史記卷三十五 管蔡世家第五 管叔鮮・蔡叔度

管叔鮮・蔡叔度は周の文王の子で武王の弟。武王没後、成王期に武庚を擁して反乱を起こし、周公旦に討たれた。蔡叔度の子蔡仲は徳行により蔡を再興し、以後代を重ねたが春秋期に楚にたびたび翻弄され、戦国初期に楚の惠王に滅ぼされた。同じく武王の弟である曹叔振鐸は曹に封じられ、以後代を重ねたが兄弟間の弑逆による簒奪を経て、晋・宋など周辺国と抗争を繰り返し、戦国初期に宋により滅ぼされた。

年表(18件)
  • 哀侯11年蔡、陳出身の夫人を巡る息侯との確執から、楚の文王に捕らえられ連行される
  • 繆侯18年蔡姫の一件で怒った斉の桓公が蔡を伐ち、繆侯は捕虜となるが後に釈放される
  • 靈侯12年父弑逆の罪を口実に楚の靈王が靈侯を殺し、蔡を滅ぼす
  • (楚が蔡を滅ぼしてから)3年楚の平王が即位して蔡を復興し、景侯の末子廬を平侯に立てる
  • 平侯9年没後、靈侯般の孫東國が平侯の子を攻めて自立し悼侯となる
  • 昭侯13年呉王闔閭と共に楚を破り郢に入る
  • 昭侯28年再遷都を恐れた大夫が昭侯を殺し、子の成侯が立つ
  • 侯齊4年楚の惠王が蔡を滅ぼし、蔡侯齊は亡命して祭祀が絶える
  • 幽伯9年曹、弟の蘇が幽伯を殺して自立し、戴伯となる
  • 惠伯36年没後、子の石甫が立つが弟の武がこれを殺して自立し、繆公となる
  • 共公16年亡命中の晋の公子重耳の異相を覗き見しようとし、無礼を働く
  • 共公21年晋の文公重耳が曹を伐ち、共公を捕らえて連行する
  • 成公3年晋の厲公が曹を伐ち成公を捕らえるが、後に釈放する
  • 悼公9年宋に朝見した際に宋に捕らえられ、曹は弟の野(聲公)を立てる
  • 聲公5年平公の弟通が聲公を弑して自立し、隱公となる
  • 隱公4年聲公の弟露が隱公を弑して自立し、靖公となる
  • 伯陽14年公孫彊の説得で晋から離れ宋に背くが、晋は救援しなかった
  • 伯陽15年宋が曹を滅ぼし伯陽と公孫彊を捕らえて殺し、曹の祭祀が絶える

管叔・蔡叔の出自

  • 管叔鮮・蔡叔度は周の文王の子で武王の弟。武王の同母兄弟は10人おり、母は文王の正妃太姒。長子が伯邑考、次が武王発、次が管叔鮮、次が周公旦、次が蔡叔度、次が曹叔振鐸、次が成叔武、次が霍叔處、次が康叔封、末子が冉季載であった。同母兄弟のうち発(武王)と旦(周公)だけが賢く文王を左右で輔けたため、文王は伯邑考を措いて発を太子とした。文王の崩御時にはすでに伯邑考は没しており、発が立って武王となった。

兄弟への分封

  • 武王は殷の紂を滅ぼし天下を平定すると功臣・兄弟を封じた。叔鮮を管に、叔度を蔡に封じ、この2人に紂の子武庚祿父を補佐させ殷の遺民を治めさせた。叔旦(周公)は魯に封じられたが周にとどまり周公となった。叔振鐸は曹に、叔武は成に、叔處は霍に封じられた。康叔封と冉季載はまだ幼く、この時は封じられなかった。

管叔・蔡叔の反乱と誅罰

  • 武王の没後、成王が幼く周公旦が王室を専断すると、管叔・蔡叔は周公が成王に不利を図っていると疑い、武庚を擁して反乱を起こした。周公旦は成王の命を奉じて武庚を討伐し、管叔を誅し、蔡叔を追放し車10乗・従者70人をつけて遷した。殷の遺民は二分され、微子啟を宋に封じ殷の祭祀を続けさせ、康叔を衛君(衛康叔)とした。季載は冉に封じられた。冉季・康叔はいずれも善行が篤く、周公は康叔を周の司寇に、冉季を周の司空に任じ成王を補佐させ、共に天下に令名を得た。

