史記卷三十八 宋微子世家第八 宋微子(開)
殷の帝乙の長子で紂の庶兄である微子開(?–?)。紂の暴政をたびたび諫めても聞かれず出奔したが、周の武王に帰順して旧地に復し、周公旦による管叔・蔡叔討伐の後に殷の後継として宋に封じられた(殷末の三仁の一人と称される)。以後代々宋公が世襲し、襄公は泓の戦いで楚に大敗、戦国期には君偃が自ら王を称し一時強勢を誇ったが、最終的に齊・楚・魏に滅ぼされた。
年表(16件)
- 宣公19年太子與夷を措いて弟の和(穆公)に位を譲る
- 殤公10年華督が孔父を殺し殤公も弑して、莊公(公子馮)を迎え立てる
- 湣公11年南宮萬が博打の遺恨から湣公を殺し、後に桓公が擁立される
- 襄公12年鹿上の盟で楚に諸侯支持を求めるが、盂の会で楚に捕らえられる
- 襄公14年泓の戦いで楚軍に大敗して負傷し、その傷がもとで没する
- 昭公9年夫人王姫が昭公を殺させ、弟の鮑革(文公)が立つ
- 文公4年楚に命じられた鄭に伐たれ、将の華元が捕虜となる
- 文公17年楚莊王の5ヶ月に及ぶ包囲の末、華元の交渉で講和が成る
- 共公13年司馬唐山の乱で太子肥が殺され、共公の少子成(平公)が立つ
- 平公3年楚共王が宋の彭城を攻め取り左師魚石に与える
- 平公4年諸侯が共に魚石を討ち、彭城を宋に返す
- 元公10年元公が公子たちを謀殺し、大夫の華氏・向氏が乱を起こす
- 景公64年景公が没し、公子特が太子を攻め殺して自立する(昭公)
- 剔成41年弟の偃が剔成を襲い、剔成は齊へ奔って偃が自立する
- 君偃11年自ら王を称し、齊・楚・魏を破って強勢を誇る
- 王偃47年齊の湣王が魏・楚と共に宋を伐ち王偃を殺し、宋を滅ぼす
出自と殷末の三仁
- 微子開は殷の帝乙の長子で紂の庶兄。紂が即位して政治に暗く酒色に淫し始めると微子は再三諫めたが聞き入れられなかった。祖伊は周の西伯昌が徳を修め𨸒国を滅ぼしたことから殷への禍が迫っていると紂に告げたが、紂は「我が生には天命があるのに何ができようか」と取り合わなかった。
- 微子は紂をもはや諫められないと悟り、死をもって諫めるか去るか決めかねて太師・少師に相談した。「殷はもはや治まる政がなく、卿士たちも道理を外れ皆罪を犯している。乱れは治まらず、水を渡るのに渡し場がないようなものだ」と述べると、太師は「王子よ、天が篤く殷に禍を下している今、老臣の言葉すら用いない。国を治められぬまま死ぬよりは、去るべきだ」と答え、微子はついに出奔した。
- 箕子は紂の親戚。紂が象牙の箸を作った時から箕子は「象牙の箸の次は玉の杯、やがて遠国の珍奇な品を求めるようになり、贅沢の兆しはここから始まる」と嘆いたが、紂は箕子の諫めも聞かず淫楽に耽った。人に「もう去るべきだ」と勧められても、箕子は「臣下として諫めが聞かれず去れば君の悪を暴き自らの評判を高めることになり、忍びない」として、髪を振り乱し狂人を装って奴隷となった。隠れて琴を弾き悲しみを紛らわし、これが《箕子操》として伝わった。
- 王子比干も紂の親戚。箕子が諫めを容れられず奴隷となったのを見て「君に過ちがあれば死を賭して争わねば民に申し訳が立たない」と直言して紂を諫めた。紂は激怒し「聖人の心には七つの穴があると聞くが本当か」と比干を殺し、その心臓を裂いて確かめた。
