西太后演義第二十五回 密謀漏れ三度臨朝し、旧派六人処刑さる (泄秘謀三次臨朝 反舊政六人斃命)
西太后、袁世凱を牽制
- 侍郎に昇進した袁世凱は西太后に謝恩に訪れる。西太后は光緒帝の練兵計画に触れ、皇帝が性急すぎることに疑念を示し、自分の指示に従うよう釘を刺した。
光緒帝への叱責
- 西太后は光緒帝を呼び出し、王照の断髪易服論や礼部堂官の罷免を厳しく咎め、康有為を「敗類」と断じる。光緒帝は弁明を許されず、ひたすら平伏するのみであった。李蓮英もこの場で険しい態度を見せる。
李蓮英の恨みの根
- 実は李蓮英は、瑾・珍二妃降格の際に妹を後釜に据えようと画策していたが、光緒帝が満漢通婚禁止を理由に拒んだため面目を失っていた。また蓮英が定めた「見参の門費」を光緒帝が快く思わず、王照の宦官排斥論も蓮英を名指ししたものだったため、光緒帝への恨みを募らせていた。
- 蓮英は守旧派と結び、栄禄・楊崇伊らと謀って西太后の「訓政」復活を画策する。
密旨と栄禄への急報
- 八月五日、光緒帝は召見した袁世凱に密旨(小箭を添えた密書)を託し、天津へ急行させる。密旨の内容は、袁世凱に栄禄を襲って兵権を奪い、直隷総督を代行させ、兵を率いて上京し守旧派を一掃させるというものであった。
- 袁世凱は津に着くと、この密旨を栄禄に密告する。栄禄は急ぎ西太后のもとへ駆けつけて密旨を差し出し、世鐸・剛毅・裕禄ら王大臣が集まって協議、西太后に訓政への復帰を懇請した。
戊戌政変の発動
- 密告を知った孫太監が光緒帝に急報し、光緒帝は康有為に至急上海へ逃れるよう密諭を送る。康有為は取るものも取りあえず脱出し、天津・上海を経て香港へ亡命した。
- 翌朝、西太后は光緒帝を瀛台へ呼び出し、「兵を率いて頤和園を包囲しようとした」と激しく詰問する。光緒帝は否定するが取り合われず、皇后には監視を命じ、珍妃が取りなそうとすると平手打ちを浴びせ、三所への幽閉を命じた。
- 西太后は瀛台と外部を結ぶ橋の橋板を撤去させ、光緒帝を事実上幽閉した。
政変後の粛清
- 宮中では光緒帝の名で「病により太后に訓政を請う」との詔と、康有為一党(張蔭桓・徐致靖・楊深秀・楊鋭・林旭・譚嗣同・劉光第・梁啓超・康広仁ら)の逮捕を命じる詔が矯って発せられた。光緒帝旧用の宦官も多くが杖殺・追放された。
- 康有為は上海で外国人の助けを得て香港へ、梁啓超は天津から日本軍艦で横浜へ逃れ、以後保皇会を組織して活動を続けた。
訓政の再開と新政の撤回
- 西太后は三度目の訓政に臨み、光緒帝は勤政殿で三跪九叩の礼をとらされる。翌日、光緒帝名義で新政の大半を撤回する上諭が発せられ、詹事府など廃止した衙門を復活、時務官報の廃止、士民の上書禁止など、百日維新の成果はほぼ全て覆された。
戊戌六君子の処刑
- 楊深秀・譚嗣同・林旭・楊鋭・劉光第・康広仁の六人は裁判を経ずに処刑され(戊戌六君子)、譚嗣同は刑場でも泰然と変法のために血を流す意義を説いたと伝えられる。張蔭桓は新疆へ配流、徐致靖は永久監禁、李端棻は革職充軍、陳宝箴は罷免、翁同龢も官を奪われ地方官の監視下に置かれた。
- 一方、栄禄は軍機大臣として北洋の軍を統括し、裕禄・許応騤ら守旧派が要職に復帰、守旧派は西太后を「女中の堯舜」と称え称賛した。
評語
- 光緒帝の性急な変法と維新派の急進論はいずれも「欲速則不達」の弊を免れないとしつつ、西太后の手段の苛烈さと心術の陰険さは呂后・武則天以来のものだと断じる。維新派が国を興せたとは断言できないが、西太后が国を滅ぼす原因になったことは断言できるとし、宦官李蓮英の専横も相まって清朝の衰亡は必然であったと結ぶ。「牝鶏晨を司る」の古諺を引いて締めくくる。