史記卷三十六 陳𣏌世家第六 陳胡公滿
陳は虞の帝舜の後裔である陳胡公滿(媯滿)が周の武王により陳に封じられ帝舜の祭祀を継いだのに始まる。その子孫は春秋期に幾度も内紛・弑逆を経て存続し、一時は楚の莊王に併合されたが成公の代に復興、その後も楚との従属関係を繰り返しながら存続し、最終的に楚の惠王により滅ぼされた。
年表(9件)
- 厲公7年桓公の太子免の弟らが厲公を殺害し、躍(利公)を立てる
- 宣公21年寵愛する側室の子を立てるため太子禦寇を殺害し、太子と親しかった陳完は斉へ亡命する
- 靈公15年靈公が夏徵舒に嘲弄され、酔って出た隙に徵舒に射殺される
- 成公元年楚の莊王が徵舒を討伐して陳を一時併合するが、申叔時の諫言により旧に復す
- 哀公34年弟の司徒招が太子師を殺し留を立てたため哀公は包囲され自害し、楚が陳を滅ぼす
- (楚が陳を滅ぼしてから)5年楚の平王が悼太子師の子吳を陳侯に立てて陳を復興する。これが惠公
- 惠公28年呉王闔閭が楚を破り郢に入る。この年惠公が没し子の懷公が立つ
- 懷公4年呉に召された懷公は留め置かれ、呉で客死する
- 湣公24年楚の惠王が陳を伐ち湣公を殺して滅ぼす
陳の出自
- 陳の胡公滿は虞の帝舜の後裔。かつて舜が庶人であった頃、堯は2人の娘を娶らせ媯汭に住まわせ、その子孫は媯氏を名乗るようになった。舜の没後、禹が天下を継ぐと舜の子商均が封国を得たが、夏の時代には存続と断絶を繰り返した。周の武王が殷紂に克つと改めて舜の後裔を求め、媯滿を見出して陳に封じ帝舜の祭祀を続けさせた。これが胡公である。
胡公から桓公まで
- 胡公の没後、子の申公犀侯が立つ。申公の没後は弟の相公皋羊が立ち、相公の没後は申公の子の突(孝公)が立った。孝公の没後は子の慎公圉戎が立った。慎公は周の厲王の時代にあたる。慎公の没後は子の幽公寧が立った。
- 幽公12年、周の厲王が彘に出奔した。23年、幽公が没し子の釐公孝が立つ。釐公6年、周の宣王が即位。36年、釐公が没し子の武公靈が立つ。武公は15年で没し子の夷公說が立った。この年、周の幽王が即位。夷公は3年で没し弟の平公燮が立った。平公7年、周の幽王が犬戎に殺され周は東遷した。秦がこの時初めて諸侯に列した。23年、平公が没し子の文公圉が立った。
- 文公元年、蔡の女性を娶り子の佗をもうけた。10年、文公が没し長子の桓公鮑が立った。
桓公の没後の内紛と厲公
- 桓公23年、魯の隱公が即位。26年、衛が君州吁を殺す。33年、魯が君隱公を弒す。38年正月甲戌己丑、桓公鮑が没した。桓公の弟佗は、母が蔡の女性であったため蔡人が五父と桓公の太子免を殺して佗を立てた。これが厲公。桓公の病中から国内に混乱が起き人々が分散していたため、桓公の死は二度にわたり報じられた。
厲公から宣公まで
- 厲公2年、子の敬仲完が生まれた。周の太史が陳を訪れ、厲公が『周易』で占わせたところ「觀」の卦が「否」に変ずる卦が出た。「これは国の光を観る、王の賓客として用いられるにふさわしいとの意。この子孫は陳に代わって国を得るのではないか、それが此の地でなければ他国であろう。もし異国であれば姜姓の国のはず(姜姓は太嶽の後裔)。物事は両者ともに大きくはなれない、陳が衰えればこの子孫が栄えるのではないか」と占われた。
- 厲公は蔡の女性を娶ったが、その女性は蔡人と密通しており、厲公自身もたびたび蔡へ通い放蕩にふけった。7年、かつて厲公に殺された桓公の太子免の3人の弟(長は躍、中は林、少は杵臼)が、蔡人と共謀して厲公を美女で誘い出し殺害、躍を立てた。これが利公(桓公の子)。利公は5ヶ月で没し、中弟の林(莊公)が立った。莊公は7年で没し末弟の杵臼(宣公)が立った。
宣公と陳完の斉への亡命
- 宣公3年、楚の武王が没し楚は強盛となり始めた。17年、周の惠王が陳の女性を后に迎えた。
- 21年、宣公は寵愛する側室の子款を立てたいと考え、太子禦寇を殺した。禦寇はかねて厲公の子完と親しく、完は禍が及ぶことを恐れ斉に亡命した。斉の桓公は陳完を卿に任じようとしたが、完は「流浪の身にすぎず、罪を免れただけでも君の恩、高位を受けるわけにはいかない」と辞退し、工正に任じられた。斉の懿仲は娘を陳敬仲(完)に嫁がせようとして占うと「鳳凰が舞い、和やかに鳴き交わす。媯氏の後裔がやがて姜氏のもとで育つ。5代の後に栄え、正卿に並ぶ。8代の後にはこれに並ぶ者がないほどになる」と出た。
