史記卷三十九 晉世家第九

晉の始祖唐叔虞(周武王の子、成王の弟)に始まる晉国。分家の曲沃が本家を滅ぼして併合するという内紛を経て、獻公期には驪姫の禍で太子申生が自害し公子重耳・夷吾が亡命した。のち重耳(文公)が十九年の亡命の末に帰国し、城濮の戦いで楚を破って春秋の覇者となった。以後も秦・楚と抗争を繰り返したが、趙盾の専権に始まり景公・厲公期の内紛を経て公室は衰え、六卿(のち趙・韓・魏の三家)が実権を握り、戦国初期に晉は三分されて滅んだ。

年表(24件)
  • 昭侯7年曲沃桓叔を迎えようとした潘父の反乱が失敗し、晉人が孝侯を立てる
  • 晉侯緡28年曲沃武公が緡を滅ぼして周釐王に宝器を献じ、晉君と認められて晉を統一する
  • 獻公21年驪姫の讒言により太子申生が自害する
  • 獻公26年獻公が没し、里克が奚齊・悼子を相次いで殺して公室が乱れる
  • 獻公22年重耳が驪姫の追及を逃れ翟へ亡命する
  • 惠公6年韓原の戦いで秦の繆公に大敗し、惠公が捕虜となる
  • 惠公14年惠公が没し、太子圉(懷公)が立つ
  • 文公元年重耳が十九年の亡命の末に帰国し即位する
  • 文公5年城濮の戦いで楚軍を破る
  • 文公5年周王より覇者に任じられる(践土の会)
  • 文公9年文公が没し子の襄公が立つ
  • 襄公元年殽の戦いで秦の三将を虜にし、秦軍を大破する
  • 靈公14年暴虐な靈公が趙盾の暗殺を鉏麑に命じるが、鉏麑は思いとどまり自害する
  • 靈公14年趙穿が桃園で靈公を殺害し趙盾が復位する。太史董狐は「趙盾弑君」と記す
  • 景公3年邲の戦いで楚の莊王に大敗する
  • 景公11年鞌の戦いで齊の頃公を破る
  • 景公19年景公が没し太子壽曼(厲公)が立つ
  • 厲公6年鄢陵の戦いで楚の共王を破る
  • 厲公8年三郤を誅殺した後、欒書・中行偃に捕らえられ弑される
  • 悼公15年悼公が没し子の平公が立つ
  • 哀公4年趙襄子・韓康子・魏桓子が共に知伯を殺し、その地を併合する
  • 幽公18年幽公が婦人に溺れ夜ひそかに邑を出て盗賊に殺される
  • 烈公19年周の威烈王が趙・韓・魏をいずれも諸侯に任じる
  • 靜公2年魏武侯・韓哀侯・趙敬侯が晉の後継を滅ぼしその地を三分し、晉の祭祀が絶える

出自と建国(唐叔虞)

  • 晉の始祖唐叔虞は周武王の子で成王の弟。武王が叔虞の母と会したとき、夢に天が「そなたに子を授ける、名を虞とし唐を与えよ」と告げ、生まれた子の手には「虞」の文があったためそう名付けられた。
  • 武王が崩じ成王が立った頃、唐で乱があり周公がこれを滅ぼした。成王は叔虞と戯れる中で桐の葉を珪の形に削って「これで汝を封じよう」と戯れた。史官の史佚が日を選んで叔虞を封じるよう求めると、成王は「戯れに言っただけだ」と答えたが、史佚は「天子に戯言はない、言えば史官が記し礼をもって成し楽をもって歌う」と諫め、ついに叔虞は唐に封じられた。唐は黄河・汾水の東、方百里の地であった。姓は姫氏、字は子于。

靖侯から穆侯まで

  • 唐叔の子燮が晉侯となり、以下寧族(武侯)・服人(成侯)・福(厲侯)・宜臼(靖侯)と続いた。靖侯以前の五世は在位年数が伝わらない。
  • 靖侯十七年、周の厲王が暴虐で国人が反乱を起こし彘に出奔、大臣による共和の政が行われた。十八年、靖侯が没し子の釐侯司徒が立った。釐侯十四年、周の宣王が即位した。十八年、釐侯が没し子の獻侯籍が立ち、十一年で没して子の穆侯費王が立った。
  • 穆侯四年、齊女姜氏を夫人とした。七年、條を伐ち太子仇が生まれた。十年、千畝を伐ち功を立て、少子成師が生まれた。晉人師服は「太子を仇(讎・かたき)、少子を成師(大成の意)と名付けるとは異なことだ、名は事の兆しであり、この嫡庶の名の逆転は後の乱を招くのではないか」と評した。
  • 二十七年、穆侯が没し弟の殤叔が自立、太子仇は出奔した。殤叔三年、周の宣王が崩じた。四年、太子仇が徒党を率いて殤叔を襲い自立した。これが文侯である。

曲沃の分裂

  • 文侯十年、周の幽王が犬戎に殺され周は東遷した。秦の襄公が諸侯に列せられた。三十五年、文侯仇が没し子の昭侯伯が立った。
  • 昭侯元年、文侯の弟成師を曲沃に封じた。曲沃の邑は都の翼より大きく、成師は桓叔と号した。靖侯の庶孫欒賓がこれを補佐し、桓叔は五十八歳ながら徳を好み晉国の人心が集まった。君子は「晉の乱れは曲沃に始まる。末が本より大きく民心を得ているのだから乱れぬはずがない」と評した。
  • 七年、晉の大臣潘父が昭侯を弑し曲沃桓叔を迎えようとしたが、晉人が兵を発し桓叔は敗れて曲沃に帰った。晉人は昭侯の子平を立てた。これが孝侯である。潘父は誅された。
  • 孝侯八年、桓叔が没し子の鱓が継いだ。これが曲沃莊伯である。孝侯十五年、莊伯が孝侯を翼で弑したが、晉人がこれを攻めると莊伯はまた曲沃に退いた。晉人は孝侯の子郄を立てた。これが鄂侯である。
  • 鄂侯二年、魯の隱公が即位した。六年、鄂侯が没すると莊伯が晉を攻めたが、周平王が虢公に討伐させ莊伯は曲沃に退いた。晉人は鄂侯の子光を立てた。これが哀侯である。
  • 哀侯二年、莊伯が没し子の稱(曲沃武公)が継いだ。六年、魯が隱公を弑した。八年、晉が陘廷を侵すと陘廷は曲沃武公と結び、九年、汾のほとりで晉を破り哀侯を虜にした。晉人は哀侯の子小子を立てた(小子侯)。
  • 小子元年、曲沃武公は韓萬に命じ捕らえた哀侯を殺させ、曲沃はいよいよ強大となった。四年、武公は小子を誘い出して殺した。周桓王は虢仲に武公を討たせ、武公は曲沃に退いたが、晉は哀侯の弟緡を晉侯に立てた。
  • 晉侯緡四年、宋が鄭の祭仲を捕らえ突を鄭君に立てた。十九年、齊の管至父が襄公を弑した。二十八年、齊桓公が覇を始めた年、曲沃武公は緡を滅ぼし、その宝器をことごとく周の釐王に献じた。釐王は武公を晉君・諸侯として認め、武公はついに晉の全土を併合した。
  • 曲沃武公は即位三十七年にして号を晉武公と改めた。曲沃での在位と通算すると三十八年。武公稱は穆侯の曾孫、桓叔の孫にあたり、桓叔が曲沃に封じられてから武公が晉を滅ぼすまで六十七年を経てついに諸侯に代わった。武公は晉を統一して二年後に没し、曲沃通算三十九年であった。子の獻公詭諸が立った。