- 微子は「父子は血のつながり、君臣は義でつながる。父に過ちあれば子は三度諫めて聞かれねば泣いて従うが、臣は三度諫めて聞かれねば去ってよい」と語り、太師・少師も微子に出奔を勧め、微子はついに去った。
微子の帰順と宋の建国
- 周武王が紂を討ち殷を滅ぼすと、微子は祭器を携えて軍門に至り、上半身を裸にして両手を後ろで縛り、左に羊を引き右に茅を持ち、膝行して申し出た。武王は微子を許し元の地位に復させた。
- 武王は紂の子武庚祿父を封じて殷の祭祀を続けさせ、管叔・蔡叔にこれを補佐させた。武王はまた箕子を訪ねて教えを請うた。武王が「天はひそかに民を安んじ定めているが、私はその秩序をよく知らない」と問うと、箕子は鯀が治水に失敗し天帝の怒りに触れて誅せられ、禹がこれを継いで洪範九疇を天から授かった経緯を語った。
- 箕子は九疇(五行・五事・八政・五紀・皇極・三徳・稽疑・庶徴・五福六極)の内容を詳しく説いた。五行は水火木金土、五事は貌言視聴思、八政は食貨祀司空司徒司寇賓師、五紀は歳月日星辰暦数、皇極は君主が模範となり公平に統治すべきこと、三徳は正直・剛克・柔克、稽疑は卜筮による判断の作法、庶徴は天候の異変が政治の吉凶を示すこと、五福は寿・富・康寧・攸好徳・考終命、六極は凶短折・疾・憂・貧・悪・弱である。武王はこれに感じ入り、箕子を朝鮮に封じたが臣下とはしなかった。
- 後に箕子が周に朝見する途中、殷の旧都を通り宮殿が荒れて禾黍が生い茂るのを見て悲しみ、泣くに泣けぬ思いから《麦秀の詩》を作って詠んだ。「麦秀でて漸漸たり、禾黍油油たり。彼の狡童よ、我と好からず」。狡童とは紂を指す。殷の遺民はこれを聞いて涙を流した。
- 武王が崩じ成王が幼く周公旦が摂政すると、管叔・蔡叔は疑いを抱いて武庚とともに反乱を起こした。周公は成王の命により武庚を誅し管叔を殺し蔡叔を追放した上で、微子開に殷の後継として宋に封じ先祖の祭祀を続けさせた。《微子之命》の書を作りこれを命じた。微子は仁徳をもって武庚に代わったため殷の遺民は大いに慕った。
宋初代から桓公まで
- 微子開が没すると弟の衍(微仲)が継ぎ、以下宋公稽・丁公申・湣公共と続いた。湣公共の没後、弟の煬公熙が立つと、湣公の子鮒祀が煬公を弑して自立し「私が立つべきであった」と称した。これが厲公である。厲公が没すると子の釐公舉が立った。
- 釐公十七年、周の厲王が彘に出奔した。二十八年、釐公が没し子の惠公覵が立った。惠公四年、周の宣王が即位した。三十年、惠公が没し子の哀公が立ったが元年で没し子の戴公が立った。
- 戴公二十九年、周の幽王が犬戎に殺され秦が諸侯に列せられた。三十四年、戴公が没し子の武公司空が立った。武公の娘は魯惠公の夫人となり魯桓公を生んだ。十八年、武公が没し子の宣公力が立った。
- 宣公には太子與夷がいたが、十九年に病むと弟の和に位を譲り「父死子継、兄死弟及は天下の通義である」と述べ、和も三度辞退して受けた。これが穆公である。
- 穆公九年、病んだ穆公は大司馬孔父に「先君宣公は太子與夷を措いて私を立てた恩を忘れない。私が死ねば必ず與夷を立てよ」と告げた。孔父が「群臣は皆公子馮を望んでいる」と言うと、穆公は「馮を立てず、宣公に背かぬように」と命じ、馮を鄭へ出させた。穆公が没すると與夷が立った。これが殤公である。人々はこれを聞いて「宋の宣公は人を知る人物であった。弟に位を譲って義を成し、結局その子が位を享受した」と評した。
