西太后演義第十五回 同治帝、瘡毒で崩御し、皇后絶食し殉節す (染瘡毒穆宗賓天 絕粒食毅后殉節)

桂慶奏摺の握りつぶし

  • 同治帝が桂慶の上奏に激怒し処罰しようとしたところ、西太后がその奏摺を取り上げた。前半の政治批判は不問に付したが、後半の宦官糾弾・太后への責任追及の部分を不快に思い、握りつぶした(留中)。桂慶は返答が無いことを悟り辞職した。以後、王大臣たちは保身に徹し、誰も皇帝の放蕩を諫めなくなった。

西太后の万寿と同治帝の病状

  • その年の秋、彗星が現れるという凶兆があったが、両者とも意に介さなかった。冬、西太后の万寿(誕生日)祝典が乾隆年間の先例に倣い盛大に行われた。同治帝は儀礼に付き従ったが、実はこの頃すでに下半身に梅毒性の瘡ができており、痛みを隠しながら儀式をこなしていた。
  • 病状は次第に悪化し、御医は「天然痘(天花)」と偽って診断した。政務は李鴻藻が代行し、西太后は権力が他に移ることを恐れ、近親の王を集めて対応を協議。同治帝の名で「療養に専念するため、内外の上奏は両太后が裁決する」旨の諭旨が出された。
  • 続いて慧妃を皇貴妃に、瑜嬪・珣嬪を妃に格上げする諭旨が出され、朝臣たちは訝しんだ。

同治帝の崩御と後継決定

  • 十二月五日、両太后は恭親王ら王大臣・重臣を養心殿に急遽召集した。西太后は「皇帝の病は重篤で、継嗣を決めねばならない」と切り出し、恭親王が「皇后が懐妊しているかもしれない」と述べたが、西太后はこれを退けた。
  • 東太后は恭親王の子を推したが、恭親王は固辞し、溥倫を推した。西太后は血統が遠いとしてこれも退け、醇親王奕譞の子・載湉(当時数え四歳)の擁立を主張。折しも「皇帝はすでに崩御した」との報が入り、一同は哭泣した。
  • その夜、西太后は自らの妹(醇親王福晋)が抱いてきた幼い載湉を東暖閣に運び入れ、即位の礼を行わせた。幼い載湉は泣きじゃくり、醇親王がなだめてようやく即位の儀式が済んだ。翌日、同治帝(十九歳)の遺体は大殮に付された。

遺詔と嘉順皇后の悲劇

  • 遺詔には「醇親王の子・載湉を文宗(咸豊帝)の継嗣として大統を継がせる」とあったが、これは実際には両太后の意向によるもので、皇后(阿魯特氏)はこれが同治帝本人の遺志ではなく、自分の立場をも危うくする作為であることを察し、深く絶望した。皇后には「嘉順」の号が贈られ、同治帝には「穆宗」の廟号が贈られた。翌年、改元して光緒元年となった。
  • 光緒帝はまだ幼く、再び両太后の垂簾聴政が始まった。「皇帝(光緒帝)に皇子が生まれれば、大行皇帝(同治帝)の跡継ぎとする」との懿旨も出された。醇親王奕譞は自ら病を理由に辞職し、朝賀への参列も控えた。
  • 内閣侍読学士・広安が、後継の取り決めを鉄券に記して確定させるよう上奏したが、西太后はこれを「軽率な瀆言」として叱責するにとどめた。
  • 翌年二月、嘉順皇后(同治帝の皇后)が絶食により崩じたとの報が伝わった。婚礼からわずか三年足らず、同治帝の崩御からわずか百日余りであった。

評語

清朝でそれまで無かった「兄弟継承」の制を開いたのは光緒帝である。光緒帝の母は西太后の妹であり、光緒帝は西太后の甥であり甥でありながら侄でもある。西太后はこの二重の血縁関係により光緒帝が己に従順であろうと見込み、かつ幼帝の即位によって再び垂簾聴政の実権を握れると計算した。だが家法や祖制はもとより西太后の心を動かすものではなかった。実子である同治帝ですら意のままにならなかったことを思えば、光緒帝が成人した後に従順であり続ける保証はどこにもない。西太后は智に長けていたが、その智はまた愚かさの裏返しでもあった。嘉順皇后の殉節は、ひとえに西太后の偏った憎しみに起因する。徳望のあった皇后が悪しき姑に虐げられ絶食して死んだことは、西太后のために弁護のしようがない。東太后がなお存命でありながら異を唱えなかったのは、安得海の誅殺も嘉順皇后の冊立もすべて東太后の発意であったため、西太后がすでに深く恨みを抱き、同治帝崩御に際して東太后を意図的に排除する策を巡らせていたからである。恭親王を東暖閣に留め置いたように、東太后もまた西暖閣に留め置かれたに等しい。本回は第十回と合わせて読むことで、西太后の手腕がいっそう明らかになる。