西太后演義第三十七回 戦域を画し中立の条規を布き、台官の妄語を退ける (划戰域中立布條規 斥台官西巡辟妄語)

ミス・カールの肖像と博覧会送付

ミス・カールの描いた油絵の肖像は西太后によく似ており、太后は満足して重賞を与えた。西太后は普段から写真撮影を好み、后妃や德菱姉妹とも撮影していた。外務部は肖像を博覧会へ送るための儀典を定め、当初輿で運ぶ案を西太后自ら「喪儀のようだ」として退け、外務部員が両手で恭しく捧持し黄色い傘蓋で覆う形式に改めた。皇帝以下が跪いて見送るという、諸外国から見れば奇異な厚遇ぶりであった。

日露関係の緊張

折しも露国と日本の開戦の兆しが伝わる。第三十三回で述べた中露条約により、露国は東三省からの撤兵を約束していたが、実際は撤兵せず逆に兵を増派し、吉林に駐留させ続けた。露国は遠東総督アレクセーエフを派遣し東三省を事実上支配しようとし、清朝の交渉には応じなかった。英・米・日の公使が動き、日本の提案で満洲を各国通商地とする案が出るが露国は曖昧な態度を続け、逆に哥薩克兵を増派して盛京の地名まで露国風に改めるなど強硬姿勢を示した。日本は朝鮮・満洲の権益を巡り露国と交渉するが決裂し、開戦準備に入った。

日露開戦(旅順口攻撃)

光緒二十九年末、露国旅順艦隊の祝宴の最中に日本艦隊が奇襲し、旅順口で交戦となった。数度の海戦で露国艦は損害を受け、日本側も一部損傷したが撤退し、事実上の開戦となった。戦場は中国領内の遼東であったため、清朝は対応に苦慮した。

清朝の局外中立宣言

西太后は慶王らと協議し、万国公法を参照して「局外中立」を宣言、日露両国に通告した。東三省の城池・人命・財産の保護、両軍の互いの不可侵などを定めた。日本側の照会を受け、清廷は奉天将軍と協議し「戦地界限規則」九条を制定、遼東の一定範囲を戦場として指定し、その内外での双方の行動を細かく規定した(本文に全十条を列挙)。

開戦とそれに伴う混乱

華暦大晦日、日露両国は正式に宣戦布告した。遼東の富裕層は避難したが貧民は逃げられず取り残された。西太后は民を思い正月の祝賀を中止させたが、七十歳の万寿節の準備は例により進めさせた。露国は苦魯巴金・馬哈羅夫らを派遣し戦局に当たったが、日本は朝鮮を事実上の保護国とし、鴨緑江を渡って九連城・鳳凰城を占領。旅順沖の海戦でも日本が優勢に立ち、露国提督マカロフは触雷し戦死するなど、露国艦隊は大きな打撃を受けた。

遼西への露兵侵入と西太后の弱音

露兵が遼西の各地に侵入し略奪を行っているとの報が入り、日本公使も抗議してくる。西太后は慶王に露国との交渉を命じるが埒が明かず、思わず「遷都西安を果たせなかったのを悔やむ」と漏らした一言が宮中から漏れ伝わり、西太后再び西巡するとの噂が広まる。各国公使も動揺し外務部に照会するが、外務部は否定。御史汪鳳池が西巡に反対する上疏をしたところ、逆に事実無根として叱責される。清廷は奉天・吉林両将軍に中立厳守を命じた。

上海への露艦出現

さらに上海の黄浦江に露国軍艦が現れ、日本公使が再び外務部に抗議する事態となった。

評語

著者は、日露両国が中国領内で戦い、清朝がなすすべもなく局部中立を守るのみで、自国の遼東・遼民を自ら守れず他国の保護に頼る屈辱を指摘する。日本の勝利を自国の幸いのように喜ぶ浅ましさも批判。西太后が遷都できなかったことを悔やみ、宮中の言が漏れて内外の非難を招いた事実は、西太后が社稷より己が身を重んじていたことの表れであるとする。