西太后演義第十七回 東太后、謀られ急逝、恭親王讒言で失脚す (東太后中計暴崩 恭親王遭讒去職)

割臂の芝居

  • 東太后は元来おおらかで警戒心が薄く、西太后との間の亀裂にも気づいていなかった。西太后は表面上は親密さを装いつつ、東太后が病になった際にわざと熱心に見舞い、自ら「参汁に自分の腕の肉を割いて混ぜた」と偽って語り、東太后の同情を引いた。
  • 実はこの芝居は、東太后が文宗(咸豊帝)から託された密旨(西太后が驕慢不法に及べば祖宗の家法で処分せよとの硃諭)の存在を探るためのものだった。東太后はこれに感激し、その密旨を取り出して西太后に見せた末、自ら火にくべて焼き捨ててしまった。西太后は内心快哉を叫んだ。

李蓮英との密会を見咎められる

  • 後日、東太后が礼を述べに長春宮を訪れたところ、西太后が李蓮英と馴れ馴れしく同席している場面に出くわした。東太后は「宦官を太后と同席させるとは何事か」と叱責し、李蓮英の権勢の強さにも懸念を示した。西太后は言い訳するのみで内心不快に思った。

東太后の急死

  • その後、西太后は仮病を装って半年近く引きこもった。光緒七年三月、東太后が単独で朝政をみていたある日の午後、突如「東太后が崩御した」との報が伝わった。恭親王・左宗棠らは朝の謁見時には何の異常もなかったことを訝しんだが、宮中では西太后が平然とした様子で応対し、すでに小殮も済んでいた。
  • 遺体を確認した大臣たちは東太后の顔色が尋常でないことに気づいたが、口をつぐんだまま喪儀に取りかかった。遺詔は李鴻藻が起草したが、西太后の手で数字が書き改められて発表された。作者は、東太后の死には西太后による毒殺、あるいは薬を誤らせた疑いがあると示唆している。

恭親王への追い風と朝鮮内乱

  • 東太后崩御後、西太后は独断で国政を進め、左宗棠を両江総督に転出させ、朝鮮内乱(大院君による閔妃派排斥事件)では清軍を派遣して大院君を天津へ連行、日本との緊張を残したまま一応収拾させた。

清流党の盛衰と中仏交渉の前触れ

  • 台官らが摘発を続ける中、寶廷は不行跡で自ら処分を願い出て革職、張佩綸は西太后に重用されて対仏交渉の任にあたることとなった。折しもベトナムをめぐりフランスと交渉が始まっていた。

恭親王の罷免

  • 光緒十年、西太后五旬万寿の準備が進む中、突如、恭親王奕訢・寶鋆・李鴻藻・景廉・翁同龢ら軍機処の重臣を一斉に処分する懿旨が下された。恭親王は親王位と俸禄を保持したまま一切の職務を解かれ、実質的に政界を退くこととなった。
  • 見舞いに訪れた同僚に対し恭親王は、「早くからこうなると覚悟していた。今日まで持ちこたえられたのはむしろ幸運だった」と達観した様子を語り、政界から退いた。

評語

東太后と恭親王はいずれも西太后が深く恨みを抱いていた相手である。割臂の詐術や毒殺の噂は世評とも一致しており、作者の臆測ではない。東太后の死後すぐに恭親王を除かなかったのは、自身への疑いを招かぬよう機をうかがっていたためであり、中仏交渉の混乱を口実に一挙に処断した。その用意周到さは、まさに『春秋』の誅心の筆法に通じるものがある。