西太后演義第三十八回 万寿に徽号を辞退し、五大臣帰国に綸音下る (萬壽屆期力辭徽號 五臣歸國特降綸音)
上海の露艦問題の決着
各国領事の仲裁により露国艦は武装解除され中立国の管理下に置かれ、日本艦も撤退して事態は収束した。一方、遼西では露兵が引き続き活動していたが、日本軍が金州・営口・牛荘・遼陽などを次々と攻略し、南満洲鉄道を破壊して露軍の南下を阻んだため、清朝の王公たちは安堵した。
西藏問題
西蔵でも英軍がダライ・ラマをクーロンへ追い、英蔵条約を強要する事件が起きた。清朝は駐蔵大臣有泰に画押阻止を命じ、侍郎唐紹儀を西蔵へ派遣して事態収拾に当たらせた。西太后は交渉事の多さに心を痛め、仏に祈るばかりであった。
七十歳万寿節と徽号辞退
万寿節を控え、王大臣らは太后への徽号加上を上奏するが、西太后は日露戦争で東三省が戦場となったこと、広西の匪乱、民の疲弊などを挙げ、「民の膏血で一人の逸楽を賄えない」として万寿の典礼を簡素化し徽号加上も辞退する朱諭を発した。それでも慶祝の儀礼は甲申・甲午の年より盛大に行われた。
露国バルチック艦隊の来航と対馬海戦
露国はバルチック艦隊を極東へ回航させたが、日本は誘敵の策を用いて対馬海峡でこれを迎撃し、大勝利を収めた。露国は戦争継続が不可能となった。
ポーツマス講和
米大統領ルーズベルトの仲介でポーツマス会議が開かれ、日本側の十一項目の要求のうち、賠償金・樺太全島割譲・中立国艦艇引渡し・海軍制限の四項を露国が拒否したため、樺太南半分の割譲などで妥協し講和が成立した。東三省から露兵は撤退したが、南満洲は日本、北満洲は露国の勢力圏となり、中国は名目上の版図を保つのみとなった。
立憲論の高まりと五大臣の外遊
西太后は徳菱に、日本が小国ながら露国に勝てたのは国民が一致団結したためだと聞かされるが、深くは受け止めなかった。立憲を求める世論が強まり、清廷は科挙を廃止し、載沢・戴鴻慈・徐世昌・端方・紹英の五大臣を欧米・日本へ派遣し政治視察をさせることにした。世は西太后の刷新を期待したが、実際の太后は阿片を常用し悠々自適の生活を送っていた。
呉樾の爆弾事件と革命党の動き
五大臣が正陽門駅から出発する際、革命党員・呉樾が爆弾を投げ、載沢・紹英が軽傷を負う事件が起きた。犯人は現場で死亡。西太后は康有為(保皇派)に続き革命派の「孫逆」(孫文)の動きに強い警戒を示す。著者は孫文の経歴(興中会結成、亡命、ロンドンでの抑留と救出)や、史堅如・唐才常・鄭弼臣・黄興・蔡元培・章炳麟・鄒容ら各地の革命運動の失敗の経緯を紹介する。
五大臣の再出発と立憲準備
徐世昌・紹英に代わり尚其亨・李盛鐸が加わり、五大臣は改めて出航、日・米・英・独を視察し立憲を五年で実施するよう上奏した。清廷は政務処に立憲事宜を検討させ、考察政治館・巡警部・学部を新設するなど新政を進めた。
五大臣帰国と預備立憲の詔
光緒三十二年、五大臣が帰国し立憲の利を説いた。政務処の議を経て、七月十三日に預備立憲の詔が発せられた(詔文を要約:国勢不振の原因は官民の隔絶にあり、各国の富強は憲法実行と公論重視にあるとし、まず官制改革から着手し、教育・財政・軍備・警察を整えたうえで数年後に立憲の期限を定めるとする内容)。翌日、載沢・世続・那桐・栄慶・載振ら多数を官制編纂に任じ、奕劻・孫家鼐・瞿鴻璣に総司核定させた。
評語
著者は、西太后の万寿節のたびに内外の変事が起きたことに触れ、これを天の戒めと見る。徽号辞退は一時の憤りに過ぎず、日露停戦後は頤和園に戻り安逸を貪ったとし、五大臣の外遊もわずか数か月の視察で西洋政治を理解したとするのは軽率であると批判する。立憲の名の下に官制改革のみを行い人材を替えないのは「湯を換えて薬を換えず」に等しいとし、西太后の生涯の誤りは虚栄・華美・奢侈・驕慢にあり、清朝滅亡の遠因になったと結ぶ。