史記卷三十七 衛康叔世家第七 衛康叔(封)

衛の始祖康叔封(?–?)は周の武王の同母末弟。武庚・管蔡の乱の後、殷の遺民を与えられて衛君に封じられ、周公旦の訓戒(康誥・酒誥・梓材)に従い善政を敷いた。以後代々世襲したが、州吁の簒奪・太子伋の讒殺・蒯聵の乱など内紛が絶えず、戦国期には国力が衰え自ら号を「侯」「君」と貶め、秦の二世皇帝の代に君角が廃されて祭祀が絶えた。

年表(21件)
  • 釐侯42年弟の和(武公)が兄の共伯を襲い自殺させ、自ら衛侯に立つ
  • 武公42年犬戎に殺された周の幽王を助けて戎を討ち、周の平王より公の位を受ける
  • 桓公16年弟の州吁が桓公を弑して自立する
  • 宣公19年齊女と子朔の讒言により太子伋が殺される。宣公が没し子朔(惠公)が立つ
  • 惠公4年左右公子が乱を起こして惠公を攻め、伋の弟黔牟を君に立てる。惠公は齊へ出奔
  • 黔牟8年齊の襄公が衛を伐って惠公を復位させ、黔牟は周へ出奔
  • 懿公9年翟の侵攻に鶴好きの懿公は兵を動かせず、殺される
  • 成公3年晉に道を貸さなかったことを咎められ晉文公に衛を伐たれ、成公は出奔
  • (成公出奔から)2年周のとりなしで衛に復帰し、元咺を誅す
  • 獻公18年孫文子・甯惠子との不和から攻められ齊へ出奔し、殤公が立つ
  • 殤公12年甯喜が孫林父を攻めさせたことから晉が介入し、亡命十二年の獻公が復位する
  • 靈公39年太子蒯聵が夫人南子の暗殺を図って露見し、宋・晉へ追放される
  • 靈公42年靈公が没し、蒯聵の子輒(出公)が立てられる
  • 出公12年孔悝の変により太子蒯聵が国に入り即位する。これが莊公
  • 莊公3年戎州の民を侮辱した恨みから趙簡子に包囲され、出奔する
  • 昭公6年公子亹が昭公を弑して自立し、懷公となる
  • 懷公11年公子穨が懷公を弑して自立し、慎公となる
  • 成侯16年衛が号を貶して侯と称する
  • 嗣君5年号をさらに貶して君と称し、濮陽の一邑のみを保つ
  • 懷君31年魏に朝見した際、魏に囚われて殺される
  • 君角21年二世皇帝が君角を廃して庶人とし、衛の祭祀が絶える

出自と建国

  • 衛の始祖康叔封は、周武王の同母末弟。武王の同母弟にはほかに冉季がおり、これが最年少であった。
  • 武王は殷紂を討った後、殷の遺民を紂の子武庚祿父に与えて諸侯並みに封じ、殷の祭祀を絶やさぬようにした。武庚がまだ人心を得ていないことを恐れ、管叔・蔡叔に武庚を補佐させて民を治めさせた。
  • 武王没後、成王が幼く、周公旦が摂政として国政を執った。管叔・蔡叔は周公を疑い、武庚とともに反乱を起こして成周を攻めようとした。周公旦は成王の命により兵を興してこれを討ち、武庚と管叔を誅し、蔡叔を追放した。そして殷の遺民をもって康叔を衛君に封じ、黄河・淇水の間の旧殷の地に居らせた。
  • 周公旦は康叔がまだ若いことを案じ、繰り返し戒めて「必ず殷の賢人・君子・長老を求め、殷が興った理由と亡びた理由を尋ね、民を愛することに努めよ」と告げた。紂が滅んだのは酒色に淫し婦人に惑わされたためだと告げ、《梓材》を作って君子の模範を示した。これらを合わせて《康誥》《酒誥》《梓材》と称して康叔に授けた。康叔はこの教えに従って国を治め、民を懐柔したので民は大いに喜んだ。
  • 成王が成人して親政するようになると、康叔を周の司寇に取り立て、衛の宝器・祭器を賜って徳をたたえた。

