は怒りに耐えかね兵で貴国の辺境を侵しました。今聞けば王は太子を齊へ人質に送り和を求めているとか。私と楚は境を接し婚姻を結んできた仲、久しく親しんできました。それなのに秦楚が不和では諸侯に号令できません。私は王と武関で会し面と向かって約を結び、盟を終えて去りたい、これが私の願いです、謹んで申し上げます」と述べた。
  • 楚懷王は秦王の書を見て憂えた。行けば欺かれることを恐れ、行かねば秦の怒りを恐れた。昭雎は「王は行かず、兵を発して自守すべきです。秦は虎狼の国、信用できません、諸侯を併呑する野心があります」と諫めたが、懷王の子子蘭は行くよう勧め「どうして秦の歓心を絶つことがありましょう」と述べ、ついに秦昭王のもとへ赴いた。昭王は一将軍に王を装わせ武関に伏兵を置いて偽り、楚王が至ると武関を閉ざし咸陽まで連れて行き、章臺で朝見させ属国の臣のように扱い対等の礼を取らなかった。楚懷王は激怒し昭雎の言に従わなかったことを悔いた。秦は楚王を留め置き巫・黔中の郡を割譲するよう迫った。楚王は盟約を結びたかったが秦は先に地を求めた。楚王は怒り「秦は私を欺いた上さらに地まで強要するのか」と拒み、秦はそのまま王を抑留した。
  • 楚の大臣たちは憂え「我が王は秦にあって帰れず地の割譲を強要されている、しかも太子は齊にあり、齊・秦が謀を結べば楚に国がなくなる」と語り合い、国内にいる懷王の子を立てようとした。昭雎は「王と太子が共に諸侯に苦しめられている今、王命に背いて庶子を立てるのは適当ではない」と述べたが、齊には偽って太子の死を報じた。齊湣王はその相に「太子を留めて楚の淮北を求めよう」と相談すると、相は「いけません、郢で王を立てれば我らはむなしく人質を抱えたまま天下に不義を行うことになります」と答えた。またある者は「そうではない、郢で王を立てれば新王と『下東国を我らにくれれば太子を殺してやろう、さもなくば三国と共に太子を立てるぞ』と取引でき、そうすれば東国は必ず得られる」と述べた。齊王は結局その相の策を用い太子を楚へ帰した。太子横は帰国して王に立った。これが頃襄王である。楚は秦に「社稷の霊のおかげで国に王が立ちました」と告げた。