殤公・莊公・湣公
- 殤公元年、衛の公子州吁が君完を弑して自立し、諸侯の支持を得ようと「馮は鄭にあり乱を起こすだろう、共に討とう」と持ちかけ、宋はこれに応じ鄭を伐ったが東門で引き返した。二年、鄭が報復に宋を伐ち、以後諸侯の侵伐が相次いだ。
- 九年、大司馬孔父嘉の妻が美しく、外出の折に太宰華督が見初めた。華督は国中に「殤公即位十年で十一度も戦をし民は苦しんでいる、これはみな孔父のせいだ、孔父を殺して民を安んじよう」と流言した。同年魯で隱公が弑された。十年、華督は孔父を攻め殺しその妻を奪った。怒った殤公も華督に弑され、華督は鄭にいた穆公の子馮を迎えて立てた。これが莊公である。
- 莊公元年、華督が相となった。九年、鄭の祭仲を捕らえ突を鄭君に立てるよう強要し、祭仲は承知して突を立てた。十九年、莊公が没し子の湣公捷が立った。
- 湣公七年、齊桓公が即位した。九年、宋に水害があり魯の臧文仲が見舞いに来ると、湣公は「私が鬼神に仕えず政治を修めなかったゆえに水害となった」と自ら罪を認め、臧文仲はこの言葉を評価した(この言葉は実は公子子魚が湣公に教えたものであった)。
- 十年夏、宋が魯を伐ち乗丘で戦ったが魯に南宮萬を生け捕られた。宋は萬の返還を求め帰国させた。十一年秋、湣公と南宮萬が狩猟中に博打の順を争って湣公が萬を「昔は敬っていたが、今のお前は魯の虜だ」と侮辱すると、力自慢の萬はこれを深く恨み、賭博の局を用いて湣公を蒙澤で殺した。大夫仇牧が兵を率いて公門に駆けつけると萬に組み伏せられ門扉に歯を食い込ませたまま死んだ。萬は太宰華督も殺し、公子游を新君に立てた。他の公子たちは蕭・亳に逃れ、萬の弟南宮牛は亳を包囲した。冬、蕭及び宋の諸公子が南宮牛を討ち、新君游を弑して湣公の弟禦說を立てた。これが桓公である。宋萬は陳に逃れたが、宋は陳に賄賂を贈って引き渡しを求め、陳人は萬に醇酒を飲ませ皮で包んで宋に送り、宋は萬を塩漬けにした。
桓公・襄公の泓の戦い
- 桓公二年、諸侯が宋を伐ったが郊外まで来て退いた。三年、齊桓公が覇を唱え始めた。二十三年、衛の公子燬(衛文公)を齊から迎え立てた。文公の妹は桓公の夫人となった。同じ頃秦穆公が即位した。三十年、桓公が病むと太子茲甫は庶兄の目夷に位を譲ろうとしたが、桓公は太子の義を評価し許さなかった。三十一年春、桓公が没し太子茲甫が立った。これが襄公である。庶兄の目夷を相とした。まだ葬儀前に齊桓公が葵丘で諸侯を会した際、襄公も参会した。
- 襄公七年、宋の地に隕石が雨のように降り、六羽の鶂が強風のため後退して飛ぶという異変があった。八年、齊桓公が没すると、宋は盟会の主宰を望んだ。十二年春、宋襄公は鹿上の盟を開き楚に諸侯の支持を求めると楚人はこれを許した。公子目夷は「小国が盟主を争うのは禍のもとだ」と諫めたが聞かれず、秋の盂での会盟で楚は襄公を捕らえ、冬の亳での会でようやく釈放した。子魚は「禍はまだ終わっていない」と述べた。