康叔から頃侯まで

  • 康叔が没すると子の康伯が継ぎ、以下考伯・嗣伯・𢈻伯・靖伯・貞伯・頃侯と代々継承した。
  • 頃侯は周の夷王に厚く賄賂を贈り、夷王の命により衛は侯に列せられた。頃侯は在位十二年で没し、子の釐侯が立った。

釐侯・共伯・武公

  • 釐侯十三年、周の厲王が彘に出奔し、共和の政が行われた。二十八年、周の宣王が即位した。
  • 四十二年、釐侯が没すると太子の共伯餘が立った。共伯の弟の和は釐侯に寵愛されて多くの財を与えられており、その財で士を味方につけ、共伯を墓所で襲った。共伯は釐侯の墓道に入って自殺した。衛人はこれを釐侯のかたわらに葬り共伯と諡し、和を衛侯に立てた。これが武公である。
  • 武公は康叔の政を修めて百姓を懐柔した。四十二年、犬戎が周の幽王を殺すと、武公は兵を率いて周を助け戎を討ち大功を立て、周の平王より公の位を命じられた。五十五年に没し、子の莊公揚が立った。

莊公・州吁の乱・桓公

  • 莊公五年、齊女を夫人としたが子がなく寵愛された。陳女を夫人として生まれた子は早世し、その妹(陳女の女弟)も莊公に寵せられて子完を生んだ。完の生母が没すると莊公は正夫人の齊女に育てさせ、太子とした。ほかに寵妾の生んだ子州吁がいた。
  • 十八年、州吁が成長し兵を好んだので莊公は将軍とした。石碏は「庶子に兵を掌らせれば乱の元になる」と諫めたが聞き入れられなかった。二十三年、莊公が没し太子完が立った。これが桓公である。
  • 桓公二年、弟の州吁が驕奢であったため退けると、州吁は出奔した。十二年、鄭の伯の弟段が兄を攻めて敗れ亡命すると、州吁はこれと親交を結んだ。十六年、州吁は衛の亡命者を集めて桓公を襲い弑して自立した。宋・陳・蔡と結んで鄭を伐とうとしたが、州吁は民心を得られなかった。
  • 石碏は桓公の母の実家である陳と謀り、鄭で右宰醜に命じて州吁を濮で殺させ、桓公の弟晉を邢から迎えて立てた。これが宣公である。

宣公・急子伋の悲劇

  • 宣公七年、魯が隱公を弑した。九年、宋の督が殤公と孔父を弑した。十年、晉の曲沃莊伯が哀侯を弑した。
  • 十八年、宣公は夫人夷姜との子伋を太子とし右公子に傅育させた。太子のために齊女を娶らせようとしたところ、宣公はその齊女を気に入り自ら娶り、太子には別の女を娶らせた。宣公と齊女の間に子壽・子朔が生まれ左公子に傅育させた。太子伋の母が没すると、正夫人となった齊女と朔が太子伋を讒言した。宣公はもと太子の妻を奪った負い目から太子を憎み、廃太子を望んでいたところへ讒言を聞き激怒し、太子伋を齊へ使いに出させ盗賊に殺させようと謀った。
  • 太子の異母弟壽は謀を知り太子に行くなと勧めたが、太子は父命に背けぬとして出発した。壽は太子の白旄を奪って先に界に至り、盗賊に殺された。続いて至った太子伋は「殺すべきは私だ」と自ら名乗り出て殺された。宣公は子朔を太子とし、十九年に没して朔が立った。これが惠公である。
  • 惠公が伋を讒殺して代わり立ったことに左右公子は不満を抱き、惠公四年に乱を起こして惠公を攻め、伋の弟黔牟を君に立てた。惠公は齊へ出奔した。

