西太后演義第九回 円明園焼失し、熱河で崩御の訃報届く (慘遭縱火淀園被焚 望斷迴鑾熱河馳訃)

逃避行の始まりと懿貴妃の建言

咸豐帝一行は百里ほど先で行宮に入り一泊した。懿貴妃はここで初めて進言し、周室東遷の故事を引いて遠くまで逃げるべきではないと説くが、疲れ果てた咸豐帝は答えず、恭親王奕訢に留守と海淀での軍指揮を命じる硃筆の諭旨を書かせるにとどめた。

懿貴妃、諭旨を代筆する

副都統勝保の南兵召集を求める奏摺に対し、咸豐帝が面倒がって取り合わないでいると、懿貴妃は「私が文案を作ってみます」と申し出て数百言の諭旨を書き上げ、咸豐帝はこれをそのまま採用して発した。曾国藩・袁甲三・慶廉・翁同書・傅振邦らに川楚の精鋭を選抜させ勝保の指揮下に急行させる内容であった。以後、懿貴妃が政務に深く関わる兆しがここに表れる。

北京陥落と圓明園焼失

北京では和戦の議論が紛糾する中、英軍参賛パークス(巴夏禮)が捕らえられ、洋兵は禁城を包囲した。恭親王は和議に傾くが、パークス釈放をめぐり紛糾するうちに英仏軍は海淀に迫り、圓明園を守る僧格林沁・瑞麟の軍は戦わずして潰走した。恭親王は逃げ延び、まもなく圓明園は英軍参賛パークスの主導で三日三晩にわたって焼き払われた。恭親王は「祖先に申し訳が立たない」と嘆いた。

北京条約の締結

その後仏使ノエル(噶羅)の仲介で、恭親王は入城を渋りつつも留京の王大臣が独断で交渉を進め、賠償金五十万両を先払いした上で、天津の開港・領事駐在・英に銀千二百万両、仏に六百万両の賠償などを内容とする条約が結ばれた(北京条約)。ロシアは戦わずして仲介役を務め、烏蘇里江東岸の地を得るという最大の利益を得た。

熱河での咸豐帝

咸豐帝は灤陽を経て熱河の避暑山莊に落ち着いた。当初は奏摺に自ら目を通していたが、圓明園焼失の報に大きな衝撃を受け、以後心が萎えて病がちになった。懿貴妃はかえって喜色を隠さず慰めるが、咸豐帝はその本心を見抜いていた。

還御をめぐる対立

在京の王大臣は還御を再三奏請するが、咸豐帝は寒さを理由に先延ばしを続ける。懿貴妃も還御を勧めるが、咸豐帝は江南大営の陥落や和春・張国梁の戦死など南方の戦況悪化を理由に不機嫌になる。懿貴妃は曾国藩の両江総督補任や僧格林沁の捻匪討伐を挙げてなだめた。

咸豐十一年、咸豐帝の病状は悪化する一方であったが、両宮(皇后と懿貴妃)の勧めで二月十三日還御と定まる。しかし怡親王載垣・鄭親王端華・肅順は動こうとせず、肅順は「還御はそう簡単には行われまい」と予言する。案の定、還御は延期され、肅順は「皇上は焼け跡となった圓明園を見るのが辛く、また寵姫の四春娘娘を宮中に入れられない事情も憂慮の因」と説明し、一同は納得した。

懿貴妃はこれを不快に思い、宦官の安得海を通じて恭親王奕訢を呼び寄せようとするが、咸豐帝はこれを拒む諭旨を発し、懿貴妃の企ては失敗する。これにより懿貴妃は載垣・端華・肅順への恨みを深めた。肅順は怡・鄭二王に警戒を促すが、二王は取り合わなかった。一方、侍衛栄祿と懿貴妃は縁戚関係を通じて連絡を取り合い、これを察知した肅順は二王に懿貴妃廃位を密奏するよう勧めるが実現しなかった。

咸豐帝の崩御

夏、咸豐帝の病はさらに重くなり、四春娘娘に会おうとしても懿貴妃に阻まれ、これを恨みに思うようになる。怡・鄭二王は懿貴妃と栄祿の内通を密告するが、咸豐帝は病重く確証を得られぬまま推移する。六月九日の誕生日、咸豐帝は無理をして宴に出たが体調が持たず退席、以後臥せったままとなった。七月、病篤くなった咸豐帝は皇后に遺旨を託し、懿貴妃が御璽の行方を尋ねてきたのに応じて皇后へ渡す様子を見せた。載垣・端華・肅順・景寿・穆蔭・匡源・杜翰・焦祐瀛の八人に遺詔(皇長子載淳を皇太子とする)を書かせ、翌日咸豐帝は三十一歳で崩御した(廟号文宗)。

垂簾聴政への序章

六歳の皇太子載淳が即位し、皇后と載淳の生母である懿貴妃はともに皇太后となり、それぞれ慈安・慈禧の徽号を受けた。年号は「祺祥」と定められた。載垣・端華ら八人は「贊襄政務王大臣」を自称し実権を握った。恭親王奕訢が奔喪(熱河参内)を願い出るが、載垣らはこれを警戒し断る旨の諭旨を発する。折しも両宮太后から御史董元醇の上奏が下され、載垣は激しく罵倒する。

評語

そのラ貴妃は出狩に反対し、還御を勧め、一見国家の大計を思う忠臣のごとく振る舞ったが、咸豐帝の臨終に際し真っ先に御璽の在処を尋ねたところに権力欲の本心が表れている。以後の生殺与奪も意のままにするその手腕は、この回においてすでに周到に伏線が張られている。