西太后演義第三十九回 歌姫を納れ言路に波紋起き、政府が憲法を頒布す (納歌姬言路起風潮 防黨人政府頒憲法)
官制改革の草案
清廷の王大臣らは新官制の草案をまとめ、立法・行政・司法の三権分立の形を採った。議院が未設置のため資政院を暫定の立法機関とし、内閣各部(外務・民政・度支・吏・礼・学・法・陸軍・農工商・郵伝・理藩)を整備、司法は法部と大理院が担うこととした。ただし内閣制度そのものの改革は見送られた。地方官制についても布政・提法・提学の三司を置くなど整備が進められ、東三省から順次実施することとした。あわせて禁煙十か条(阿片の栽培制限や吸引禁止など)も定められたが、西太后自身が阿片を嗜んでいたため実効は乏しかった。
革命党の蜂起と孔子大祀
江西萍郷や湖南瀏陽で革命党の蜂起が起きるが鎮圧された。西太后は民心を鎮めるため孔子を「大祀」に格上げする詔を出したが、著者は孔子の教えが必ずしも君主専制一辺倒ではないと皮肉る。
楊翠喜事件
光緒三十三年、御史趙啓霖が段芝貴(署黒竜江巡撫)を弾劾する事件が起きる。かつて段芝貴は天津で慶王の子・振貝子(載振)を天津の歌妓・楊翠喜の芝居に誘い、載振はその美貌に魅了された。段芝貴は取り入るため楊翠喜を京へ送り、載振の邸に入れた。さらに慶王の誕辰に多額の贈り物をし、その見返りに段芝貴は布政使から署黒竜江巡撫へ昇進した。趙啓霖の弾劾に対し、載灃・孫家鼐が調査に当たったが慶王に配慮し、楊翠喜を「王家の侍女」と偽って趙啓霖を誣告罪で罷免させた。世論の反発を受け、載振は要職を辞退し、二か月後に趙啓霖も復職した。
慶王と瞿鴻璣の暗闘
慶王奕劻は趙啓霖の弾劾の背後に同郷の瞿鴻璣がいると疑い、対立が深まる。岑春煊の罷免をめぐる人事抗争も絡み、曾広銓が新聞に慶王の収賄を暴露すると、慶王は学士惲毓鼎に瞿鴻璣を弾劾させ、瞿鴻璣は開缺・帰郷を命じられた。王文韶も辞職して郷里へ帰った。
徐錫麟・秋瑾事件
安徽で候補道員・徐錫麟が巡撫恩銘を暗殺する事件が起きる。徐錫麟は光復会に属し、陸軍学堂の卒業式で恩銘を狙撃、その後官兵と交戦の末捕らえられ処刑された。西太后の命で心臓を抉り恩銘の霊に供えるという厳罰が科された。連座して女性革命家・秋瑾も捕らえられ、「秋雨秋風愁煞人」の七字を書き残して処刑された。
立憲準備の継続と外交問題
清廷は満漢の区別解消を検討させ、汪大燮・於式枚・達壽を英・独・日へ派遣し憲政を視察させた。溥倫・孫家鼐を資政院総裁に任じ、沈家本らを法律修訂大臣に任じたが、溥倫の若さに世論の不満もあった。浙江では滬杭甬鉄道の外資導入をめぐり紳商が反発し、自弁を求める騒動(争路事件)が起きた。
二辰丸事件と革命党の武装蜂起
広西鎮南関では孫文・黄興らが砲台を一時占拠する事件が起き、官軍が撃退した。さらに広東海域で日本船「二辰丸」が武器を密輸していたのを摘発したが、日本側の強硬な抗議により、清朝は船を釈放し謝罪・賠償せざるを得なかった。黄興は雲南でも蜂起したが武器不足で敗退した。
憲法大綱の公布
清廷は憲政編査館を設け、憲法大綱を編定、九年計画での立憲準備、議院法・選挙法を公布した(詔文を要約:国勢の衰弱を憂い、朝野一致・紀律粛正・官民相勉めることの必要性を説き、憲法・議院選挙の綱要を定め、九年以内に諸準備を完了し、期限が来れば欽定憲法と議院召集の詔を発布するとした)。
大星隕落の異変
七月二十一日、大きな星が西北から現れ殿の角をかすめて消える異変が起き、都下で話題となった。(詩:竜が久しく韜晦していたが天上の星が急に落ち、病重い皇帝の命運も間もなく尽きようとする趣旨)
評語
著者は、本回が親貴の濫用と憲政の空談を主題とすると述べる。慶王奕劻は貪欲で国を興すに足らず、その子載振の女色沙汰を放置しながら実業を任せたことを批判。徐錫麟の「立憲が速いほど革命も速い」という供述を引き、清朝が真に立憲を志すなら人材登用を公正にすべきだったとし、偽りの立憲が真の革命を招いたと結論づける。