黔牟・惠公復位

  • 衛君黔牟が八年立った後、齊の襄公が諸侯を率い王命を奉じて衛を伐ち惠公を復帰させ、左右公子を誅した。黔牟は周に出奔した。惠公が復立してから、出亡三年・亡命八年、前後合わせて十三年が経過していた。
  • 二十五年、惠公は周が黔牟を庇ったことを恨み、燕とともに周を伐った。周の惠王は溫に出奔し、衛と燕は惠王の弟穨を王に立てた。二十九年、鄭が惠王を復帰させた。三十一年、惠公が没し子の懿公赤が立った。

懿公・戴公・文公

  • 懿公は即位すると鶴を好み奢侈に流れた。九年、翟が衛を伐つと兵は動かず、大臣は「君が鶴を好むのだから鶴に戦わせよ」と言った。翟軍はついに侵入し懿公を殺した。
  • 懿公の即位以来、百姓・大臣はみな服さず、惠公朔が太子伋を讒殺して以来の恨みを晴らそうと、惠公の血統を絶やして黔牟の弟昭伯頑の子申を君に立てた。これが戴公である。
  • 戴公申は元年に没した。齊桓公は衛が度重なる乱に見舞われたことから諸侯を率いて翟を討ち、衛のために楚丘に城を築いて戴公の弟燬を君に立てた。これが文公である。文公はいったん乱を避けて齊に出奔したが齊人に送り返された。
  • もともと翟が懿公を殺した際、衛人は宣公の太子伋の血統を惜しんだが、伋の子も既に死に、代わりに死んだ壽にも子がなかった。伋の同母弟は黔牟・昭伯の二人でいずれも既に没していたため、昭伯の子申を戴公に立て、戴公没後にその弟燬を文公に立てたのであった。
  • 文公は即位当初、賦役を軽くし刑罰を公平にし、自ら労苦して百姓と苦楽を共にし民心を集めた。十六年、晉の公子重耳が通過した際に無礼を働いた。十七年、齊桓公が没した。二十五年、文公が没し子の成公鄭が立った。

成公

  • 成公三年、晉が宋を救うため衛に道を借りようとしたが成公は許さず、晉は南河から渡って宋を救った。晉は衛に援軍を求めたが衛の大夫は応じようとし、成公は許さなかった。大夫元咺が成公を攻め、成公は出奔した。晉文公重耳は衛を伐ちその地を宋に分与し、かつての無礼と宋を救わなかった罪を責めた。
  • 成公は陳に出奔し、二年後に周を頼って復帰を求め晉文公と会見した。晉は使者に成公を毒殺させようとしたが、成公が周の主鴆役に働きかけて毒の量を薄くさせ死を免れた。周のとりなしにより成公は衛に復帰し元咺を誅したが、別に立っていた衛君瑕は出奔した。
  • 七年、晉文公が没した。十二年、成公は晉襄公に朝見した。十四年、秦穆公が没した。二十六年、齊の邴歜が懿公を弑した。三十五年、成公が没し子の穆公遬が立った。

穆公・定公・獻公

  • 穆公二年、楚莊王が陳を伐ち夏徵舒を殺した。三年、楚莊王が鄭を囲み鄭が降ると釈放した。十一年、孫良夫は魯を救い齊を伐ち侵地を取り戻した。穆公が没すると子の定公臧が立ち、十二年で没して子の獻公衎が立った。
  • 獻公十三年、公は師曹に宮妾へ琴を教えさせたが妾の出来が悪く師曹が鞭打つと、妾はこれを恨んで公に讒言し、公も師曹を三百回鞭打った。十八年、獻公は孫文子・甯惠子を招いて食事をする約束をしたが日が暮れても呼ばず、囿で鴻を射ていた。二人が従うと公は射服のまま話をせず、二人は怒って宿に帰った。
  • 孫文子の子は公に侍していた師曹に《巧言》の終章を歌わせ、鞭打たれた恨みから孫文子を怒らせて獻公に報復させようとした。文子が蘧伯玉に相談すると伯玉は「知らない」と答えるのみであった。ついに文子らは獻公を攻め出し、獻公は齊に出奔し聚邑に置かれた。孫文子・甯惠子は定公の弟秋を衛君に立てた。これが殤公である。