蔡仲による蔡の再興

  • 蔡叔度は遷された後に没した。その子の胡は行いを改め徳を修めたため、周公はこれを聞いて魯の卿士に任じ、魯国はよく治まった。周公は成王に奏上して胡を改めて蔡に封じ蔡叔の祭祀を継がせた。これが蔡仲。他の5人の叔父はいずれも封国に赴くのみで天子の吏となった者はいなかった。

蔡の歴代(蔡仲から釐侯まで)

  • 蔡仲の没後、子の蔡伯荒が立った。以後、宮侯、厲侯、武侯と続いた。武侯の時代、周の厲王が国を失い彘に出奔し共和が政を行い、諸侯の多くが周に背いた。
  • 武侯の没後、子の夷侯が立つ。夷侯11年、周の宣王が即位。28年、夷侯が没し子の釐侯所事が立った。

釐侯から哀侯の被虜まで

  • 釐侯39年、周の幽王が犬戎に殺され周室は東遷して衰えた。秦がこの時初めて諸侯に列した。
  • 48年、釐侯が没し子の共侯興が立つ。共侯は2年で没し子の戴侯が立つ。戴侯は10年で没し子の宣侯措父が立った。
  • 宣侯28年、魯の隱公が即位。35年、宣侯が没し子の桓侯封人が立つ。桓侯3年、魯が君隱公を弒す。20年、桓侯が没し弟の哀侯獻舞が立った。
  • 哀侯11年、かねて哀侯は陳の女性を娶り、息侯も同じく陳の女性を娶っていた。息夫人が里帰りの途上で蔡を通過した際、蔡侯が無礼を働いたため息侯は怒り、楚の文王に「蔡を攻めてほしい、私が蔡に救援を求めれば蔡は必ず来る、そこを楚が討てば功を得られる」と持ちかけた。楚の文王はこれに従い蔡の哀侯を捕らえて連れ帰った。哀侯は9年間楚に留められ、そこで没した。在位20年であった。蔡人はその子の肸を立てた。これが繆侯。

繆侯から莊侯まで

  • 繆侯は妹を斉の桓公の夫人とした。18年、桓公が蔡姫と船遊びをした際、蔡姫が舟を揺らし桓公が止めても止めなかったため、桓公は怒って蔡姫を実家に帰したが離縁はしなかった。蔡侯は怒って妹を再嫁させ、これに怒った桓公が蔡を伐ち、蔡は潰走、繆侯は捕らえられ楚の邵陵まで連行された。諸侯が蔡のために斉に取りなし、斉侯は繆侯を釈放した。29年、繆侯が没し子の莊侯甲午が立った。
  • 莊侯3年、斉の桓公が没す。14年、晋の文公が城濮で楚を破る。20年、楚の太子商臣が父の成王を弒して代わり立った。25年、秦の穆公が没す。33年、楚の莊王が即位。34年、莊侯が没し子の文侯申が立った。

文侯から靈侯まで

  • 文侯14年、楚の莊王が陳を伐ち夏徵舒を殺した。15年、楚が鄭を包囲、鄭は降伏し楚はこれを赦した。20年、文侯が没し子の景侯固が立った。
  • 景侯元年、楚の莊王が没す。49年、景侯は太子般のために楚から妻を迎えたが景侯自身がこれと通じたため、太子は景侯を弒して自立した。これが靈侯。
  • 靈侯2年、楚の公子圍が君郟敖を弒して自立し靈王となった。9年、陳の司徒招が君哀公を弒し、楚は公子棄疾に陳を滅ぼさせ領有した。12年、楚の靈王は靈侯が父を弒した罪を口実に、靈侯を申に誘い出し酒に酔わせて殺し、随行の士卒70人も処刑した。公子棄疾に蔡を包囲させ、11月に蔡を滅ぼし棄疾を蔡公とした。