頃襄王

  • 頃襄王橫元年、秦は懷王を抑留して地を得られなかったため、楚が新王を立てて対抗したことに怒り、秦昭王は兵を発し武関から楚を攻め楚軍を大破し首五万を斬り析など十五城を取って引き上げた。二年、楚懷王は秦を脱出して帰ろうとしたが秦がこれを察知し道を遮った。懷王は恐れ間道から趙へ逃げて帰国を図ったが、趙の主父は代におり、その子惠王が即位したばかりで恐れて楚王を受け入れなかった。楚王は魏へ逃げようとしたが秦の追手が迫り、ついに秦の使者と共に秦へ戻った。懷王はここで病を発した。頃襄王三年、懷王は秦で客死し、秦はその遺骸を楚へ送り返した。楚人は皆これを憐れみ親族の死のように悲しんだ。諸侯もこれにより秦を非としこと交わりを絶った。
  • 六年、秦は白起に韓を伊闕で伐たせ大勝し首二十四万を斬った。秦は楚王に「楚は秦に背いた、秦は諸侯を率いて楚を伐ち一戦の決着をつけようとしている、王よ士卒を整え一戦を楽しまれよ」と書を送った。頃襄王は憂え再び秦との和を図った。七年、楚は秦から嫁を迎え秦楚は再び和した。
  • 十一年、齊・秦がそれぞれ自ら帝を称したが、一月余りで帝号を捨て王に戻った。
  • 十四年、頃襄王は秦昭王と宛で好誼を結び和親した。十五年、楚王は秦・三晉・燕と共に齊を伐ち淮北を取った。十六年、秦昭王と鄢で会い、その秋にも秦王と穰で会した。
  • 十八年、楚人にわずかな弓と細い糸で帰り雁を射落とすことを好んだ者がおり、頃襄王はこれを聞いて召し問うた。答えて「小臣が鵾鴈や羅鸗を射るのは小さな遊びであり、大王に申し上げるほどのものではありません。しかし楚の大きさと大王の賢明さをもってすれば、狙うものはこれだけではありません。昔三王は道徳をもって天下を射止め、五霸は戦国の術をもって天下を射止めました。ですから秦・魏・燕・趙は鵾鴈であり、齊・魯・韓・衛は青首であり、騶・費・郯・邳は羅鸗にすぎません、それ以外は射るに足りません。六対の鳥を前にして王は何を取られますか。王は聖人を弓とし勇士を矢とし、時に応じて張り射てはいかがでしょう。この六対はことごとく袋に収められましょう。その楽しみは朝夕の遊びどころではなく、その獲物も鴨や雁の実などではありません。王が弓を張り魏の大梁の南を射れば、その右腕を撃って韓に直結させ中原の道を絶ち上蔡の郡を崩せます。さらに圉の東を射れば魏の左腕を解いて外に定陶を撃ち、魏の東方は棄てられ大宋・方与の二郡は奪えましょう。魏の両腕を断てば魏は倒れ、郯国を撃てば大梁も得られます。王が蘭臺に弓を執り西河で馬に水を飲ませ大梁を平定すれば、これが第一の楽しみです。もし王が弋猟を厭わなければ、宝弓を出し新しい矢を鍛え、東海で噣鳥を射て、長城を掩って防とし、朝に東莒を射て夕に浿丘を発し夜に即墨に迫り、さらに午道を制すれば、長城の東は収まり太山の北も定まります。西は趙と境を接し北は燕に達し、三国が翼を広げれば従は約せずして成るでしょう。北は燕の遼東を望み南は越の会稽を望む、これが第二の楽しみです。泗上の十二諸侯は左右に手を伸ばすだけで一朝にして併呑できます。今秦は韓を破っても長く憂いを抱え城を得ても守り切れず、魏を伐っても功なく趙を撃っても病に苦しんでいます、秦魏の勇力は尽きています、楚の旧地である漢中・析・酈も取り戻せましょう。王は宝弓を出し矢を鍛え鄳塞を渡り秦の疲弊を待てば、山東・河内も統一できましょう。民を休ませ南面して王を称するのです。秦は大鳥に例えられます、海を背に立ち東を向いて構え、左腕は趙の西南に置き右腕は楚の鄢郢に伸ばし、韓魏を打ち中原に頭を垂れています。地の利を占め翼を広げれば三千里に及び、秦をひとりで夜討ちすることは容易ではありません」と述べた。これは頃襄王を激しく奮起させようとした言葉であった。
  • 頃襄王はこれに応え「先王が秦に欺かれ客死した恨みはこれ以上のものはない。今匹夫でも恨みがあれば万乗の大国にすら報復する、白公・伍子胥がその例だ。今楚の地は方五千里、甲兵百万、なお諸侯の間で躍動できるはずなのに、坐して困窮を受け入れるとは、私はそれを取らない」と述べ、頃襄王は諸侯に使者を送り再び縦約を結び秦を伐とうとした。秦はこれを聞き楚を攻める兵を発した。
  • 楚は齊・韓と連携し秦を伐とうとし、あわせて周を図ろうとした。周の赧王は武公を遣わし楚の相昭子に「三国が兵で周の郊地を割いて自国の便に供し、南方の祭器を楚へ移して尊ぶとしても、それは正しくない。共主(天子)を弑し臣が君を制することは大国も親しまず、多数で少数を脅かせば小国も従わない。大国が親しまず小国が従わなければ、名も実も得られない。名実がなければ民を治めるにも足りない。周を図る風聞があるだけでも国号にはふさわしくない」と説かせた。昭子は「周を図る気はない。とはいえなぜ周を図れないのか」と問い返した。武公は「軍は五倍でなければ攻めず、城は十倍でなければ囲みません。一つの周は二十の晉に相当することは公もご存知でしょう。韓はかつて二十万の兵で晉の都城下で辱められましたが、精鋭は死に中堅は傷つき、それでも晉は落とせませんでした。公が百の韓の力を持たずに周を図るのは天下周知のことです。両周に恨みを結び騶・魯の心を塞ぎ齊との交わりを絶ち、声望を失うのは危険な行為です。両周を危うくして三川を厚くすれば、方城の外は必ず韓に押されて弱まります。西周の地は長短を補い合わせても百里に過ぎず、天下の共主とは名ばかりですが、その地を割いても国を肥やせず、その民を得ても兵を強くできません。それでも攻めれば君を弑した悪名を負います。それなのに事を好む君主や攻めることを喜ぶ臣下が兵を動かす時、必ず周を終着点とするのはなぜか。祭器が周にあるのを見て、これを得たい欲に君を弑す乱を忘れるからです。今韓は器が楚にあると聞けば、天下は器を理由に楚を仇とするでしょう。たとえて言えば、虎の肉は生臭くその爪牙は身を利するのに、人はなお虎を攻めます。もし沢の麋が虎の皮を被れば、人が攻める勢いは虎の万倍にもなるでしょう。楚の地を割けば国を肥やすには十分、楚の名を貶めれば主を尊ぶには十分です。それなのに今、天下の共主を誅殺し三代の伝国の器を我が物とし三翮六翼の九鼎を呑もうとするのは、世の主を凌ごうとする以外の何であろうか、貪欲でなくて何であろうか。《周書》に『事を起こすなら先んじるな』とある、器が南(楚)に移れば兵が至るだろう」と説き、楚の周攻略の計画は取りやめとなった。
  • 十九年、秦が楚を伐ち楚軍は敗れ上庸・漢北の地を秦に割いた。二十年、秦将白起が楚の西陵を陥した。二十一年、秦将白起はついに楚の郢を陥し先王の墓のある夷陵を焼き払った。楚襄王の兵は四散し再戦できず、東北の陳城に退いて守った。二十二年、秦は再び楚の巫・黔中郡を陥した。
  • 二十三年、襄王は東方の兵を集め十余万を得て、秦に奪われた江のほとりの十五邑を西に奪還し郡として秦に対抗した。二十七年、三万の兵を出して三晉の燕討伐を助けた。再び秦と和し太子を人質に送った。楚は左徒に太子の秦での世話をさせた。
  • 三十六年、頃襄王が病むと太子は逃げ帰った。秋、頃襄王が没し太子熊元が代わり立った。これが考烈王である。考烈王は左徒を令尹に取り立て吳の地に封じ春申君と号させた。