獻公と驪姫の禍

  • 獻公元年、周惠王の弟穨が惠王を攻め、惠王は鄭の櫟邑に出奔した。五年、驪戎を伐ち驪姫とその妹を得て寵愛した。
  • 八年、士蒍が「晉の公子が多く、誅さねば乱が起こる」と進言し、公子たちを尽く殺して聚に城を築き絳と名付け、ここに都を定めた。九年、逃れた公子たちは虢に亡命し、虢は再三晉を伐ったが果たせなかった。十年、晉が虢を伐とうとすると士蒍は「もう少し虢の乱れを待つべきだ」と進言した。
  • 十二年、驪姫が奚齊を生んだ。獻公は太子廃立の意を持ち、「曲沃は先祖の宗廟の地、蒲は秦に、屈は翟に接しており、諸子を住まわせねば不安だ」として太子申生を曲沃に、公子重耳を蒲に、公子夷吾を屈に置き、驪姫の子奚齊とともに自らは絳に住んだ。晉国はこれで太子が立たぬことを悟った。太子申生の母は齊桓公の娘齊姜で早世、その妹は秦穆公夫人。重耳の母は翟の狐氏、夷吾の母は重耳の母の妹である。獻公の八人の子のうち申生・重耳・夷吾はいずれも賢行があったが、驪姫を得てからこの三子を遠ざけた。
  • 十六年、獻公は二軍を編成し自ら上軍、太子申生に下軍を率いさせ、趙夙・畢萬を従えて霍・魏・耿を滅ぼした。凱旋後、太子のために曲沃に城を築き、趙夙に耿、畢萬に魏を大夫として与えた。士蒍は「太子は立てられまい、城と卿位を先に与えられればそれが極みだ、いっそ呉の太伯のように身を引くべきだ」と忠告したが太子は従わなかった。卜偃は「畢萬の後は必ず栄える、万は満数、魏は大名、これは天の開いた吉兆だ」と予言した。
  • 十七年、獻公は太子申生に東山を討たせた。里克は「太子は宗廟社稷を守る者であり出征させるべきでない」と諫めたが、獻公は「まだ誰を太子とするか決めていない」と答え、里克は太子に「軍旅を任されたのは廃されぬ証、専心して励めば咎はない」と励ました。太子は偏衣を着せられ金玦を佩びて出陣し、里克は病と称して従わなかった。
  • 十九年、獻公は虢が晉に対して長年敵対的であったことを理由に、荀息の献策により虞に道を借りて虢を伐ち下陽を取った。
  • 獻公は驪姫に「太子を廃し奚齊を立てたい」と告げたが、驪姫は涙を流し「太子の地位は諸侯にも知られ、兵を率いて民の支持を得ている、私のために嫡子を廃せば私が自害します」と偽って諫めた一方、陰では人を使って太子を讒言させ、自分の子を立てようと図った。
  • 二十一年、驪姫は太子に「君が亡き母齊姜の夢を見た、急いで曲沃で祭れ」と告げ、太子は曲沃で祭った後、供え物の胙を獻公に献上した。獻公は狩りに出ており、驪姫はその胙に毒を仕込んだ。獻公が帰り宰人が胙を差し出すと、驪姫は「遠方から来た物ゆえ試してから」と地に供えると地が膨れ、犬に与えると犬が死に、小臣に与えると小臣も死んだ。
  • 驪姫は泣いて「太子は父君すら弑そうとするのか、まして他人をや。しかも君はもう老い先短いのに待てず弑そうとするとは」と讒言し、「太子は私と奚齊のゆえにこうしたのです、母子で他国へ逃げるか自害させてください」と告げた。太子は聞いて新城に出奔し、獻公は怒って太子の傅杜原款を誅した。
  • ある者が太子に「毒を仕込んだのは驪姫だ、なぜ弁明しないのか」と言ったが、太子は「父は驪姫なくして眠れず食べられぬ身、弁明すれば父が驪姫を怒ることになる、できない」と答えた。他国への亡命も「悪名を負って出れば誰も受け入れまい」と拒み、十二月戊申、太子申生は新城で自殺した。
  • この時重耳・夷吾は朝見に来ていた。二公子が驪姫の讒言を恨んでいると告げる者があり、驪姫は恐れて二公子も「胙の毒を知っていた」と讒言した。二人は恐れて重耳は蒲へ、夷吾は屈へと逃れ、それぞれ城に籠って自守した。かつて獻公が士蒍に蒲・屈の城普請を命じた際、士蒍はわざと粗末に築き「辺境の城に敵は少ない、何のために堅固にするのか」と弁明しつつ「狐裘蒙茸、一国三公、私はどちらに従えばよいのか」と歌ったという逸話がある。

重耳・夷吾の亡命

  • 二十二年、獻公は二公子が黙って去ったことを謀反の証拠とみなし蒲を攻めた。宦者勃鞮が重耳に自殺を促すと重耳は垣を越えて逃げ、追手に袖を斬られながら翟に亡命した。屈も攻められたが城は守り切り落ちなかった。
  • 同年、晉は再び虞に道を借りて虢を伐とうとした。虞の大夫宮之奇は「晉に道を貸せば虞も滅ぼされる」と諫めたが、虞公は「晉とは同姓ゆえ攻めまい」と聞かず、宮之奇は「太伯・虞仲は太王の子だが亡命したため嗣がず、虢仲・虢叔は王季の子で文王に仕えその功が王室に記録されている。虢を滅ぼす者が虞を惜しむだろうか。虞と虢は唇歯の関係だ」と重ねて諫めたが聞かれず、宮之奇は一族を連れて虞を去った。その冬、晉は虢を滅ぼし虢公醜は周へ出奔、帰途で虞も滅ぼされ虞公と大夫井伯百里奚が捕らえられ秦の穆姫に媵として送られた。荀息が虞から借りた屈産の名馬を獻公に返すと、獻公は「馬は我が馬だが、もう年老いたな」と笑った。
  • 二十三年、獻公は賈華らに屈を攻めさせ屈は潰えた。夷吾は翟へ逃げようとしたが冀芮に「重耳が既におり、翟は晉を恐れて禍が及ぶ、秦に近い梁へ逃げ、いずれ秦の力を借りるべきだ」と勧められ梁へ奔った。二十五年、晉が翟を伐つと翟は重耳のために齧桑で応戦し、晉は兵を引いた。当時晉は強大で西は秦と接し北は翟に至り東は河内に及んだ。
  • 驪姫の妹は悼子を生んだ。二十六年夏、齊桓公が葵丘で諸侯を大会した際、獻公は病のため出発が遅れ、途中で周の宰孔に「齊桓公は驕り務めが遠略に傾いており諸侯の心も離れている、行かずともよい」と諭され戻った。獻公は病がさらに重くなり荀息に「奚齊は若く大臣が服さぬだろう、そなたに立てられるか」と問い、荀息は「できます」「死者が生き返っても恥じぬ働きをします」と誓い、奚齊を託された。
  • 秋九月、獻公が没した。里克・邳鄭は重耳を迎え入れようと、三公子(申生・重耳・夷吾)の党を率いて動こうとし、荀息に「三家の怨みが起これば秦・晉も助けよう、どうする」と問うと荀息は「先君の言葉に背けない」と答えた。十月、里克は喪の場で奚齊を殺し、荀息はこれに殉じようとしたが、周囲の勧めで悼子を立てて獻公を葬った。十一月、里克は朝で悼子を弑し、荀息もこれに殉じた。君子は「《詩》にいう『白珪の欠けは磨けるが、この言の欠けはどうにもならぬ』とは荀息のことか、言に背かなかった」と評した。かつて獻公が驪戎を伐つ際「歯牙が禍となる」との占いが出ていたが、驪姫を得てついに晉を乱すこととなった。