宣公後半と穆公・共公
- 37年、斉の桓公が蔡を伐って破り、南に楚を侵して召陵まで至り、帰路に陳を通過した。陳の大夫轅濤塗はこの通過を嫌い、東の道へ誘導しようと欺いたが露見し、桓公は怒って轅濤塗を捕らえた。この年、晋の獻公が太子申生を殺した。
- 45年、宣公が没し子の款(穆公)が立つ。穆公5年、斉の桓公が没す。16年、晋の文公が城濮で楚軍を破る。この年、穆公が没し子の共公朔が立った。共公6年、楚の太子商臣が父の成王を弒して代わり立ち穆王となった。11年、秦の穆公が没す。18年、共公が没し子の靈公平國が立った。
靈公の淫行と夏徵舒の弑逆
- 靈公元年、楚の莊王が即位。6年、楚が陳を伐つ。10年、陳は楚と講和した。
- 14年、靈公とその大夫孔寧・儀行父はいずれも夏姫と通じており、夏姫の下着を身にまとって朝廷でふざけるほどであった。泄冶が「君臣が淫乱では民が何を手本とするのか」と諫めたが、靈公がこれを孔寧・儀行父に告げると2人は泄冶の殺害を求め、靈公は止めず泄冶は殺された。15年、靈公が2人と夏氏の家で酒を飲んだ際、靈公が「徵舒(夏姫の子)はお前に似ている」とからかうと、2人は「あなたにも似ています」と応じた。徵舒はこれを怒り、靈公が酔って出た隙に弩を伏せて廐の門から射殺した。孔寧・儀行父は楚へ亡命、靈公の太子午は晋へ亡命した。徵舒は自ら陳侯を名乗った(徵舒はもと陳の大夫、夏姫は御叔の妻で徵舒の母)。
楚莊王による陳の一時併合と成公の復位
- 成公元年冬、楚の莊王は夏徵舒による靈公殺害を討つべく諸侯を率いて陳を伐ち、「驚くな、徵舒を誅するだけだ」と告げた。徵舒を誅すると、そのまま陳を県として楚に編入し、群臣は皆祝賀したが、斉から戻った申叔時だけは祝賀しなかった。莊王が理由を問うと「牛を引いて人の田を通れば、田主が牛を取り上げるという諺があります。通行の罪はあっても牛を取り上げるのは行き過ぎではないでしょうか。王は徵舒を弑逆の賊として諸侯の兵を集め義によって討伐しながら、その地を奪い取って利とすれば、後々天下に号令できなくなります。それゆえ祝賀しないのです」と答えた。莊王は「もっともだ」として晋にいた靈公の太子午を迎えて立て、陳を旧に復させた。これが成公。孔子は史書を読んで楚が陳を復興させたことを知り「賢いことよ、楚の莊王は。千乗の国を軽んじてでも一言の信義を重んじた」と評した。
成公から哀公まで
- 8年、楚の莊王が没す。29年、陳が楚との盟を裏切る。30年、楚の共王が陳を伐ったが、この年に成公が没したため楚は喪を理由に兵を引いた。子の哀公弱が立った。
- 哀公3年、楚が陳を包囲したが解いた。28年、楚の公子圍が君郟敖を弒して自立し靈王となった。
哀公の自害と陳の滅亡
- 34年、かつて哀公は鄭の女性を娶り、長姫が太子師(悼太子)を、少姫が偃を生んだ。2人の側室のうち長妾が留を、少妾が勝を生んだ。留が哀公に寵愛され、哀公はこれを弟の司徒招に託した。哀公が病に倒れた3ヶ月の間に、招は悼太子を殺し留を太子に立てた。哀公は怒って招を誅そうとしたが、招は逆に兵を発して哀公を包囲、哀公は自ら首をくくって死んだ。招はついに留を陳君に立てた。4月、陳は楚に赴を告げた。楚の靈王は陳の内乱を聞き、赴の使者を殺して公子棄疾に陳討伐の兵を発させ、陳君留は鄭へ亡命した。9月、楚が陳を包囲し、11月に滅ぼして棄疾を陳公とした。
- 招が悼太子を殺した際、太子の子の吳は晋へ亡命した。晋の平公が太史趙に「陳はついに滅びるのか」と問うと、「陳は顓頊の族。田氏(陳氏)が斉で政を得てはじめて陳は滅びるでしょう。幕から瞽瞍に至るまで違命なく、舜がこれに明徳を加えました。遂の代まで代々これを守り、胡公に至って周から姓を賜り帝舜を祀りました。盛徳は久しく祀られるはず、虞の代はまだ終わっていない、それは斉に現れるのではないでしょうか」と答えた。
惠公の再興から陳の完全消滅まで
- 楚の靈王が陳を滅ぼして5年後、楚の公子棄疾が靈王を弒して代わり立ち平王となった。平王は即位当初、諸侯の心を得ようと、かつての陳の悼太子師の子吳を求めて陳侯に立てた。これが惠公。惠公は即位に際し、哀公が没した年に遡って元年としたため、5年分の空白期間ができた。