殤公・獻公復位

  • 殤公秋は孫文子林父を宿に封じた。十二年、甯喜は林父と寵を争って不和になり、殤公は甯喜に林父を攻めさせた。林父は晉に出奔し、旧君獻公の復帰を求めた。獻公は齊にあり、齊景公がこれを聞いて共に晉へ入国を求めた。晉は衛を伐ちこれと盟を結ばせ、殤公が晉平公と会見した際、平公は殤公と甯喜を捕らえ獻公を復位させた。獻公は亡命十二年にして帰国した。
  • 獻公後元年、甯喜を誅殺した。三年、呉の延陵季子が衛を通過し蘧伯玉・史鰌に会って「衛には君子が多く、国は無事であろう」と評した。宿を過ぎたとき孫林父が磬を打ち鳴らすのを聞いて「楽しからず、音が悲しすぎる、衛の乱れはこの辺りにあろう」と評した。同年、獻公が没し子の襄公惡が立った。

襄公・靈公

  • 襄公六年、楚靈王が諸侯を会したが、襄公は病と称して赴かなかった。九年、襄公が没した。かつて襄公の賤妾が身ごもった際、夢に「我は康叔なり、汝の子は必ず衛を保つゆえ名を『元』とせよ」と告げられ、孔成子に問うと「康叔は衛の始祖である」と答えた。生まれた子は男子であったため、襄公は「天の定めである」として元と名付けた。襄公夫人に子がなかったため元を後継に立てた。これが靈公である。
  • 靈公五年、晉の昭公に朝見した。六年、楚の公子棄疾が靈王を弑して自立し平王となった。十一年、火災があった。三十八年、孔子が衛に来て魯と同等の禄を受けたが、後に不和が生じ孔子は去った。後に再び来た。

靈公・蒯聵の変

  • 三十九年、太子蒯聵と靈公夫人南子との間に確執が生じ、蒯聵は南子を殺そうと謀った。従者の戲陽遬に朝見の場での暗殺を命じたが戲陽は後悔し実行しなかった。蒯聵の目配せに気づいた夫人は恐れて「太子が私を殺そうとしている」と訴え、靈公は怒って太子を追放し、蒯聵は宋、さらに晉の趙氏へと逃れた。
  • 四十二年春、靈公が郊外で遊んだ際、少子の郢(字は子南)に御をさせ、「そなたを後継に立てよう」と告げたが郢は「私は社稷を汚す器ではない、君は改めてお考えを」と辞退した。夏、靈公が没し、夫人は郢を太子にと遺命したが、郢は「亡命した太子蒯聵の子輒がいる」として固辞し、結局輒が衛君に立てられた。これが出公である。
  • 六月乙酉、趙簡子は蒯聵を国に入れようと、陽虎に命じ喪服を装わせて衛の十余人を帰国させ、みずから蒯聵を送り込んだ。衛人はこれを知って兵を発し蒯聵を防ぎ、蒯聵は入国できず宿にとどまって自守し、双方兵を収めた。
  • 出公輒四年、齊の田乞が孺子を弑した。八年、齊の鮑子が悼公を弑した。この頃孔子は陳から衛に入った。九年、孔文子が仲尼に軍事を問うたが仲尼は答えなかった。その後魯が仲尼を迎え、仲尼は魯に帰った。