惠公の即位と背信

  • 里克らは奚齊・悼子を殺した後、翟にいた重耳を迎えようとしたが、重耳は「父の命に背いて出奔した身で、父の死に子の礼も尽くせなかった、入国はできない、他の子を立ててほしい」と辞退した。里克は次に梁の夷吾を迎えようとし、呂省・郤芮は「国内に立てられる公子がいながら外に求めるのは信を得にくい、秦の威を借りて入国すべきだ」と提案した。郤芮は秦へ厚く賄賂を贈り「入国できれば河西の地を秦に与える」と約し、里克にも「立てば汾陽の邑を封ずる」と手紙を送った。秦繆公は兵を発して夷吾を晉へ送り込んだ。齊桓公も晉の内乱を聞いて諸侯を率いて晉へ赴き、隰朋を秦との仲介に立て夷吾を立てた。これが惠公である。齊桓公は晉の高梁まで来て帰った。
  • 惠公夷吾元年、邳鄭を秦に遣わし「河西の地を約したが、大臣が『先君の地を亡命中の身が勝手に許してよいのか』と言うので果たせない」と詫びさせた。里克にも約した汾陽の邑を与えず、逆に権力を奪った。四月、周襄王の使者らが晉惠公を礼遇したが、惠公は重耳の存在から里克の変心を恐れ、里克に死を賜り「そなたなくして私は立てなかったが、そなたは二君一大夫を殺した、そなたの君であることは難しい」と告げた。里克は「廃する者がなければ興る者もない、誅そうとする理由などいくらでも作れよう」と述べ剣に伏して死んだ。この使いで秦にいた邳鄭は事の顛末を免れた。
  • 晉君は太子申生を改葬した。秋、狐突が下国へ赴く途中、申生の霊に会い「夷吾は無礼だ、私は天帝に願い出て晉を秦に与えよう、秦は私を祀るだろう」と告げられた。狐突が「神は同族でない者の供物は受けないと聞く、あなたの祭祀が絶えては」と諫めると、申生は「では改めて天帝に願おう、十日後、新城の西で巫者が私に会うだろう」と答えて消えた。期日に訪れると再び現れ「天帝は罪ある者を罰することを許した、韓の地で敗れるだろう」と告げた。童謡に「恭太子は改めて葬られた、十四年後、晉はまた栄えず、栄えるのは兄の子孫だ」と歌われた。
  • 邳鄭は秦にあって里克誅殺を聞き、繆公に「呂省・郤稱・冀芮は実は服従していない、賄賂を贈り重耳を入れれば事は成る」と説いたが、三子は「賂は厚く言葉は甘い、これは邳鄭が我らを秦に売ったのだ」と見抜き、邳鄭と里克・邳鄭の党七輿大夫を殺した。邳鄭の子豹は秦に奔り晉討伐を説いたが繆公は聞かなかった。
  • 惠公は秦の地約束と里克への背信、七輿大夫の誅殺により国人の支持を失った。二年、周の召公過が惠公を礼遇に訪れたが惠公の態度が横柄で、召公はこれを譏った。
  • 四年、晉が饑饉となり秦に穀物を求めた。繆公が百里奚に問うと「天災は互いに助け合うのが国の道です、与えるべきです」と答え、邳鄭子豹は「討つべきだ」と主張したが、繆公は「その君主が悪いだけで民に罪はない」として穀物を送った。五年、今度は秦が飢え晉に穀物を求めた。晉の慶鄭は「秦の恩義に応えるべきだ」と主張したが、虢射は「かつて天は晉を秦に与えたのに秦は取らず貸してくれた、今度は天が秦を晉に与えているのだから逆らうべきでない」と伐つことを説き、惠公はこれに従い穀物を与えず逆に秦を攻めようとした。秦は激怒し兵を発した。
  • 六年春、秦繆公が自ら兵を率いて晉を伐った。惠公が慶鄭に策を問うと、慶鄭は「秦の恩に背いた報いだ」と答え、卜占では慶鄭を御・右にすべしと出たが惠公は不孫だとして退け、歩陽・家僕徒を用いた。九月壬戌、秦繆公と晉惠公は韓原で合戦し、惠公の馬が動かなくなり窮した公が慶鄭を呼んでも「卜を用いなかった報いだ」と拒まれた。梁繇靡・虢射に替えて秦繆公に迫ったが、繆公配下の壮士が奮戦し晉軍は敗れ、逆に秦繆公を取り逃がして晉侯が捕らわれた。秦は晉侯を上帝への供物にしようとしたが、晉侯の姉である繆公夫人が喪服で嘆願し、繆公も「箕子が唐叔の初封を見て『後に必ず大となろう』と言った、晉を滅ぼせようか」と述べて王城で盟を結び帰国を許した。晉侯は呂省らに「たとえ帰れても社稷に合わせる顔がない、子圉を立てよ」と国人に伝えさせ、晉人はこれを聞いて皆泣いた。
  • 秦繆公が呂省に「晉国は和しているか」と問うと「和していません。小人は君を失い親を失うことを恐れ子圉を立てても構わないとし『必ず報復する、たとえ戎狄に仕えようとも』と言い、君子は君を愛し罪を知って秦の命を待ち『必ず徳に報いよう』と言う、この二つの理由で不和なのです」と答えた。秦繆公は晉惠公の待遇を改め七牢の礼で送り、十一月、晉侯を帰した。晉侯は帰国後、慶鄭を誅し政教を修めた。「重耳が国外にいる、諸侯は彼を入れようと動くだろう」と考え、翟にいる重耳を暗殺しようとしたが、これを知った重耳は齊へ移った。
  • 八年、太子圉を秦に人質として送った。かつて惠公が梁に亡命していた頃、梁伯は娘を娶らせ一男一女を得ており、卜占で男は人に仕える身、女は人に仕える身と出たため男を圉、女を妾と名付けたという由来があった。
  • 十年、秦が梁を滅ぼした。梁伯は土木を好み城溝を築かせ民を疲弊させ、民は「秦の軍が来る」と噂しては動揺し、ついに秦に滅ぼされた。
  • 十三年、晉惠公が病み後継の子が複数いる中、太子圉は「母の実家梁は既に秦に滅ぼされ、私は秦でも軽んじられ国内にも援けがない、君が起き上がれねば他の公子が立てられよう」と考え、妻とともに逃げ帰る策を秦の妻に告げた。秦女は「あなたは一国の太子、ここに留め置かれるのは屈辱でしょう、秦が私を送り込んだのはあなたの心をつなぐためです、あなたが逃げても私は従いません、ですが言いふらしもしません」と答え、子圉はついに単身晉へ逃げ帰った。十四年九月、惠公が没し太子圉が立った。これが懷公である。

