西太后演義第十六回 遺疏で継嗣を訴え、対露条約改定に人材得る (上遺疏痛陳繼統 改俄約幸得使才)

嘉順皇后の死

  • 同治帝の崩御と実子継承の望みを絶たれた嘉順皇后は、西太后から冷遇され続けたすえ絶食し、身重の身のまま亡くなった。東太后は哀悼したが、西太后は「早く死ねばわが子も短命にならなかった」と言い放ち、喪儀も簡略に済ませた。
  • 皇后を表彰すべきと上奏した御史・潘敦儼は、西太后から「謬妄」として厳しく叱責され、周囲から自業自得だと評された。

両太后垂簾下の新政

  • 両太后の再度の垂簾聴政のもと、西太后は外国への使節派遣(英・日・独)、外国借款の許可(左宗棠の西域出兵費用)、英国が上海~呉淞に敷いた鉄道の買い戻しと撤去、閩廠からの留学生派遣といった新政策を進めた。

馬嘉理事件と煙台条約、新疆平定

  • 雲南で英国人通訳マーガリが殺害された事件(馬嘉理事件)で英国が強硬な態度を示し、李鴻章が交渉にあたって煙台条約を締結、賠償と通商条件などを取り決めた。
  • 左宗棠は新疆で白彦虎を敗走させ、アグ・ベグ(阿古柏)を自滅に追い込み天山南北路を平定、左宗棠は二等侯に封じられた。

呉可読の尸諫と継嗣問題

  • 光緒五年、同治帝夫妻の恵陵埋葬が行われた後、吏部主事・呉可読が服毒自殺し、将来の皇位継承(光緒帝に皇子が生まれた場合の穆宗の跡継ぎ)を明確にするよう求める遺疏を残した。
  • 両太后は呉可読の忠義を認めつつも、祖法に建儲の前例がないため王大臣らは結論を出せずにいたが、張之洞が「継嗣すなわち継統とし、皇子が生まれた時点で穆宗の跡継ぎとすればよい」と提案、これが懿旨として採用され決着した。呉可読は死後、五品官並みの恤典を受けた。

琉球滅亡と崇厚の対露交渉

  • 日本による琉球併合(沖縄県設置)の報が届く中、左宗棠が伊犁をめぐりロシアとの開戦も辞さない構えを示す上奏を寄せ、朝廷は崇厚を出使ロシア大臣に任じ伊犁の返還交渉にあたらせた。
  • 崇厚は臆病でロシア側に押し切られ、賠償金五百万ルーブル、伊犁西境・南境の割譲、通商上の免税などロシアに有利な十八条の条約に安易に調印してしまった。

清流党の反発と曾紀澤の改約交渉

  • この条約に清流派の官僚たち(張佩綸ら)が猛反発し、朝廷は崇厚を革職・逮問、代わって曾国藩の長子・曾紀澤を出使大臣に任じ改約交渉にあたらせた。
  • 左宗棠は主戦論を唱えつつも伊犁返還自体は当然と認め、朝廷は交渉継続を選択。ロシア皇帝の暗殺という政変も挟みつつ、曾紀澤は粘り強い交渉の末、伊犁南境の返還・国境の見直し・関税の一部猶予など条約内容を改善させることに成功した。
  • 曾紀澤は上奏で「条約はいつまた反故にされるか分からない、辺境の外交には常に慎重であるべき」と説いたが、朝野はこれを名言と称えるにとどまり、実際には実行されなかった。

新疆建省と栄祿の失脚

  • 光緒十年、新疆が行省となった。
  • 一方、西太后の寵臣であった歩軍統領・栄祿が、宮中の妃嬪との不義密通を西太后に見咎められて革職・追放される事件が起きた。

東太后との確執と李蓮英の讒言

  • 文宗陵への参拝で、東太后が西太后を下位に立たせたことに西太后は不満を抱いた。さらに李蓮英が「栄祿の失脚も東太后の陰謀」と讒言し、両太后の間に亀裂を深めた。西太后は安得海処刑の一件も併せて根に持ち、東太后への報復を企てるようになった。

評語

呉可読の尸諫や曾紀澤の改約は一見西太后と無関係に見えるが、いずれも西太后が光緒帝を擁立したことに端を発する。継嗣継統の筋道さえ明確であれば呉可読が命を絶つ必要はなかった。また崇厚の失態も、人選の当初から国政を専断していた西太后の責に帰すべきものである。すべてはひとえに西太后が招いたことである。