- 十三年夏、宋が鄭を伐つと子魚は「禍はここにある」と述べ、秋に楚が鄭を救うため宋を伐った。襄公が戦おうとすると子魚は「天が久しく商(宋の祖殷)を見捨てている、戦うべきでない」と諫めた。冬十一月、襄公は楚成王と泓で戦い、楚軍が渡河し切らぬうちに目夷が「敵は多く我は少ない、渡り切らぬうちに撃つべし」と進言したが公は聞かず、布陣が整うのを待ってから攻めた結果、宋軍は大敗し襄公も股を負傷した。国人は皆公を怨んだが、公は「君子は苦境にある人を攻めず、隊列の整わぬ敵は討たない」と述べた。子魚は「戦は勝つことが功であり、そのような理屈が通るなら奴隷として仕えるのと同じで、何のために戦うのか」と反論した。
- 楚成王は鄭を救った後、鄭の饗応を受けて鄭の二人の妃を連れ帰った。鄭の叔瞻は「成王は無礼だ、終わりを全うできまい、礼を尽くしても区別をわきまえないことから覇を成せぬとわかる」と評した。この年、晉の公子重耳が宋を通過し、襄公は楚での負傷にもかかわらず晉との連携を望み、馬二十乗を贈って厚遇した。
- 十四年夏、襄公は泓での傷がもとでついに没し、子の成公王臣が立った。
成公・昭公・文公
- 成公元年、晉文公が即位した。三年、宋は楚との盟約に背き晉に親しんだ。これは晉文公に恩義があったためである。四年、楚成王が宋を伐ち宋は晉に急を告げた。五年、晉文公が宋を救い楚軍が退いた。九年、晉文公が没した。十一年、楚の太子商臣が父成王を弑して代立した。十六年、秦穆公が没した。
- 十七年、成公が没した。成公の弟禦は太子と大司馬公孫固を殺して自立したが、宋人は共に禦を殺し、成公の少子杵臼を立てた。これが昭公である。
- 昭公四年、宋は長翟の緣斯を長丘で破った。七年、楚莊王が即位した。九年、昭公は無道で国人の支持を得られなかった。昭公の弟鮑革は賢くへりくだって士に接し、かつて襄公夫人が公子鮑と通じようとして果たせなかったことから彼を国政面で援助し、大夫華元を右師とした。昭公が狩りに出た際、夫人王姫は衛伯に命じて昭公杵臼を殺させ、弟の鮑革が立った。これが文公である。
- 文公元年、晉は諸侯を率いて宋を伐ち弑逆の罪を責めたが、文公の擁立が定まったと知ると兵を引いた。二年、昭公の子は文公の同母弟須および武・繆・戴・莊・桓の一族と結んで乱を起こしたが、文公はことごとく誅し武・繆の一族を追放した。
- 四年春、楚が鄭に命じて宋を伐たせた。宋は華元を将としたが鄭に敗れ華元は捕虜となった。戦の前に華元は羊を殺して士に振る舞ったが、御者には羊の羹が行き渡らず、その恨みから御者は敵陣へ馬を駆け込ませたため宋軍は敗れ華元も捕らえられた。宋は兵車百乗と文馬四百匹で贖おうとしたが、贈り切らぬうちに華元は自ら逃げ帰った。
- 十四年、楚莊王が鄭を包囲し、鄭伯が降ると楚は再びこれを釈放した。十六年、楚の使者が宋を通過した際、宋は以前の遺恨から使者を捕らえた。九月、楚莊王が宋を包囲した。十七年、包囲は五ヶ月に及び城中は食糧が尽きたため、華元は夜ひそかに楚将子反を訪ね窮状を告げた。子反が莊王に伝えると、王は「城中はどうか」と問い、「骨を折って炊き、子を交換して食べています」と答えると、莊王は「まことに悲しい言葉だ。我が軍も残り二日分の食糧しかない」と述べ、信義を重んじて兵を引いた。
- 二十二年、文公が没し子の共公瑕が立った。この頃から厚葬が始まり、君子は華元の不忠を非難した。
共公から景公まで