懷公・文公重耳の即位

  • 子圉の逃亡を秦は怨み、公子重耳を求めて晉に入れようとした。子圉は秦の報復を恐れ、重耳に従って亡命した者たちに帰国期限を課し、遅れれば一族皆殺しにすると命じたが、秦にいた狐突の子毛・偃はこれに応じなかった。懷公は怒って狐突を捕らえ、狐突は「私の子らは重耳に長年仕えてきた、今召還すれば主君に背けと教えることになる、何を教えよというのか」と述べ、懷公はついに狐突を殺した。秦繆公は兵を発して重耳を送り込み、欒氏・郤氏の一党を内応させ、懷公を高梁で殺して重耳を立てた。これが文公である。
  • 晉文公重耳は獻公の子。若くして士を好み、十七歳で趙衰・狐偃咎犯(文公の舅)・賈佗・先軫・魏武子の五賢士を得た。獻公が太子であった頃から重耳は既に成人しており、獻公即位の時二十一歳。獻公十三年、驪姫の讒により蒲城に配され秦への備えとした。二十一年、太子申生が殺され重耳にも累が及ぶことを恐れ暇乞いもせず蒲城を守った。二十二年、宦者履鞮が重耳暗殺を命じられ、重耳は垣を越えて逃げ袖を斬られながら翟へ亡命した。翟は重耳の母国であり、この時四十三歳。従った五士のほか名を残さぬ従者数十人があった。
  • 翟が咎如を伐って得た二女のうち長女を重耳の妻とし伯鯈・叔劉が生まれ、少女を趙衰の妻として盾が生まれた。翟に五年いた頃に獻公が没し、里克が奚齊・悼子を殺した後重耳を迎えようとしたが、重耳は殺害を恐れ固辞して入らなかった。結局弟の夷吾(惠公)が立てられた。惠公七年、重耳を恐れて宦者履鞮と壮士に暗殺を命じた。重耳はこれを知り趙衰らと相談し、「翟に来たのは近くて頼りやすかったからで、もっと大国に移りたいと願っていた、齊桓公は善を好み覇を志し諸侯を厚く扱っている、管仲・隰朋が没した今こそ賢佐を求めているだろう」と述べ齊へ向かった。妻には「二十五年待って来なければ嫁げ」と告げると、妻は「そのころには私の墓の柏も大木でしょう、それでもあなたを待ちます」と笑って答えた。重耳は翟に凡そ十二年いて去った。
  • 衛を過ぎたが衛文公は礼を尽くさず、五鹿では飢えて野人に食を乞うたところ土器に土を盛って差し出され重耳は怒ったが、趙衰は「土は領地を得る兆しです、拝して受けなさい」と諭した。齊に至ると桓公は厚遇し宗女を娶らせ馬二十乗を与え、重耳は安住した。齊に至って二年で桓公が没し豎刀らの内乱、齊孝公擁立と諸侯の侵攻が続いた。齊に五年留まる間、重耳は齊女への愛着から去る気がなかった。趙衰・咎犯が桑の下で出発を相談していたのを、齊女の侍女が桑の上で聞き主人に告げると、主人はその侍女を殺し重耳に出発を勧めた。重耳は「人生は安楽が一番、これ以上を望んでどうする、ここで死ぬ、出発はしない」と拒んだが、齊女は「あなたは一国の公子、困窮してここに来た、多くの士があなたを頼みにしている、早く国に戻り功臣に報いず女に溺れるのは恥です」と説き、趙衰らと謀って重耳を酔わせ車に乗せて出発させた。目覚めた重耳は激怒し咎犯を戈で殺そうとしたが、咎犯は「私を殺してあなたが目的を果たせるなら本望です」と答え、重耳は「事が成らねば舅の肉を食らってやる」と言いつつ思いとどまり、出発した。
  • 曹を過ぎると曹共公は礼を尽くさず重耳の駢脅(あばら骨が一枚に連なる異相)を見物しようとした。曹の大夫釐負羈は「晉公子は賢く同姓でもある、なぜ無礼を働くのか」と諫めたが共公は聞かず、負羈はひそかに食を贈り璧を添えたが、重耳は食のみ受け璧は返した。
  • 宋を過ぎると、楚に大敗し泓で傷を負ったばかりの宋襄公は重耳の賢を聞き国賓の礼で迎えた。宋の司馬公孫固は咎犯と親しく「宋は小国で困窮しており頼るには足りない、大国に行くべきだ」と勧め、重耳は去った。鄭を過ぎると鄭文公は礼を尽くさなかった。鄭の叔瞻は「晉公子は賢く従者も皆国相の器、しかも同姓」と諫めたが鄭君は「亡命公子は多く通る、皆に礼を尽くせようか」と聞かず、叔瞻は「礼を尽くさぬなら殺すべきだ、後の禍になる」とまで進言したが用いられなかった。
  • 楚に至ると成王は諸侯なみの礼で迎え、重耳は謝して受けまいとしたが趙衰に「亡命十余年、小国にも軽んじられる中、大国が厚遇するのは天の開いた道だ、遠慮すべきではない」と諭され客礼で会見した。成王は重耳を厚遇し、重耳もへりくだった。成王が「そなたが帰国したら何で報いるか」と問うと、重耳は「珍宝は王が既に十分にお持ちです、何で報いればよいか分かりません」と答え、王がなお問うと「やむを得ず王と兵車をもって戦場で会うことになれば、三舎(九十里)退きましょう」と答えた。楚の将子玉は「王があれほど厚遇したのに重耳の言葉は不遜だ、殺すべきだ」と怒ったが、成王は「晉公子は賢くこれほど長く困窮した、従者も皆国器、天の定めた人物を殺せようか」と退けた。
  • 楚に数ヶ月いる間、晉の太子圉が秦から逃げ帰ったため秦は重耳を招いた。成王は「楚は遠く多くの国を経て晉に至る、秦晉は境を接し秦君も賢い、努めて行きなさい」と手厚く送り出した。
  • 秦に至ると繆公は宗女五人を重耳に娶らせ、子圉の元妻も含まれていた。重耳が受けるのをためらうと司空季子は「その国さえ討とうという時に、まして元の妻を気にするのか、秦との親交を結び入国を求める好機に小さな礼儀にこだわり大きな恥を忘れるのか」と説き、重耳は受けた。繆公は大いに喜び重耳と宴を開き、趙衰が《黍苗》の詩を歌うと繆公は「そなたが急ぎ帰国したい思いがわかった」と述べた。この時晉惠公十四年秋、惠公は九月に没し子圉(懷公)が立った。十一月、惠公が葬られた。十二月、晉の大夫欒氏・郤氏らは重耳が秦にいると聞き、趙衰らとひそかに帰国を勧め多数が内応した。秦繆公は兵を発し重耳を晉へ送り、晉も兵を発して防いだが実際には皆重耳の入国を承知しており、惠公旧臣の呂・郤の一族だけが反対した。重耳は出奔から十九年、時に六十二歳で入国し晉人の多くが従った。