蔡の復興と滅亡

  • 楚が蔡を滅ぼして3年、楚の公子棄疾が君靈王を弒して自立し平王となった。平王は蔡の景侯の末子廬を求めて立てた。これが平侯。この年、楚は陳も復興させた。楚の平王は即位当初、諸侯との親交を望み陳・蔡を再興させたのである。
  • 平侯は9年で没し、靈侯般の孫東國が平侯の子を攻めて自立した。これが悼侯。悼侯の父は隱太子友で、靈侯の太子であったが平侯の即位時に殺されており、平侯の没後にその子東國が代わって立ったのである。悼侯は3年で没し弟の昭侯申が立った。
  • 昭侯10年、楚の昭王に朝見し美しい皮衣2着を持参、1着を昭王に献じもう1着を自ら着た。楚の宰相子常がこれを欲しがったが昭侯は与えなかった。子常は蔡侯を讒言し楚に3年間留め置いた。昭侯はこれを知り皮衣を子常に献じると、子常は受け取って帰国を許した。昭侯は帰国後に晋へ赴き楚討伐を求めた。
  • 13年春、衛の靈公と邵陵で会盟。蔡侯は周の萇弘に頼み衛より上位に立とうとしたが、衛が史鰌に康叔の功徳を説かせたため、結局衛が上位となった。夏、晋のために沈を滅ぼしたことに楚が怒り蔡を攻めた。蔡の昭侯は子を人質として呉に送り共に楚を討つことを約した。冬、呉王闔閭と共に楚を破り郢に入った。蔡は子常を怨んでいたが子常は恐れて鄭へ亡命した。14年、呉が去り楚の昭王が国を復した。16年、楚の令尹が民のために泣きながら蔡討伐を謀り、蔡の昭侯は恐れた。26年、孔子が蔡を訪れる。楚の昭王が蔡を伐ち、蔡は恐れて呉に急を告げた。呉は蔡が遠いことから近くへの遷都を提案し、昭侯は大夫に諮らず私かに承諾、呉人が来援し蔡を州來に遷した。28年、昭侯が呉に朝見しようとした際、再び遷都させられることを恐れた大夫が賊利に昭侯を殺させ、その後賊利を誅して過ちを取り繕い、昭侯の子朔を立てた。これが成侯。

成侯以降、蔡の滅亡

  • 成侯4年、宋が曹を滅ぼす。10年、斉の田常が君簡公を弒す。13年、楚が陳を滅ぼす。19年、成侯が没し子の聲侯產が立った。聲侯は15年で没し子の元侯が立つ。元侯は6年で没し子の侯齊が立った。
  • 侯齊4年、楚の惠王が蔡を滅ぼし、蔡侯齊は亡命、蔡の祭祀はここに絶えた。陳の滅亡から33年後のことであった。

武王の兄弟のその後

  • 伯邑考の子孫がどこに封じられたかは伝わっていない。武王発の子孫は周となり、本紀に記される。管叔鮮は乱を起こして誅死し、後継はなかった。周公旦の子孫は魯となり、世家に記される。蔡叔度の子孫は蔡となり、世家に記される。曹叔振鐸の子孫は曹となり、世家に記される。成叔武の子孫はその後の消息が伝わらない。霍叔處の子孫は晋の獻公の時代に霍が滅ぼされた。康叔封の子孫は衛となり、世家に記される。冉季載の子孫はその後の消息が伝わらない。

史論(管蔡)

  • 太史公は言う。管叔・蔡叔の乱には特筆すべき功績はない。しかし周の武王が崩じ成王が幼く天下が疑いを抱いた時、同母の弟である成叔・冉季ら十人が輔弼したからこそ諸侯はついに周を宗主として仰いだ。それゆえこれを世家に付記するのである。

曹の起源と歴代(振鐸から惠伯まで)

  • 曹叔振鐸は周の武王の弟。武王が紂を滅ぼした後、叔振鐸を曹に封じた。
  • 叔振鐸の没後、子の太伯脾が立つ。以後、仲君平、宮伯侯、孝伯雲、夷伯喜と代を重ねた。
  • 夷伯23年、周の厲王が彘に出奔した。30年、夷伯が没し弟の幽伯彊が立った。幽伯9年、弟の蘇が幽伯を殺して自立、戴伯となった。戴伯元年は周の宣王即位から3年目にあたる。30年、戴伯が没し子の惠伯兕が立った。
  • 惠伯25年、周の幽王が犬戎に殺され周は東に遷りますます衰え諸侯が背いた。秦がこの時初めて諸侯に列した。

