西太后演義第七回 貴妃、恩典で里帰りする(外交で失策を犯す) (邀曠典貴妃歸省 預邦交哲婦失謀)
懿貴妃への晋封と省親の日取り
咸豐帝は懿妃の省親を許したが、実際の里帰りは咸豐六年冬から翌年正月にずれ込んだ。新年の慶賀と兼ねる形にしたのである。咸豐七年正月、咸豐帝は改めて懿妃を懿貴妃に晋封した。貴妃は皇后に次ぐ地位で、清朝では代々二、三人しか出ない高位であり、省親を一層晴れがましいものにするための計らいであった。懿貴妃は密かに宦官を通じて実家に金銀を送り、準備を整えさせた。
実家の改築と当日の様子
母の恵太太は錫拉衚衕の狭い住宅を、近隣の厚意もあって前堂・后庁を備えた広壮な邸宅へと数十日で改築した。当日、懿貴妃は宮女・宦官を従えて鑾輿で出発、道には工部の役人や兵馬司が人払いをし、見物人が押し寄せた。総管に導かれた行列、儀仗、下賜の品々(白玉如意・沈香の杖・彩緞・白銀)を伴う盛大な行列が到着し、恵太太一家は跪いて出迎えようとしたが宦官に制止された。母娘は五年ぶりの再会に言葉少なく涙を流し合った。懿貴妃は妹に、すでに帝に願い出て良縁(奕譞への輿入れ)を取り計らったことを告げ、学問を怠らぬよう諭した。幼い弟の桂祥にも学問を励ますよう言い聞かせた。
園内の宴と匾額の命名
園内の宴席では、貴妃は庭の景色を眺めながら客庁に掲げられた「鳴鳳朝陽」の額を妹の作と知り、「鳴」を「雙」に改めてはと戯れに言い、正庁には「承恩堂」の名を与えた(後に弟桂祥が爵を継ぐ伏線)。宴では宮中の話や実家の様子が語られ、和やかに時が過ぎた。
別れ
日が暮れ、総監が「酉の刻、還御を」と告げると、貴妃は涙を抑えきれず、母や弟妹に別れの言葉をかけ、輿に乗って去った。母子の情に見物人も心を動かされ、恵太太はしばらく門前に立ち尽くした。親族は貴妃の分をわきまえた態度を褒め合った。
帰宮後の恩賞と朝政
貴妃は帰宮後、帝に省親の様子を復命し、帝は恵太太に一品の誥封と多くの下賜品を与えた。実家は再び賑わい、後に恵太太の入宮参内も許された。
湖南巡撫駱秉章から、兵部侍郎曾国藩が父の喪により帰郷を願い出たとの奏報が届く。廷臣の議論は分かれたが、咸豐帝は曾国藩が理学を重んじる人物であるため、喪に服さず職務に留まる「奪情」を強いることをためらった。懿貴妃は「太平の世には常道を守り、多難の時には権道に従うべき」と説き、咸豐帝はこれに従って曾国藩に三か月の喪暇と銀四百両を与え、湘勇を弟の曾国華に預ける旨の諭旨を発した。その後王大臣の異論により、楊載福・彭玉麟が統帥・調度にあたることとなった。
広東交渉と葉名琛
両広総督葉名琛からアヘン戦争以来のイギリスとの交渉の経緯が奏報される。道光十九年、林則徐がアヘンを焼却したことに端を発し、英国が開戦、江寧条約で香港割譲・五港開港などが定められた経緯、その後耆英・伊里布らの弱腰外交、広州入城問題での徐広縉の対応、そして頑固で洋人を軽んじる葉名琛が総督として交渉を放置し、ついに英船拿捕事件を機に英艦が黄埔砲台を攻撃するに至った経緯が語られる。葉名琛は交渉に応じず呂祖(呂洞賓)に祈願するばかりで、洋兵は二日攻めて退いたものの、広東の民衆が各国商館を焼き払う騒ぎとなった。葉名琛はこれを大勝利のように奏上した。
咸豐帝は懿貴妃にこの件を語り、懿貴妃は「これまでの対外方針は寛容に過ぎた、今後は洋人に対しもっと強硬であるべきだ」と説く。咸豐帝もこれに頷く。
評語
省親の曠典を詳しく描いたのは、著者の深意による。懿貴妃のために前代未聞の特例が開かれたことは、後の垂簾聴政という祖制破りの先例ともなった。内政への関与に始まり外交への口出しにまで及び、曾国藩の登用は成功したが葉名琛への強硬論は失敗に終わる。そのラ氏の自尊自大の心がこの頃から芽生え、後年の義和団の禍にまでつながる萌芽がここに見える。