文公の覇業

  • 文公元年春、秦は重耳を河のほとりまで送った。咎犯は「私はあなたに従い天下を巡り過ちも多かった、私自身それを知っている、まして君はなおさらでしょう、ここでお別れしたい」と申し出ると、重耳は「もし国に帰って汝と心を同じくしなければ、河伯よ照覧あれ」と璧を河に投じて誓った。この時船中にいた介子推は「天が公子を開いたのに子犯は自分の功として恩を売ろうとする、恥ずべきことだ、私は同列でいたくない」と笑い、ひそかに河を渡って身を隠した。秦軍は令狐を囲み、晉軍は廬柳に陣した。二月辛丑、咎犯が秦晉の大夫と郇で盟した。壬寅、重耳が晉軍に入り、丙午、曲沃に入り、丁未、武宮に朝して晉君に即位した。これが文公である。群臣が集う中、懷公圉は高梁に出奔し、戊申、人を遣わして懷公を殺させた。
  • 懷公の旧臣呂省・郤芮は文公に服さず誅殺を恐れ、公宮を焼いて文公を殺そうと謀った。文公はこれを知らなかったが、かつて文公暗殺を命じられた宦者履鞮がこの陰謀を知り、罪滅ぼしに告げようと面会を求めた。文公は初め拒み「蒲城で私の袖を斬り、その後翟での狩りでも惠公の命で私を殺そうとし、三日の期限を一日で駆けつけた、その速さを覚えているぞ」と使者を通じて咎めたが、履鞮は「私は宦者の身、二心なく主に仕えたゆえに罪を得たのです、あなたは既に帰国した、蒲や翟の頃のようにはいかないと思いますが、管仲も桓公を弓で射た過去がありながら桓公はこれを用い覇者となりました、今この報告を退けられれば禍が及びましょう」と述べ、文公は面会し呂・郤の謀を知った。
  • 文公は呂・郤を召そうとしたが党が多く、国人が自分を裏切るのを恐れ密行して秦繆公と王城で会見し国人には知らせなかった。三月己丑、呂・郤らは果たして反乱を起こし公宮を焼いたが文公を捕らえられず、文公の護衛と戦い、逃げようとした呂・郤らを秦繆公が誘い出し河のほとりで殺し、晉国は平定され文公は帰還できた。夏、秦から夫人を迎え、秦が文公に嫁がせた女性が正式な夫人となった。秦は三千人を衛兵として送り晉の内乱に備えさせた。
  • 文公は政治を修め百姓に恩恵を施し、亡命に従った者と功臣に恩賞を与え、大きな功には邑を、小さな功には爵位を与えた。まだ恩賞が行き渡らぬうちに周襄王が弟帯の乱により鄭に逃れ晉に急を告げたため、晉は建国したばかりで内乱の再発を恐れて出兵に慎重になり、隠棲していた介子推への恩賞は後回しになった。介子推自身も禄を求めず、禄も及ばなかった。
  • 介子推は「獻公の子九人のうち今生きるのは君だけだ。惠公・懷公は民に見放され内外から棄てられた、天がまだ晉を絶やさぬのだから必ず主が立つはずで、それが君でなくて誰であろう。それを従者たちは己の功だと誇る、誣いではないか。人の財を盗めば盗人と呼ばれるのに、天の功を盗んで己の力とするのはなおさらだ。下は罪を隠し上はその姦を賞する、上下相欺くようでは共にいられない」と述べた。母が「では功を求めればよいのに、黙って死ぬのですか」と言うと、推は「咎めながら真似るのはさらに罪深い、それに恨み言を口にした以上、その禄は受けられない」と答え、母が「せめて知らせては」と勧めても「言葉は身を飾るもの、隠れたい身に飾りは要らない、飾れば名を求めることになる」と拒み、母は「そこまでの覚悟なら共に隠れよう」と言い、二人は最後まで姿を現さなかった。
  • 介子推の従者が哀れみ、宮門に「龍が天に昇らんとし、五蛇がこれを助けた。龍が既に雲に昇ると、四蛇はそれぞれ自分の穴に入ったが、一蛇だけが恨みを抱き、ついに身の置き所を得なかった」との書を掲げた。文公はこれを見て「これは介子推のことだ、王室のことに追われ彼の功をまだ考えていなかった」と使いを出したが既に姿を消しており、緜上山中に隠れたと知って、文公は山一帯を封じて介推の田とし介山と名付け「以て我が過ちを記し、善人を顕彰する」とした。
  • 亡命に従った身分低い臣壺叔が「私にまで恩賞が及びません」と訴えると、文公は「仁義をもって私を導き徳恵をもって戒めた者が上賞、行いで補佐し立国を助けた者が次賞、矢石の難や戦功のあった者がその次、力のみで補佐した者がさらにその次、この三段の賞の後にお前にも及ぶ」と答え、晉人はこれを聞いて皆納得した。
  • 二年春、秦軍が黄河のほとりに陣し周王室に介入しようとした。趙衰は「覇を求めるなら周王を入れ尊ぶのが一番だ、周晉は同姓、晉が先に王を入れねば秦に先を越されて天下に号令できなくなる、今こそ尊王の好機だ」と献策した。三月甲辰、晉は陽樊に出兵し溫を囲み、襄王を周に入れた。四月、王弟帯を殺した。周襄王は晉に河内・陽樊の地を賜った。
  • 四年、楚成王が諸侯とともに宋を包囲すると、宋の公孫固が晉に急を告げた。先軫は「恩に報い覇を定める好機だ」と述べ、狐偃は「楚は曹を得たばかりで衛と婚を結んだばかりだ、曹・衛を伐てば楚は必ず救援に向かい宋の囲みは解けるだろう」と献策した。晉は三軍を編成し、趙衰の推挙で郤穀が中軍・郤臻が副、狐偃が上軍・狐毛が副、趙衰は卿に列し、欒枝が下軍・先軫が副、荀林父が御・魏犨が右となって出撃した。冬十二月、山東へ下り、原の地を趙衰に与えた。
  • 五年春、文公は曹を伐とうと衛に道を借りたが衛人は許さず、河南から迂回して曹を侵し衛を伐った。正月、五鹿を取った。二月、晉侯・齊侯が斂盂で盟した。衛侯が晉との盟を求めても晉は許さず、衛侯は楚に付こうとしたが国人が反対し、君を追放して晉に取り入った。衛侯は襄牛に留まり公子買が衛を守ったが、楚の救援は間に合わなかった。晉侯は曹を囲んだ。三月丙午、晉軍は曹に入り、かつて釐負羈の諫めを聞かず美女に軒車を乗せて三百人も引き連れていた曹君の非を数え上げ、負羈の一族の家には侵入せぬよう命じ恩に報いた。
  • 楚が宋を囲み続け宋が再び急を告げると、文公は楚を攻めれば恩義に背くことになり、宋を見捨てれば宋の旧恩に背くことになると悩んだ。先軫は「曹伯を捕らえ曹・衛の地を割いて宋に与えれば、曹・衛を大切にする楚は自然と宋の包囲を解くだろう」と献策し、文公はこれに従った。楚成王はこれを見て兵を引いた。
  • 楚の将子玉は「王があれほど厚遇したのに、曹・衛の急を知りながら伐つとは王を軽んじている」と怒ったが、成王は「晉侯は十九年の困窮を経て帰国し、危難をすべて知り民を用いる術も心得ている、天が開いた者には敵しがたい」と答えた。子玉はなお「必勝を期すわけではないが、讒言する者の口を塞ぎたい」と願い出て少数の兵を与えられた。子玉は宛春を晉に遣わし「衛侯を復位させ曹を封じ直せば我らも宋の囲みを解く」と申し入れた。咎犯は「子玉は無礼だ、君は一つを得るだけなのに臣は二つを得ようとしている、許すな」と主張したが、先軫は「人を定めるのが礼というものだ、楚は一言で三国を定めようとしているのに、こちらが一言で滅ぼすのは無礼にあたる。楚の申し出を許さねば宋を見捨てることになる、私的に曹・衛の復帰を約して楚から離反させ、宛春を捕らえて楚を怒らせ、開戦してから対処すべきだ」と献策した。晉侯は宛春を衛に幽閉し、私的に曹・衛の復帰を約した。曹・衛は楚との絶交を宣言し、怒った子玉(得臣)は晉軍を攻め、晉軍は退いた。軍吏が「なぜ退くのか」と問うと文公は「かつて楚で三舎退くと約した、それに背けようか」と答えた。楚軍も退こうとしたが得臣は聞かず、四月戊辰、宋公・齊将・秦将と晉侯が城濮に陣した。己巳、楚と交戦し楚軍は敗れ得臣は残兵を収めて退いた。甲午、晉軍は衡雍に帰り踐土に王宮を築いた。
  • 当初、鄭は楚を助け楚が敗れたことに恐れをなし晉侯に盟を求め、晉侯は鄭伯と盟を結んだ。五月丁未、周に楚の捕虜を献じ、四頭立ての戦車百乗と歩兵千人を捧げた。天子は王子虎に晉侯を覇者に任じさせ、大輅・彤弓矢百・玈弓矢千・秬鬯一卣・珪瓚・虎賁三百人を賜った。晉侯は三度辞退した後に受け、周は《晉文侯命》を作り、「王が言われるには、父義和よ、偉大な文王・武王の徳を慎み明らかにし、上に昭らかに登り下に広く知られ、天が文王・武王に命を集めた、私の身を助け、末永く位にあってほしい」と述べた。ここに晉文公は覇者を称した。癸亥、王子虎が王庭で諸侯と盟した。
  • 晉が楚軍の陣営を焼くと数日間火が消えず、文公は嘆息した。左右が「楚に勝って君はなお憂えるのか」と問うと、文公は「戦に勝って安心できるのは聖人だけだと聞く、それゆえに恐れるのだ。しかも子玉がまだ生きている、喜んでばかりいられぬ」と答えた。子玉は敗戦後、成王にその不用意な決断を咎められ自殺した。晉文公は「我が外から攻め楚が内で誅した、内外相応じたのだ」と喜んだ。
  • 六月、晉人は衛侯を復位させた。壬午、晉侯は黄河を渡り北の国へ帰った。恩賞を行うにあたり狐偃を筆頭とした。ある者が「城濮の戦は先軫の献策によるものだ」と言うと、文公は「城濮の事は偃が私に信を失わぬよう説いたことに始まる。先軫は『戦は勝つことが第一』と説いてそれで勝ったが、これは一時の策に過ぎない。偃の言葉は万世の功だ、一時の利で万世の功に優先させられようか、それゆえ偃を先にした」と述べた。
  • 冬、晉侯は溫で諸侯を会し周に朝見させようとしたが、まだその力がなく叛く者を恐れ、周襄王に河陽での狩りを装わせた。壬申、諸侯を率いて踐土で王に朝見した。孔子は史記のこのくだりを読み「諸侯が王を召したのではない」「王が河陽に狩りした」というのは《春秋》がこれを憚って表現を改めたものだと評した。
  • 丁丑、諸侯が許を囲んだ。曹伯の臣のある者が晉侯に「齊桓公は諸侯を合わせて異姓の国を興したが、今君は会を開いて同姓を滅ぼそうとしている。曹は叔振鐸の後、晉は唐叔の後、諸侯を合わせて兄弟を滅ぼすのは礼に反する」と説き、晉侯は納得し曹伯を復位させた。この頃晉は初めて三行の軍制を作り、荀林父が中行、先縠が右行、先蔑が左行を率いた。
  • 七年、晉文公・秦繆公は共に鄭を包囲した。これは鄭が亡命中の文公に無礼を働き、また城濮の戦で楚を助けたことによる。鄭の叔瞻を求めると叔瞻は自殺し、鄭はその首を晉に差し出したが、晉は「鄭君を得てこそ気が晴れる」と要求した。鄭は恐れ、秘かに秦繆公に「鄭を滅ぼせば晉が厚くなるだけで秦の利にはならない、いっそ鄭を残し東方の道の交わりを得てはどうか」と説くと、秦伯は納得し兵を引き、晉も兵を引いた。
  • 九年冬、晉文公が没し子の襄公歡が立った。この年、鄭伯も没した。