- 共公十年、華元は楚の将子重、晉の将欒書といずれとも親しく、晉楚両国と盟を結んだ。十三年、共公が没した。華元が右師、魚石が左師であったが、司馬唐山が太子肥を攻め殺し華元も殺そうとしたため、華元は晉に出奔した。魚石が引き止め黄河のほとりまで来て引き返させ、唐山を誅した。こうして共公の少子成を立てた。これが平公である。
- 平公三年、楚共王が宋の彭城を攻め取り左師魚石に与えたが、四年、諸侯が共に魚石を討ち彭城を宋に返した。三十五年、楚の公子圍が君を弑して自立し靈王となった。四十四年、平公が没し子の元公佐が立った。
- 元公三年、楚の公子棄疾が靈王を弑し自立して平王となった。八年、宋で火災があった。十年、元公は信義を欠き公子たちを謀殺したため大夫の華氏・向氏が乱を起こした。楚平王の太子建が亡命して来たが、諸華氏の内紛を見て鄭へ去った。十五年、元公は魯昭公のため季氏を避けて外遊し、その復帰を求める途中で没し子の景公頭曼が立った。
- 景公十六年、魯の陽虎が来奔し後に去った。二十五年、孔子が宋を通過した際、宋の司馬桓魋が孔子を憎み殺そうとしたため孔子は変装して逃れた。三十年、曹が宋・晉双方に背いたため宋が曹を伐ち、晉が救わなかったため宋はついに曹を滅ぼしその地を得た。三十六年、齊の田常が簡公を弑した。
- 三十七年、楚惠王が陳を滅ぼした。この頃熒惑(火星)が心宿にとどまり、心宿は宋の分野に当たるとして景公が憂うと、司星子韋は「相・民・年に禍を移せる」と述べたが、景公は「相は我が股肱、君は民に頼る、年に飢えれば民が困る、いずれも移せぬ」と拒み、天を敬う三つの言葉を発したことで熒惑は自ら三度その位置を動いたという。
- 六十四年、景公が没した。宋の公子特が太子を攻め殺して自立した。これが昭公である。昭公は元公の曾庶孫で、父は公孫糾、糾の父は公子褍秦(元公の少子)。景公が昭公の父糾を殺していたため、昭公はその恨みから太子を殺して自立したのであった。
戦国期の宋
- 昭公は四十七年で没し子の悼公購由が立ち、悼公は八年で没し子の休公田が立ち、休公は二十三年で没し子の辟公辟兵が立ち、辟公は三年で没し子の剔成が立った。剔成四十一年、弟の偃が剔成を襲い、剔成は敗れて齊に奔り、偃が自立して宋君となった。
- 君偃十一年、自ら王を称した。東は齊を破り五城を取り、南は楚を破り三百里の地を取り、西は魏軍を破り、齊・魏と敵対する国となった。血を革袋に満たして高く掲げこれを射て「天を射る」と称し、酒色に淫し、諫める群臣は容赦なく射殺した。諸侯は皆「桀宋(暴君桀に等しい宋)」「殷紂の再来であり誅すべきだ」と言い、齊に宋討伐を促した。王偃立って四十七年、齊の湣王が魏・楚とともに宋を伐ち王偃を殺し、宋を滅ぼしてその地を三分した。
史論
- 太史公は言う。孔子は「微子は殷を去り、箕子は奴隷となり、比干は諫めて死んだ、殷にはこの三人の仁者があった」と称えた。《春秋》は宋の乱れが宣公が太子を廃して弟を立てたことに始まり、国が十世にわたり安寧を得られなかったことを譏っている。襄公の時代には仁義の政を修め盟主たらんとした。大夫の正考父はこれを美しとし、契・湯・高宗の事績にさかのぼって《商頌》を作った。襄公が泓で敗れた後も、君子の中にはこれを評価する者があった。中国(中原諸国)が礼義を欠くことを嘆き、宋襄公にはなお礼譲があったことを称えたのである。