西太后演義第八回 内言で厳命下り、外患で一家都落ちする (用內言嚴旨賜帛 開外釁挈眷蒙塵)
広州陥落と葉名琛の末路
咸豐帝は懿貴妃の言に従い強硬な諭旨を葉名琛に発したが、名琛は相変わらず経を誦むばかりで、英国のエルギン伯爵からの照会にも応じなかった。仏・米の領事からも賠償要求が来たが放置し、ついに英軍から48時間以内に賠償と条約改訂を求める最後通牒(哀的美敦書)を突きつけられる。名琛は呂祖の乩(お告げ)を信じて「十五日に事は定まる」との文言に安心し、何の備えもしなかった。将軍穆克徳訥や巡撫柏貴の進言も退けたため、英仏軍は海珠砲台を占拠し省城を砲撃、総督衙門も大破された。名琛は呂祖像を抱えて撫署に逃げ込み、なお洋人の入城を拒み続けたが、ついに城外へ引きずり出され英艦でインドへ連行された。時に咸豐七年十一月十五日、乩の予言どおりの日であった。名琛は間もなく客死し、遺骸は広東へ送り返された。
圓明園での享楽
内憂外患に悩む咸豐帝は太監の勧めで圓明園に遊び、四春娘娘(寵姫たち)にもてなされて憂いを忘れ、宮より園に居る日が多くなった。
大沽砲台の陥落と交渉の混乱
英・仏・露・米四国の艦隊が白河口に集結し、崇綸・烏爾焜泰を派遣するも交渉相手として拒否され、ついに英仏艦が大沽砲台を攻撃・占領した。咸豐帝は僧格林沁を天津防衛に、桂良・花沙納を交渉に派遣。かつて弱腰外交で知られた耆英が再登用されるが、英仏側に面会すら拒まれ、独断で帰京してしまう。咸豐帝はこれに激怒し、恭親王奕訢らに命じて耆英を厳しく取り調べさせ、当初は絞刑相当としたところを咸豐帝の意向で自尽を命じた。この裁定の背景には、懿貴妃が「姑息は奸を養う、正法にせよ」と強く進言したことがあった。
天津条約
桂良・花沙納は英仏の条約案(公使の北京駐在、内地遊歴通商の許可、牛荘・登州・台湾・潮州・瓊州の開港、賠償金など)をほぼそのまま受け入れ、露・米とも条約が結ばれた。これが天津条約である。廷臣の反対はあったが、咸豐帝は戦えないと判断し忍んで許した。
東南の戦況と三河の敗戦
咸豐九年、恩科挙行の詔が出される一方、江南では和春・張国梁が鎮江を回復し南京を包囲、江北では徳興阿が瓜洲を落とすなど清軍がやや盛り返す。しかし李続賓の軍が三河鎮で陳玉成・李世賢ら太平軍十数万に包囲され、わずか四五千の兵で全滅、続賓も戦死した。
大沽再戦と北狩
天津条約の批准のための換約の際、英艦長ブルース(卜魯士)が僧格林沁の警備を無視して大沽に強行突入し、清軍がこれを撃退する小勝利があった。咸豐帝は油断して圓明園での享楽を続けたが、翌咸豐十年、英仏艦隊が再来し大沽北岸砲台を攻略、提督楽善が戦死する。咸豐帝は僧格林沁を呼び戻し撫議に転じるが交渉は失敗し、英仏軍は天津を占領して河西務まで迫った。副都統勝保の軍も敗れ、ついに「北狩」(実質的な逃避行)が決まる。懿貴妃は恭親王奕訢に還宮・守城を求めさせたが咸豐帝は聞き入れず、四春娘娘に密かに行装を整えさせた上で、懿貴妃ら后妃を圓明園に呼び寄せ、そのまま咸豐帝一行は避難の途についた。怡親王載垣・端華・肅順、軍機大臣穆蔭・景寿・匡源・焦祐瀛・杜翰らが扈従した。
評語
美醜を問わず入宮すれば妬まれるのは常のことで、そのラ氏だけの話ではない。だが彼女は柔の中に剛を秘め、剛の中に柔を秘めており、並みの婦女とは違う。本回は一見過渡的な内容に見えるが、随所にそのラ氏の人物像が浮かび上がるよう仕組まれている。