- 10年、陳で火災。15年、呉王僚が公子光に陳を伐たせ胡・沈を取って去った。28年、呉王闔閭と伍子胥が楚を破り郢に入った。この年、惠公が没し子の懷公柳が立った。
- 懷公元年、呉が楚を破り郢にあった際、陳侯を召したが、大夫が「呉は勝利に酔っている、楚王は逃亡したとはいえ陳とは旧誼がある、裏切ってはならない」と諫め、懷公は病と称して呉に応じなかった。4年、呉が再び懷公を召し、懷公は恐れて呉へ赴いたが、呉は以前応じなかったことを怒り懷公を留め置き、懷公はそのまま呉で客死した。陳は懷公の子越(湣公)を立てた。
- 湣公6年、孔子が陳を訪れる。呉王夫差が陳を伐ち3邑を取って去った。13年、呉が再び陳を伐ち、陳は楚に急を告げ、楚の昭王が来援して城父に軍を置いたため呉軍は退いた。この年、楚の昭王は城父で没した。孔子はこの頃陳にいた。15年、宋が曹を滅ぼす。16年、呉王夫差が斉を伐ち艾陵で破り陳侯を召した。陳侯は恐れて呉へ赴いた。楚が陳を伐つ。21年、斉の田常が君簡公を弒す。23年、楚の白公勝が令尹子西・子綦を殺し惠王を襲ったが、葉公がこれを破り白公は自殺した。
- 24年、楚の惠王が国を回復すると北に兵を進め、陳の湣公を殺して陳を滅ぼし領有した。この年、孔子が没した。
𣏌の起源と東樓公
- 東樓公は夏后禹の後裔。殷の時代には封じられたり絶えたりを繰り返した。周の武王が殷紂に克つと禹の後裔を求め、東樓公を得て𣏌に封じ夏后氏の祭祀を続けさせた。
𣏌の歴代
- 東樓公の子は西樓公、その子は題公、その子は謀娶公。謀娶公は周の厲王の時代にあたる。謀娶公の子は武公。武公は47年で没し子の靖公が立つ。靖公は23年で没し子の共公が立つ。共公は8年で没し子の德公が立つ。德公は18年で没し弟の桓公姑容が立つ。桓公は17年で没し子の孝公匄が立つ。孝公は17年で没し弟の文公益姑が立つ。文公は14年で没し弟の平公鬱が立つ。平公は18年で没し子の悼公成が立つ。悼公は12年で没し子の隱公乞が立つ。7月、隱公の弟遂が隱公を弒して自立、釐公となった。釐公は19年で没し子の湣公維が立った。湣公15年、楚の惠王が陳を滅ぼした。16年、湣公の弟閼路が湣公を弒して代わり立った。これが哀公。哀公は10年で没し湣公の子敕が立った。これが出公。出公は12年で没し子の簡公春が立った。即位1年、楚の惠王44年、楚が𣏌を滅ぼした。陳の滅亡から34年後のことであった。
𣏌についての付記
- 𣏌は小国で特筆すべき事績に乏しい。
唐虞以来の名臣・古国の後裔一覧
- 舜の後裔は周の武王によって陳に封じられ、楚の惠王に滅ぼされた。これは世家に記される。禹の後裔は周の武王によって𣏌に封じられ、楚の惠王に滅ぼされた。これも世家に記される。契の後裔は殷となり、本紀に記される。殷が破れると周がその後裔を宋に封じ、斉の湣王に滅ぼされた。これも世家に記される。后稷の後裔は周となり、秦の昭王に滅ぼされた。これは本紀に記される。皋陶の後裔は英・六に封じられたが楚の穆王に滅ぼされ、系譜は伝わらない。伯夷の後裔は周の武王により再び斉に封じられ太公望と呼ばれたが、陳氏(田氏)に滅ぼされた。これも世家に記される。伯翳の後裔は周の平王の時に秦として封じられ、項羽に滅ぼされた。これは本紀に記される。垂・益・夔・龍の後裔は封じられた地が伝わらず、記録に見えない。以上の11人はいずれも唐虞の時代に功徳のあった名臣で、その5人の後裔は帝王に至り、残りも諸侯として栄えた。滕・薛・騶は夏・殷・周の間に封じられた小国で、取るに足りないため論じない。
- 周の武王の時代、諸侯・伯は千余りを数えたが、幽王・厲王の後は諸侯が力によって互いに併呑し合い、江・黄・胡・沈の類は数え切れぬほど滅んだため、伝には採らなかった。
史論
- 太史公は言う。舜の徳はまことに至上のものであった。夏に位を禅ってなお、その後世は3代にわたり祭祀を保ち続けた。楚が陳を滅ぼした後も、田常が斉で権力を得てついに国を建て、百代にわたり絶えることなく子孫は繁栄し、領地を持つ者が絶えることがなかった。一方、禹の後裔は周代には𣏌となったが甚だ微弱で数えるに足りない。楚の惠王が𣏌を滅ぼした後、越王句踐が興った。