襄公・靈公と趙盾の専権

  • 鄭人のある者が秦に鄭を売り込み、秦繆公は兵を発して鄭を襲おうとした。十二月、秦軍が晉の国境を通過した。襄公元年春、秦軍が周を無礼に通過し王孫滿がこれを譏った。秦軍が滑に至ったとき、鄭の商人弦高が周へ商いに行く途中これに遭遇し十二頭の牛を贈って秦軍を労った。秦軍は驚いて引き返し、滑を滅ぼして去った。
  • 晉の先軫は「秦伯は蹇叔の諫めを用いず民心にも背いた、これは討つべきだ」と言い、欒枝は「先君の秦への恩にまだ報いていないのに討つのは道理に合わない」と反対したが、先軫は「秦は我らの若い君を侮り同姓の国を伐った、何の徳に報いる必要があろうか」と主張し、ついに討った。襄公は喪服の黒染めのまま出陣し、四月、殽で秦軍を破り秦の三将孟明視・西乞秫・白乙丙を虜にして帰った。そのまま喪服のまま文公を葬った。文公夫人(秦女)が襄公に「秦はその三将を戮そうとしている」と告げると公は許して送り返そうとしたが、先軫はこれを聞き「禍が生じる」と述べて追わせた。秦の将らは河を渡る船中にあり、頓首して謝しつつもついに戻らなかった。
  • 三年後、秦は果たして孟明に晉を伐たせ殽の敗戦の報復として汪を取った。四年、秦繆公は大軍を興し河を渡り王官を取り殽の戦死者を弔って去った。晉は恐れて出撃せず城を守った。五年、晉が秦を伐ち新城を取り王官の役に報いた。
  • 六年、趙衰・欒貞子・咎季子犯・霍伯が皆没し、趙盾が趙衰に代わり執政となった。
  • 七年八月、襄公が没した。太子夷皋が幼かったため、晉人は長君を立てたいと望んだ。趙盾は「襄公の弟雍を立てるべきだ、善を好み年長で先君にも愛され、秦とも縁が近くよしみもある、善人を立てれば政は固まり、年長者に仕えれば道理に順い、秦に愛されれば孝を尽くせ、旧好を結べば安定する」と説いたが、賈季は「弟の楽の方がよい、その母辰嬴は二君に寵せられており、その子を立てれば民も安んじよう」と主張した。趙盾は「辰嬴は身分が低く序列も九番目、その子に威厳などない。先君の子でありながら大国を求めず小国に身を置いていたのは僻んでいる証、母が淫らで子が僻んでいては威も援けもない、それでどうして立てられよう」と反論し、士会を秦に遣わし公子雍を迎えさせた。賈季も別に人を遣わし陳から公子樂を召そうとした。趙盾は陽処父を殺した罪で賈季を廃した。十月、襄公を葬った。十一月、賈季は翟へ出奔した。この年、秦繆公も没した。
  • 靈公元年四月、秦康公は「かつて文公の入国には護衛がなく呂・郤の禍があった」として公子雍に多くの護衛を付けて送り込んだ。太子の母繆嬴は昼夜太子を抱いて朝廷で泣き「先君に何の罪があり、その嗣子に何の罪があるというのか。嫡子を措いて外に君を求めるとは、この子をどうするつもりか」と訴え、退出しては趙盾のもとへ行き「先君はこの子をあなたに託して『この子が有能であれば私はその恩恵を受け、無能であればあなたを恨む』と言われた、今君が亡くなればその言葉が耳に残るのに見捨てるのですか」と頓首して訴えた。趙盾と諸大夫は繆嬴を憂え、誅を恐れて迎えた公子雍を退け太子夷皋を立てた。これが靈公である。秦から送られてきた公子雍を迎える一行を防ぐため兵を発し、趙盾自ら将となり令狐で秦軍を破った。先蔑・隨会は秦へ出奔した。秋、齊・宋・衛・鄭・曹・許の君主が趙盾のもとに集い扈で盟を結んだ。靈公が初めて立ったことによる。
  • 四年、秦を伐ち少梁を取った。秦も晉の郩を取った。六年、秦康公が晉を伐ち羈馬を取った。晉侯は怒り趙盾・趙穿・郤缺に秦を撃たせ河曲で大戦し、趙穿が最も功があった。七年、晉の六卿は秦にいる隨会が常に晉を乱すことを憂え、魏壽餘を偽って晉に背き秦に降らせた。秦が隨会を魏に遣わすと、これを捕らえ晉に連れ帰った。
  • 八年、周の頃王が崩じ公卿が権を争い訃報が届かなかった。晉は趙盾に車八百乗をもって周の乱を平定させ匡王を立てさせた。この年、楚莊王が即位した。十二年、齊人が懿公を弑した。
  • 十四年、靈公は成長すると奢侈になり重税で壁を彩らせ、台上から人を弾で撃って避ける様を見て楽しんだ。料理人が熊の掌の料理をうまく調理できなかったため靈公は激怒して殺し、遺体を運ばせて朝廷を通過させた。趙盾・隨会は再三諫めたが聞かれず、遺体の手を見てさらに諫めた。隨会が先に諫めても聞かれなかった。靈公はこれを憂え鉏麑に趙盾の暗殺を命じたが、鉏麑は趙盾の門が開け放たれ暮らしぶりが節度あるのを見て「忠臣を殺し君命に背くのは同じ罪だ」と嘆いて木に触れて死んだ。
  • かつて趙盾が首山で狩りをした際、桑の下に飢えた人を見つけた。この者は示眯明という者で、盾は食を分け半分を残させた。理由を問うと「三年仕官していて母の存命を知らず、残りを母に届けたい」と答えた。盾はその孝心に感じ入りさらに飯と肉を与えたが、その後この者は晉の宰夫となり趙盾はそれと気付かなかった。九月、靈公は趙盾に酒を勧め伏兵で攻めようとしたが、公の宰である示眯明はこれを察知し、盾が酔って動けなくなるのを恐れ「君の賜りもの、三献で終えるべきです」と進言して盾を先に退出させ難を逃れさせた。盾が去った後、伏兵が集まる前に猛犬の敖を放たれたが、示眯明が犬を撃ち殺した。盾は「人を捨てて犬を用いるとは、何の役に立とうか」と言ったが、これが陰徳によるものとは知らなかった。伏兵が放たれ趙盾を追う中、示眯明は逆に伏兵を撃退し盾は脱出した。盾が理由を問うと「私はあの桑の下の飢えた者です」と答えたが名は告げず、そのまま姿を消した。
  • 盾は晉の国境を出ぬうちに、盾の従弟の将軍趙穿が桃園で靈公を襲い殺し盾を迎えた。趙盾はもとより人望があり、靈公は若く奢侈で民心を失っていたためこの弑逆は容易であった。盾は復位した。晉の太史董狐は「趙盾がその君を弑した」と記し朝廷で示した。盾が「弑したのは趙穿だ、私に罪はない」と言うと、太史は「あなたは正卿でありながら国境を出ずに戻り、乱を誅さなかった、あなたでなくて誰の罪か」と答えた。孔子はこれを聞き「董狐は古の良史である、書法を隠さなかった。宣子(趙盾)は良大夫であったが、法のために悪名を受けた。惜しいことに、国境さえ出ていれば免れられたものを」と評した。
  • 趙盾は趙穿に周から襄公の弟黑臀を迎えさせ立てた。これが成公である。成公は文公の少子で母は周の女。壬申、武宮に朝した。

