西太后演義自序(自序)
清朝一代の女性統治者としては、先に孝荘(太后)、後に孝欽(西太后)がおり、いずれも才色を以て知られたが、孝欽はそれをなお上回った。孝荘は洪承疇を降し多爾袞を巧みに御して幼い順治帝を中原の主に据え、太平の治を開いたのに対し、孝欽も初めは太平天国・捻軍を平定し回民・苗族の乱を鎮め、人材登用にも長けて孝荘を凌ぐかに見えた。しかし後年、讒言を信じ小人を重用したことで数千年来まれな禍乱を招き、清朝を滅亡に至らしめた。これは、婦人は小事は任せられても大事は任せられない、一時の登用はよくても常に権を専らにさせてはならないという教えの通りであり、孝荘は政に関与しても大権を独占しなかったゆえに功を収めたが、孝欽は三度にわたり臨朝し権勢並ぶ者なく、勤勉から安逸へ、安逸から驕りへ、驕りから失敗へと至った。「牝鶏晨(あした)す(女が政を執る)」ことを戒める教えは、やはり違えてはならないものである。
清末には革命の志士たちが次々と現れ、保皇派・革命派双方から筆誅・口誅を受け、孝欽の名声は大いに傷つけられた。世間には『西太后』という小冊子も出回ったが、宮中の醜聞を並べただけの誣蔑の書で価値がなく、すぐに廃れた。清朝滅亡後には『慈禧外紀』『慈禧写照記』等も出回ったが、西洋の文献の受け売りであったり、市井の風説を集めただけで見方が偏っており、断片的な見聞のみで軽々に論断するのは、井の中の蛙のそしりを免れないものであった。
著者は先に『清史通俗演義』を著し、孝欽の生涯についても十のうち四、五は述べたつもりであったが、なお世評には物足りなさが残るとの声があったため、改めて西太后を主題とする続編を編み、演義の体裁で重要な政事を記録し、遺聞を広く採集して全四十回・二十余万字の書とした。その趣旨は女権を戒め、世の惑いを覚まし、人を鑑として勧善懲悪を促すことにある。読者がこの書によってそのことを確かめ、いくらかでも得るところがあれば幸いである。編み終えるにあたり、数語を記して序文とする。
中華民国七年十一月、古越東帆氏識す。