西太后演義第十八回 太后の命で講和主導、醇親王に従い閲兵総監す (奉慈命爵帥主和議 隨醇王總監閱兵操)

軍機処の改組と醇親王の登用

  • 恭親王らを罷免した西太后は、礼親王世鐸ら新たな軍機大臣を任命し、重要事項は醇親王奕譞と諮ることとした。若手官僚の盛昱・錫鈞・趙爾巽は、親王が軍機に関わるのは祖法違反だと諫めたが、西太后は「皇帝親政までの臨時措置」として退けた。
  • 西太后はさらに慶親王奕劻を総理各国事務衙門の長に据えた。

中仏戦争の経緯

  • ベトナムはフランスの保護国とされ、清との宗属関係を巡り中仏間の緊張が高まった。李鴻章とフランス側との間で福禄諾との暫定協定が結ばれたが、フランスは境界巡視を口実に行動をエスカレートさせ、両軍は諒山などで衝突した。
  • 清は宣戦布告し、左宗棠・曾国荃・張佩綸・劉永福(黒旗軍)らが各地の防衛にあたったが、馬江海戦でフランス艦隊に大敗、台湾も攻撃を受けた。

朝鮮の甲申政変

  • 朝鮮では日本の後押しを受けた開化派(朴泳孝・金玉均ら)がクーデターを起こし親清派を殺害したが、袁世凱の指揮する清軍がこれを鎮圧し、日本公使館を焼かせた。李鴻章と伊藤博文の交渉により天津条約が結ばれ、日清両国は朝鮮からの撤兵と将来の出兵時の相互通知を取り決めた。

中仏和議の成立

  • 清軍は諒山を奪還するなど戦況を好転させつつあったが、李鴻章はフランスと天津で講和を進め、朝廷は撤兵を命じた。彭玉麟や曾紀澤は反対したが押し切られ、条約では領土・賠償なしにベトナムのフランス保護国化を事実上追認する結果となった。李鴻章は「売国」と非難されたが、実際は西太后の意向によるものであった。五旬万寿の祝典を控え、事なきを求めた西太后の意向が主因とされる。

緬甸をめぐる英国の進出

  • フランスのベトナム進出に続き、英国もビルマに侵攻し王を廃して統治下に置いた。曾紀澤の交渉で名目上の朝貢継続が認められたのみに終わった。

北洋海軍の整備と頤和園造営

  • 李鴻章の建議で北洋海軍の整備が進められ、旅順・威海衛を軍港として艦艇購入・人材育成が始まったが、予算は戸部からなかなか出なかった。
  • 西太后は醇親王と李蓮英を天津へ視察に送るが、真の目的は海軍費の一部を頤和園(旧・清漪園)造営に流用することだった。李鴻章は密旨を悟り、以後の申請は言われるままに処理し、頤和園の大工事が急速に進められた。閲兵演習も形式的に行われ、実質を伴わないものだった。この年の水害を受けてある御史が李蓮英の随行を唐代の監軍の弊害になぞらえて諫めたが、西太后の怒りを買い降格処分となった。