西太后演義第四十回 光緒帝瀛台に崩じ恨み残し、太后崩御し夢終わる (望龍髯瀛台留恨 回鸞馭塵夢告終)

光緒帝の病篤化

大星隕落の後、都で不祥の予兆と噂される中、光緒帝の病状は悪化する一方であった。名医を求めても治療の効なく、秋には喀血・遺精の症状も現れ、もはや回復の見込みがなくなっていた。

ダライ・ラマの入朝

英軍に追われクーロンに逃れていたダライ・ラマが、西蔵情勢の落ち着きを受けて入朝を願い出る。李蓮英は「皇帝と活仏が同城にいるのは不吉」と諫めるが、西太后は取り合わず入朝を許可した。莫大な費用をかけて歓迎し、跪拝の礼をめぐる交渉の末、ダライ・ラマは拝謁し、「誠順賛化西天大善自在仏」の号を賜った。都では歴代、活仏の来京と皇帝・皇后の崩御が重なった前例を挙げる噂が広まった。

七十歳万寿節

万寿節には盛大な祝賀が行われ、宮中で戯を演じダライ・ラマも列席した。光緒帝は病身を押して参内しようとするが、太后の懿旨により免除され輿で戻された。西太后は南苑に舟遊びし、后妃たちと仮装して記念撮影をするなど上機嫌であったが、「来年の今日はどうなっているか」と漏らし物思いに沈む場面もあった。

西太后自身の発病

その夜より西太后も痢疾を患う。当初は気にせず政務を続けたが、数日治らず衰弱していく。光緒帝が自分の病を喜んでいると聞いて激怒する場面もあった。ダライ・ラマが仏像を献上し陵墓に安置するよう勧めると、太后は一時気力を取り戻した。

両陛下の病状悪化

西太后は仏像を陵墓へ送るよう慶王に命じ、直隷提学使傅増湘の陛見にも応じたが、その夜また下痢がひどくなる。翌朝、宮門の警備が厳重になり、両陛下ともに重体との噂が広まる。

後継者決定

慶王奕劻が入宮し、西太后は同治帝の嗣子を立てることを決める。慶王が溥倫や恭王溥偉を推すが、西太后は榮祿の功に報いるとして、載灃の子・溥儀(当時四歳)を嗣子に指名し、載灃を監国摂政王とすることを宣告した。

光緒帝の最期

慶王が瀛台に見舞うと、光緒帝は皇后との不和や、戊戌政変で自分を欺いた人物(袁世凱を指す)への恨みを語り、載灃に「その恨みを晴らすように」と言い残す。載灃が見舞った際も同様の言葉を託し、間もなく光緒帝は崩御した。西太后は遺詔を発し、溥儀を嗣皇帝とし、慶王の進言により穆宗(同治帝)の嗣子としつつ光緒帝の祧も兼ねさせることとした。

西太后の崩御

光緒帝の遺体を宮中に移した直後、西太后自身も昏倒する。意識を取り戻した後、載灃に国政を委ね、皇后にも後事を託した後、再び昏倒し夢の中で亡くなった女性たちと語り合う幻を見る(夢の中で、かつての親しい女性たちが西太后の栄華を羨みつつも「清朝の運命を尽きさせる役目を担った」と告げる)。目覚めた西太后は遺詔の内容を確認し、「婦人に政をさせてはならない、宦官に権を持たせてはならない」と悔いる言葉を残して息を引き取った。遺詔(要約)では、自らの摂政の経緯、内憂外患への対応、預備立憲の推進などを振り返り、幼い嗣皇帝への輔弼を載灃と重臣に託す内容が述べられた。

溥儀の即位

翌日、溥儀が即位し宣統元年と改元。光緒帝には「徳宗」の廟号、西太后には「孝欽」の尊謚、光緒皇后には「隆裕皇太后」の徽号が贈られた。著者は、宣統即位からわずか三年で武昌革命が起き清朝が滅亡したことに触れ、西太后が生きていれば違ったという世評を紹介しつつも、その滅亡の因は西太后自身が作ったものだとする。(詩二首:碑文が必ずしも誇張ではなく、母后の死とともに清朝も滅んだこと、婦人の政への関与が禍をもたらしたことを詠む)

評語

著者は、両陛下の崩御がわずか一日違いであったことに世人の疑念があるとしつつも、著者自身は根拠のない憶測を交えていないと述べる。前半は光緒帝の崩御を悲痛な筆致で、後半は西太后の崩御を諷刺を交えて描き、夢の場面は物語冒頭の趣旨(西太后個人にとどまらぬ寓意)を回顧するものであるとし、本書は歴史小説・政治小説・社会小説・醒世小説として読まれ得ると結ぶ。