考烈王から滅亡まで

  • 考烈王元年、州の地を秦に納めて和した。この頃楚はますます弱まっていた。
  • 六年、秦が邯鄲を包囲し趙が楚に急を告げると、楚は将軍景陽を遣わし趙を救った。七年、新中に至ると秦兵は退いた。十二年、秦昭王が没し、楚王は春申君を秦へ弔問に遣わした。十六年、秦莊襄王が没し秦王趙政(後の始皇帝)が立った。二十二年、諸侯と共に秦を伐ったが利あらず引き上げた。楚は都を東の壽春に遷し郢と名付けた。
  • 二十五年、考烈王が没し子の幽王悍が立った。李園が春申君を殺した。幽王三年、秦・魏が楚を伐った。秦の相呂不韋が没した。九年、秦が韓を滅ぼした。十年、幽王が没し同母弟の猶が代わり立った。これが哀王である。哀王は即位二月余りにして、庶兄負芻の徒党に襲われ弑され、負芻が王に立てられた。この年、秦は趙王遷を虜にした。
  • 王負芻元年、燕の太子丹が荊軻に秦王暗殺を命じた。二年、秦は将軍に楚を伐たせ楚軍を大破し十余城を失った。三年、秦が魏を滅ぼした。四年、秦将王翦が蘄で楚軍を破り将軍項燕を殺した。
  • 五年、秦将王翦・蒙武はついに楚国を破り楚王負芻を虜にし、楚は滅んで郡となった。

史論

  • 太史公は言う。楚靈王は申で諸侯を会し齊の慶封を誅し章華臺を築き周の九鼎を求めた頃、天下を小さく見るほどの志を抱いていたが、後に申亥の家で餓死し天下の笑い物となった。行いの節度を失うとはまことに悲しいことである。権勢というものは、人にとって慎まねばならぬものではないか。棄疾(平王)は乱によって立ち、秦の女に淫しふけった、まことに甚だしいものであり、あやうく二度も国を滅ぼしかけたのである。