西太后演義第十九回 名園に行幸し権閹を諭し、帰政を図り懿戚の婚定む (幸名園嘉諭權閹 擬歸政指婚懿戚)

直言の処罰と光緒帝親政

  • 御史・朱一新が李蓮英の専横などを諫めて降格された。李蓮英はますます寵愛を増し、頤和園の造営工事を監督した。
  • 光緒帝十六歳を機に西太后は「親政後も自分がしばらく訓政する」形で親政の儀を認め、光緒十三年正月、親政の大典が行われた。しかし実権は依然として西太后が握り、光緒帝は名目上の存在にとどまった。津沽鉄路の建設や漠河金鉱の開発など新政も進められた。
  • 西太后は光緒帝の実父・醇親王が将来力を持つことを警戒し、醇親王は病を理由に自ら距離を置いた。

頤和園行幸

  • 光緒十三年、頤和園が完成し、西太后・光緒帝一行が初めて臨幸した。仁寿殿・玉瀾堂・宜芸館・楽寿堂・仏香閣・昆明湖・石舫など園内各所を巡覧し、西太后は李蓮英の説明を受けながら建物の由来や命名の経緯を尋ね、いたく満足した様子を見せた。李蓮英の周到な差配ぶりが強調して描かれる。
  • 西太后は将来ここに常駐して劇を楽しみたいとの意向を語り、李蓮英に園内の調度・電灯設備の整備なども命じた。

立后の指婚

  • 西太后は自らの弟・桂祥の娘(同治帝の后選定の際とは異なり、今度は自分の一存で)を光緒帝の后に選ぶことを決め、桂祥に婚約を告げた。桂祥一家は歓喜したが、後にこの縁組は不幸な結末を迎えることになる。
  • 六月、西太后は「大婚礼の後は光緒帝に親政を任せる」旨の懿旨を発した。西太后は頤和園に移り、内閣・軍機処もそこへ移されて政務が処理された。冬、正式に桂祥の娘を皇后(葉赫那拉氏)、長叙の娘二人を瑾嬪・珍嬪とする冊立が発表された。

評語

円明園の造営には数十年を要したのに対し、頤和園は一、二年で完成した。国力が全盛だった雍正・乾隆の時代でさえ工期を急がず物力を惜しんだのに、西太后は民の労苦や国費を顧みず、造営の速さを李蓮英の功として称賛した。その驕り高ぶりは甚だしい。立后の一件も西太后の私心によるものであることは本文中に明らかである。