成公・景公・厲公

  • 成公元年、趙氏を公族に列した。鄭が晉に背いたため鄭を伐った。三年、鄭伯が即位したばかりで晉に付き楚を棄てると、楚が怒って鄭を伐ち晉が救援に赴いた。
  • 六年、秦を伐ち秦将赤を虜にした。七年、成公は楚莊王と覇を争い扈で諸侯を会した。陳は楚を恐れて参加せず、晉は中行桓子に陳を伐たせ鄭を救い楚と戦い楚軍を破った。この年、成公が没し子の景公據が立った。
  • 景公元年春、陳の大夫夏徵舒が靈公を弑した。二年、楚莊王が陳を伐ち徵舒を誅した。
  • 三年、楚莊王が鄭を包囲し鄭が急を告げた。晉は荀林父を中軍、隨会を上軍、趙朔を下軍とし、郤克・欒書・先縠・韓厥・鞏朔が補佐した。六月、河に至ると楚が既に鄭を服させたと知り、鄭伯は肉袒して楚と盟を結び去っていた。荀林父は帰ろうとしたが先縠は「救援に来ておきながら至らぬまま帰るのは将の心を離れさせる」と反対し、ついに河を渡った。楚は既に鄭を服させ河で馬に水を飲ませて引き上げるふりをしていたが、楚と晉は大戦になった。鄭は新たに楚に付いたばかりでこれを恐れ、逆に楚を助けて晉を攻めた。晉軍は敗れ河へ走り渡河を争って船中の人の指が甚だ多く切り落とされた。楚は晉の将知罃を虜にした。帰還した林父は「督将として敗戦の責を負う、死を賜りたい」と申し出て景公は許そうとしたが、隨会が「昔、文公が楚と城濮で戦った際、成王は帰国後子玉を殺させ文公は喜んだ。今楚が既に我らを破っているのに将まで誅せば楚に加担して仇を討つようなものだ」と諫め、中止された。
  • 四年、先縠は自らの首計で晉軍を河上で敗らせた責を恐れ翟に出奔し翟と共に晉を伐とうと謀った。晉はこれを察知し先縠の一族を滅ぼした(先縠は先軫の子)。
  • 五年、鄭を伐った。これは鄭が楚を助けたことによる。この頃楚莊王は強盛で晉軍を河上で挫いていた。
  • 六年、楚が宋を伐ち宋が晉に急を告げると、晉は救おうとしたが伯宗は「楚は今まさに天が開いている国だ、当たれない」と諫めた。晉は解揚を偽って宋救援に向かわせたが、鄭人に捕らえられ楚に引き渡された。楚は厚く賜り言葉を偽らせようとしたが、解揚は表面上承知しつつ実際には晉君の言葉(急ぎ守り抜けとの意)を伝えた。楚は解揚を殺そうとしたが諫める者があり、結局帰した。
  • 七年、晉は隨会に赤狄を滅ぼさせた。
  • 八年、郤克を齊に使いさせた。齊頃公の母が楼上からこれを見て笑った。郤克は背中に瘤があり、同時に来た魯の使者は足が悪く、衛の使者は片目であったため、齊はそれぞれに合わせた案内人を付けて笑いものにしたのであった。郤克は怒って「この恥に報いなければ河神に誓う」と述べ帰国して伐齊を願い出たが、景公は「一個人の怨みで国を煩わせられぬ」と聞かなかった。魏文子は老齢を理由に引退して郤克に道を譲り、郤克が政を執った。
  • 九年、楚莊王が没した。晉は齊を伐ち、齊は太子彊を人質に出して晉軍は退いた。
  • 十一年春、齊が魯を伐ち隆を取った。魯は衛に急を告げ、衛と魯は共に郤克を通じて晉に急を告げた。晉は郤克・欒書・韓厥に兵車八百乗を与え魯・衛と共に齊を伐った。夏、頃公と鞌で戦い頃公を苦しめた。頃公は御者と位置を入れ替え敵陣で水を汲ませる隙に逃れた。齊軍は敗走し晉軍は齊の都まで追撃した。頃公は宝器を献じて和を求めたが聞かれず、郤克は「蕭桐姪子(頃公の母)を人質に出せ」と要求した。齊の使者は「頃公の母は晉君の母と同格、それを人質にとは不義だ、それなら再戦を望む」と拒み、晉はついに講和して兵を引いた。
  • この頃、楚の申公巫臣が夏姬を連れて晉へ出奔し、晉は巫臣を邢の大夫とした。
  • 十二年冬、齊頃公が晉に赴き景公を王として尊ぼうとしたが景公は辞退した。晉は初めて六軍を編成し、韓厥・鞏朔・趙穿・荀騅・趙括・趙旃を卿に列した。智罃が楚から帰った。
  • 十三年、魯成公が晉に朝見したが晉が丁重に扱わなかったため魯は怒って去り晉に背いた。晉は鄭を伐ち氾を取った。
  • 十四年、梁山が崩れた。伯宗に問うと「怪しむに足りない」と答えた。
  • 十六年、楚の将子反は巫臣を恨みその一族を滅ぼした。巫臣は怒り子反に「必ずお前を奔命に疲れさせてやる」と書を送り、呉への使者となることを願い出て、その子を呉の行人(外交官)とし呉に戦車の用兵を教えさせた。呉晉はこうして初めて通じ楚を共に討つ約束をした。
  • 十七年、趙同・趙括を誅しその一族を滅ぼした。韓厥は「趙衰・趙盾の功をどうして忘れられようか、祭祀を絶やしてよいのか」と述べ、趙氏の庶子武を趙氏の後継に復させ邑を与えた。
  • 十九年夏、景公が病み太子壽曼を君に立てた。これが厲公である。一ヶ月余り後、景公が没した。
  • 厲公元年、即位すると諸侯との融和を図り秦桓公と河を挟んで盟を結んだが、帰国後秦は盟に背き翟と共に晉を伐とうと謀った。三年、呂相を遣わして秦を責め諸侯と共に秦を伐ち、涇水に至り麻隧で秦を破りその将成差を虜にした。
  • 五年、三郤(郤氏の三人)が伯宗を讒言し殺した。伯宗は正直な直諫のゆえにこの禍を受け、国人はこれにより厲公を支持しなくなった。
  • 六年春、鄭が晉に背き楚と盟を結び晉は怒った。欒書は「我らの代で諸侯を失うわけにはいかない」と述べ兵を発した。厲公自ら将となり五月に渡河した。楚の救援が来ると聞き范文子は帰還を願ったが、郤至は「反逆を誅すために出兵しながら強敵を避ければ諸侯に号令できない」と主張し、ついに戦うこととなった。癸巳、楚共王の目を射て楚軍は鄢陵で敗れた。子反は残兵を収め再戦を図ろうとしたが、共王が子反を召したとき従者豎陽穀が酒を進め子反は酔って会見できなかった。王は怒り子反を責め、子反は死んだ。王はそのまま兵を引いて帰った。晉はこれにより諸侯に威を示し天下に号令しようとした。
  • 厲公は多くの寵姫を持ち、帰還後は群大夫を排し諸姫の兄弟を立てようとした。寵姫の兄胥童はかつて郤至と怨みがあり、欒書もまた鄢陵の戦で郤至が自らの策を用いず楚を破ったことを恨み、密かに人を遣わして楚に働きかけた。楚は偽って厲公に「鄢陵の戦は実は郤至が楚を招いたもので、乱を起こし公子周を立てようとしたが連合国の兵が揃わず失敗しただけだ」と告げさせた。厲公が欒書に告げると欒書は「恐らく事実でしょう、試しに人を周へ遣り探らせては」と勧め、果たして郤至は周への使いに出された。欒書はまた公子周に郤至を引き合わせ、郤至は自分が謀られたことを知らなかった。厲公はこれを確認し信じ込み、郤至を恨み殺そうとした。
  • 八年、厲公が狩りの際、寵姫と酒宴で郤至が豚を捕らえ献上したが宦者に奪われた。郤至はその宦者を射殺した。公は怒り「季子(郤至)が私を欺いた」と述べ三郤を誅そうとしたがまだ実行に移さなかった。郤錡は公を攻めようとし「私は死んでも、公もただでは済まない」と言ったが、郤至は「信を失えば君に背き、智を欠けば民を害し、勇を欠けば乱を起こす、この三つを失えば誰が味方するか、私は死ぬまでだ」と述べた。十二月壬午、公は胥童に命じ兵八百人で三郤を襲い殺させた。胥童はさらに欒書・中行偃を朝廷で捕らえ「この二人を殺さねば公に禍が及ぶ」と迫ったが、公は「一朝に三卿を殺した、これ以上は忍びない」と答えた。胥童は「それでは人があなたを忍ばぬことになりますよ」と応じたが、公は聞かず欒書らに郤氏誅殺の理由を告げ「大夫は復位せよ」と述べた。二人は頓首して「幸甚幸甚」と述べた。公は胥童を卿とした。閏月乙卯、厲公が匠驪氏の邸で遊んだ際、欒書・中行偃はその党と厲公を捕らえ胥童を殺し、公子周を周から迎えて立てた。これが悼公である。
  • 悼公元年正月庚申、欒書・中行偃が厲公を弑し一乗車のみで葬った。厲公は六日間幽閉されて死に、その十日後の庚午、智罃が公子周を迎えて絳に至り、鶏を犠牲に大夫と盟を結び立てた。これが悼公である。辛巳、武宮に朝し、二月乙酉、正式に即位した。