孔悝の変・莊公蒯聵

  • 十二年、孔圉文子が太子蒯聵の姉を娶り悝を生んだ。孔氏の家臣渾良夫は美男で、孔文子の没後、悝の母と密通した。太子は宿にあり、悝の母は良夫を太子のもとに遣わした。太子は「もし我が国に入れれば軒車を与え三度の死罪を免じよう」と良夫に誓約し、悝の母を妻とすることを許した。
  • 良夫は太子とともに孔氏の外圃に潜み、夜、変装して孔氏に入った。悝母は戈を執って先導し、太子は武装した五人を従えて豚を担がせた。悝を厠で脅して盟わせ台に連れ上った。孔氏の家老欒甯は変事を知り仲由(子路)に告げた。護は車で出公輒を魯へ逃した。
  • 子路は入ろうとして子羔と出会い「門はもう閉じられた」と言われても「行くところまで行く」と入城し、孔悝を救おうとして太子の従者に戈で冠の紐を切られたが「君子は死しても冠を脱がぬ」と紐を結び直して死んだ。孔子は衛の乱を聞き「柴(子羔)は帰るだろうが、由(子路)は死ぬだろう」と語った。孔悝はついに太子蒯聵を立てた。これが莊公である。
  • 莊公蒯聵は出公の父で、長く国外にいたことを恨み、即位すると大臣をことごとく誅そうとしたが群臣が乱を起こしかけたため思いとどまった。二年、魯の孔丘(孔子)が没した。三年、莊公が城に上り戎州の民を見て「戎の虜がなぜここにいるのか」と侮辱したため戎州は恨みを抱いた。戎州は趙簡子に訴え、簡子が衛を包囲した。十一月、莊公は出奔し衛人は公子斑師を君に立てたが、齊が衛を伐ち斑師を虜にし、公子起を立てた。

悼公以降~滅亡

  • 衛君起の元年、衛の石曼尃がその君起を追放し、起は齊に出奔した。衛の出公輒が齊から復帰した。出公は当初十二年で亡命し、亡命四年で再入国、復帰後元年に亡命に従った者に恩賞を与えた。在位二十一年で没し、出公の季父黔が出公の子を攻め自立した。これが悼公である。
  • 悼公は五年で没し子の敬公弗が立ち、十九年で没して子の昭公糾が立った。この頃には三晉(韓・趙・魏)が強大となり、衛は小侯としてこれに従属していた。
  • 昭公六年、公子亹が昭公を弑して代立した。これが懷公である。懷公十一年、公子穨が懷公を弑して代立した。これが慎公である(慎公の父は公子適、適の父は敬公)。慎公は四十二年で没し子の聲公訓が立ち、聲公は十一年で没し子の成侯遫が立った。
  • 成侯十一年、公孫鞅が秦に入った。十六年、衛は号を貶して侯と称した。二十九年、成侯が没し子の平侯が立った。平侯は八年で没し子の嗣君が立った。嗣君五年、号をさらに貶して君と称し、濮陽の一邑のみを保った。
  • 四十二年に嗣君が没すると子の懷君が立った。懷君三十一年、魏に朝見した際、魏に囚われ殺された。魏は嗣君の弟を立てた。これが元君である(元君は魏の婿であったため魏が立てた)。元君十四年、秦が魏の東地を取り東郡を設置し、衛は野王県に移されて濮陽は東郡に併合された。二十五年、元君が没し子の君角が立った。
  • 君角九年、秦が天下を統一し始皇帝となった。二十一年、二世皇帝は君角を廃して庶人とし、衛の祭祀は絶えた。

史論

  • 太史公は言う。世家の記事を読み、宣公の太子が讒言によって殺され、弟の壽が兄に代わって死のうと争い譲り合ったくだりに至ると、これは晉の太子申生が驪姬の過ちを明らかにせず自ら死んだ話と同様であり、いずれも父の心を傷つけることを嫌ったためである。それでも結局死に至ったのはなんと悲しいことか。父子・兄弟が互いに殺し合うこともまた、いったい何ゆえであろうか。