惠伯から莊公・釐公・共公まで

  • 36年、惠伯が没し子の石甫が立ったが、その弟の武がこれを殺して自立、繆公となった。繆公は3年で没し子の桓公終生が立った。
  • 桓公35年、魯の隱公が即位。45年、魯が君隱公を弒す。46年、宋の華父督が君殤公と孔父を弒す。55年、桓公が没し子の莊公夕姑が立った。
  • 莊公23年、斉の桓公が覇を始めた。31年、莊公が没し子の釐公夷が立つ。釐公は9年で没し子の昭公班が立つ。昭公6年、斉の桓公が蔡を破り楚の召陵まで至った。9年、昭公が没し子の共公襄が立った。

共公と晋文公の亡命

  • 共公16年、かつて晋の公子重耳が亡命中に曹を通過した際、曹君が無礼にも重耳の駢脅(あばら骨が一枚に連なる異相)を覗き見しようとした。釐負羈が諫めたが聞かれず、釐負羈は密かに重耳と親交を結んだ。21年、晋の文公重耳が曹を伐ち共公を捕らえて連れ帰ったが、釐負羈の一族の住む地域には軍を入れぬよう命じた。ある者が晋の文公に「かつて斉の桓公は諸侯を会した際に異姓の絶えた国を復興させた、それなのに君は同姓の曹君を囚え国を滅ぼそうとしている、これでは諸侯に示しがつかない」と説いたため、晋はやがて共公を帰国させた。

共公以降、成公・武公まで

  • 25年、晋の文公が没す。35年、共公が没し子の文公壽が立つ。文公は23年で没し子の宣公彊が立つ。宣公は17年で没し弟の成公負芻が立った。
  • 成公3年、晋の厲公が曹を伐ち成公を捕らえて連行したが、後に釈放した。5年、晋の欒書・中行偃が程滑に君厲公を弒させた。23年、成公が没し子の武公勝が立った。武公26年、楚の公子棄疾が君靈王を弒して代わり立った。27年、武公が没し子の平公須が立った。平公は4年で没し子の悼公午が立った。この年、宋・衛・陳・鄭で火災が相次いだ。

悼公から曹の滅亡まで

  • 悼公8年、宋の景公が即位。9年、悼公が宋に朝見した際、宋がこれを囚えた。曹は弟の野を立てた。これが聲公。悼公は宋で客死し曹に葬られた。
  • 聲公5年、平公の弟通が聲公を弒して代わり立った。これが隱公。隱公4年、聲公の弟露が隱公を弒して代わり立った。これが靖公。靖公は4年で没し子の伯陽が立った。
  • 伯陽3年、国人の夢に多くの君子が社宮に立ち曹を滅ぼそうと謀る光景が現れたが、曹叔振鐸がこれを止め「公孫彊の出現を待て」と告げた。翌朝、曹中を捜したがそのような人物は見当たらなかった。夢を見た者はその子に「私が死んだら、公孫彊が政を執ると聞いたら曹を去れ、曹の禍に巻き込まれるな」と戒めた。伯陽が即位すると狩猟を好むようになった。6年、曹の在野の人公孫彊もまた狩猟を好み、白い雁を得て献上し狩猟論を語り、それをきっかけに政事にも口を出すようになった。伯陽はこれを大いに気に入り寵愛し、司城に任じて政を聴かせた。夢を見た者の子はこれを見て国を去った。
  • 公孫彊は覇を唱えるべきと曹伯に説いた。14年、曹伯はこれに従い晋から離れ宋に背いたが、宋の景公がこれを討ち、晋は救援しなかった。15年、宋が曹を滅ぼし曹伯陽と公孫彊を捕らえて連れ帰り殺した。曹の祭祀はここに絶えた。

史論(曹)

  • 太史公は言う。私は曹の共公が僖負羈を用いなかったことを尋ねると、その一方で乗車に値する食客300人を抱えていたと知り、徳を建てることの欠如を思った。振鐸を夢に見た者の一件を思えば、曹の祭祀を絶やすまいとする意思がなかったわけではあるまい。しかし公孫彊が政治を修めなかったために、叔振鐸の祭祀もあっけなく途絶えてしまったのである。