悼公の中興

  • 悼公周の大父捷は晉襄公の少子で位を継げず桓叔と号した。桓叔は最も愛された子であった。桓叔の子惠伯談、その子が悼公周である。周が立った時十四歳であった。悼公は「大父も父も位を継げず周で客死した、私は自分を疎遠な身と思い君となる望みなど持たなかった。今大夫たちが文公・襄公の意を忘れず恩情をもって桓叔の子孫を立てたのは宗廟大夫の霊のおかげだ、どうして戦々兢々とせずにいられよう、大夫たちよ私を助けてほしい」と述べた。不忠な者七人を追放し、旧功を修め恩恵を施し、文公入国時の功臣の子孫を取り立てた。秋、鄭を伐つと鄭軍は敗れ、晉軍は陳にまで至った。
  • 三年、晉が諸侯を会した。悼公が群臣に人材登用を問うと祁傒が解狐を推挙した。解狐は祁傒の仇であった。再び問うと、今度は自分の子祁午を推挙した。君子は「祁傒は不党の人といえよう、外に推挙するにも仇を憚らず、内に推挙するにも我が子を憚らない」と評した。折しも諸侯を会していた際、悼公の弟楊干が行軍の列を乱し、魏絳がその御者を戮した。悼公は怒ったが、諫める者があり結局魏絳を評価し政を任せ戎との和睦を進めさせ、戎は大いに親しみ服した。十一年、悼公は「私が魏絳を用いてから九度諸侯を会し戎・翟とも和した、これは魏子の力だ」と楽器を賜り、絳は三度辞退した後に受けた。冬、秦が晉の櫟を取った。
  • 十四年、晉は六卿に諸侯を率いさせ秦を伐ち涇水を渡り秦軍を大破し棫林まで至って引き返した。
  • 十五年、悼公は師曠に治国の道を問い、師曠は「ただ仁義を根本とすべし」と答えた。冬、悼公が没し子の平公彪が立った。

平公から幽公まで

  • 平公元年、齊を伐ち齊靈公と靡下で戦い齊軍は敗走した。晏嬰は「君はもう勇む必要はない、なぜ戦をやめないのか」と述べ、齊は退いた。晉は追撃し臨菑を包囲しその郭内を焼き払い、東は膠水、南は沂水に至った。齊は各城を固く守ったため晉は兵を引いた。
  • 六年、魯襄公が晉に朝見した。晉の欒逞が罪を得て齊に出奔した。八年、齊莊公はひそかに欒逞を曲沃に送り込み兵を随わせた。齊軍が太行山を越え、欒逞は曲沃から反乱を起こし絳を襲った。絳は警戒しておらず平公は自殺しようとしたが范獻子が止め、その徒党で逞を攻め、逞は曲沃へ敗走した。曲沃が逞を攻め逞は死に欒氏の宗族は滅ぼされた。逞は欒書の孫にあたり、絳襲撃の際は魏氏と共謀していた。齊莊公は逞の敗北を聞いて引き返し、晉の朝歌を取って臨菑攻撃の報復とした。
  • 十年、齊の崔杼が莊公を弑した。晉は齊の混乱に乗じて高唐で齊を破り太行の役の報復とした。
  • 十四年、呉の延陵季子が来使し、趙文子・韓宣子・魏獻子と語り「晉国の政は結局この三家に帰するだろう」と評した。
  • 十九年、齊が晏嬰を晉に遣わし叔嚮と語らせた。叔嚮は「晉は末世にある。公は重税で台池を築き政を顧みず、政は私門にある、これが久しく続くだろうか」と述べ、晏子もこれに同意した。
  • 二十二年、燕を伐った。二十六年、平公が没し子の昭公夷が立った。
  • 昭公は六年で没した。六卿が強大化し公室は卑小になった。子の頃公去疾が立った。
  • 頃公六年、周景王が崩じ王子たちが位を争った。晉の六卿が王室の乱を平定し敬王を立てた。
  • 九年、魯の季氏がその君昭公を追放し、昭公は乾侯に居留した。十一年、衛・宋が晉に魯君の復帰を求めたが、季平子が范獻子に賄賂を贈り、獻子は晉君に「季氏に罪はない」と述べ、魯君の復帰は果たされなかった。
  • 十二年、晉の宗家祁傒の孫と叔嚮の子が君主に対して不遜であったため、六卿は公室を弱めるためこれを口実にその一族を法に照らして滅ぼし、その邑を十県に分けそれぞれ子弟を大夫とした。晉はますます弱まり六卿がみな強大になった。
  • 十四年、頃公が没し子の定公午が立った。
  • 定公十一年、魯の陽虎が晉に出奔し趙鞅(簡子)がこれを匿った。十二年、孔子が魯の相となった。
  • 十五年、趙鞅が邯鄲の大夫午に不信を抱き殺そうとすると、午は中行寅・范吉射と共に趙鞅を攻め、鞅は晉陽に逃れ籠城した。定公が晉陽を包囲した。荀櫟・韓不信・魏侈は范氏・中行氏と仇の間柄であったため兵を転じて范・中行を伐った。范・中行が反逆すると晉君はこれを撃ち破った。范・中行は朝歌に逃れ籠城した。韓・魏は趙鞅のために晉君にとりなし、鞅は赦されて復位した。二十二年、晉は范・中行氏を破り二人は齊へ出奔した。
  • 三十年、定公は呉王夫差と黄池で会し盟主の座を争ったが、趙鞅が随行し結局呉が盟主となった。
  • 三十一年、齊の田常が簡公を弑しその弟驁を平公に立てた。三十三年、孔子が没した。
  • 三十七年、定公が没し子の出公鑿が立った。
  • 出公十七年、知伯は趙・韓・魏と共に范・中行の地を分けて邑とした。出公は怒り齊・魯に告げて四卿を討とうとしたが、四卿は恐れて逆に出公を攻めた。出公は齊へ逃れる途中で没した。知伯は昭公の曾孫驕を晉君に立てた。これが哀公である。
  • 哀公の大父雍は晉昭公の少子で戴子と号した。戴子の子忌は知伯と親しかったが早世したため、知伯は晉を併合しようとしつつもまだ果たせず、忌の子驕を君に立てたのであった。この頃晉の政はすべて知伯の意のままで、哀公は制する術を持たなかった。知伯は范・中行の地も得てもっとも強大となった。
  • 哀公四年、趙襄子・韓康子・魏桓子が共に知伯を殺しその地をことごとく併合した。
  • 十八年、哀公が没し子の幽公柳が立った。幽公の時代、晉は畏縮し逆に韓・趙・魏の君に朝見するようになった。晉の直轄地は絳・曲沃のみとなり、他は皆三晉(韓趙魏)に帰していた。
  • 十五年、魏文侯が初めて立った。十八年、幽公は婦人に溺れ夜ひそかに邑を出て盗賊に殺された。魏文侯は兵をもって晉の乱を誅し幽公の子止を立てた。これが烈公である。
  • 烈公十九年、周の威烈王が趙・韓・魏をいずれも諸侯に任じた。
  • 二十七年、烈公が没し子の孝公頎が立った。孝公九年、魏武侯が初めて立ち邯鄲を襲ったが勝てずに退いた。十七年、孝公が没し子の靜公俱酒が立った。この年、齊威王の元年でもあった。
  • 靜公二年、魏武侯・韓哀侯・趙敬侯は晉の後継を滅ぼしその地を三分した。靜公は庶民に落とされ、晉の祭祀は絶えた。

史論

  • 太史公は言う。晉文公は古来「明君」と称される人物であったが、国外に十九年亡命し困窮を極めた末、即位して恩賞を行う時にすら介子推を忘れてしまった、まして驕った君主ならなおさらであろう。靈公が弑された後、成公・景公の時代は厳しさを増し厲公に至って苛烈を極め、大夫は誅殺を恐れて禍を招いた。悼公以後は日ごとに衰え六卿が権を専らにした。君主が臣下を統御する道の難しさは、まことに変わらぬものである。