西太后演義康有為、変法を上疏し、光緒帝百日維新を促す(第二十四回 康主事連疏請變法 光緒帝百日促維新)

文廷式の失脚と醇王福晋の死

  • 楊崇伊の弾劾により文廷式は革職・永久不叙用となり、故郷へ追放された。守旧派は快哉を叫んだ。
  • 光緒帝は不満を抱えたまま西太后の命で栄禄を協弁大学士に昇進させる。折しも実母代わりであった醇王福晋(西太后の実妹)が重病となり、光緒帝は見舞いに訪れるが、まもなく死去。光緒帝は深く悲しみ、以後西太后との間を取り持つ者を失った。

列強への利権譲渡が続く

  • ロシアとの東省鉄道敷設契約が結ばれ、イギリスとは緬甸国境や九龍拡張などで新たな条約が結ばれるなど、列強への譲歩が相次いだ。
  • 山東曹州で発生したドイツ人宣教師殺害事件(鉅野教案)を口実に、ドイツは膠州湾を占領し、租借条約を強要。これに続きロシアは旅順・大連湾の租借と鉄道敷設・築城権を、イギリスは威海衛租借と九龍拡張を、フランスも広州湾租借をそれぞれ獲得し、清朝は次々と屈服させられていった。

康有為の変法上書

  • 膠州湾事件を機に、工部主事の康有為は変法を訴える上書を再三提出。制度局の設置や各種新政機関の創設、親王の外遊、紙幣発行、銀行設立、学堂設立、民兵訓練などを詳細に献策した。光緒帝はこれに感銘を受け、次々と新政の詔を発した。

恭親王奕訢の死

  • 軍機の首座にあった恭親王奕訢は、維新・守旧双方に慎重な態度を保ち調停役を果たしていたが、病を得て光緒二十四年四月に死去。遺言で光緒帝に国事は太后の裁可を経るよう諭した。

西太后の牽制と人事

  • 恭親王の死後、光緒帝は国是を定める詔を発して変法を宣言するが、西太后は栄禄・剛毅を重用するよう釘を刺し、翁同龢を信用しないよう求めた。光緒帝は表向き従い、栄禄を大学士、剛毅を協弁大学士に任じた。
  • 剛毅は西太后への贈賄で出世した卑俗な人物として描かれ、その無学ぶりが揶揄される。

康有為の登用と守旧派の反発

  • 光緒帝は李士・徐致靖の推薦で康有為、黄遵憲、譚嗣同、張元済、梁啓超らを起用。康有為は召見され光緒帝の信任を得て総理衙門で働くこととなるが、守旧派はこれに強く反発し、翁同龢を排斥する陰謀を企てる。

翁同龢の罷免

  • ほどなく翁同龢は「事に当たって専断」との理由で開缺・帰郷を命じられる上諭が下る。これは実質的に西太后の意向によるものであった。後任には王文韶、栄禄が直隷総督に就任するなど人事が動いた。

変法の急進と抵抗

  • 康有為はさらに変法の徹底を求めるが、西太后は二品以上の官が皇太后にも謝恩するよう新例を定め、権力を掌握しようとする。守旧派は「老母班」、維新派は「小孩班」と呼ばれ対立が深まった。文悌の康有為弾劾は光緒帝に却下されたが、西太后は裕禄を軍機に加えて勢力を強めた。

百日維新の展開

  • 光緒帝は各省への学校設立、文武科挙の改革、諸衙門の則例改定など矢継ぎ早に新政の詔を発する。しかし「康有為が皇帝に丹薬を献じて惑わせている」との流言が広まり、康有為は総理衙門を辞す意向を示す。光緒帝は時務報を官報とし、康有為に督弁を命じ、さらに冗官の裁撤(詹事府・通政司などの廃止、三省巡撫の廃止など)を断行した。

天津閲兵と礼部六大臣の処分

  • 栄禄が光緒帝・西太后の天津閲兵を上奏し許可される中、礼部主事王照が断髪・易服や太后の外遊などを説く上書を提出するが、礼部の堂官(守旧派)はこれを握りつぶそうとした。露見すると光緒帝は礼部堂官六人を全員革職とし、王照や楊鋭・劉光第・林旭・譚嗣同ら新進を軍機章京に抜擢、李鴻章・敬信を総理衙門から外すなど、強硬な措置を次々に打ち出した。
  • あわせて新政の趣旨を全国に布告する上諭が発せられ、変法の広報が図られた(光緒二十四年七月二十七日、いわゆる百日維新の起点から約百日)。

袁世凱の抜擢

  • 八月一日、直隷按察使袁世凱が召見され、練兵の重要性を説く。光緒帝はこれを喜び、翌日袁世凱を侍郎に抜擢し練兵の専任とした。しかしこの人事が思わぬ禍根となっていく。

評語

  • 本回は表向き光緒帝を描くようでいて、実は西太后を描くものだと著者は言う。変法そのものは外患に対応するため必要であったが、母子が心を合わせず、皇帝と太后がそれぞれ別の人物を用い、互いに牽制し合ったために新旧の対立が激化し、成功のしようがなかったと分析する。礼部六人の罷免や新進四人の抜擢も光緒帝の憤懣の発露であり、その性急さは若さゆえとしても、根本原因は西太后の牽制にあると結論づける。