西太后演義第十回 密謀で帰京し、輔臣を誅し垂簾聴政始まる (定密謀啟程返蹕 戮輔臣創製垂簾)
垂簾聴政をめぐる対立
御史董元醇の垂簾聴政を求める上奏に対し、載垣・端華・肅順は「祖制にない」と猛反発する。両宮太后(西太后・東太后)は載垣らを召して議論させるが、西太后が垂簾を認めるべきだと迫っても、端華・肅順は祖制を盾に拒み、肅順は「太后の命は聞けぬ」とまで言い放って西太后の怒りを買う。東太后が場を収め、結局、載垣らは董元醇の上奏を厳しく退ける諭旨を発した。
恭親王の密会
その後、恭親王奕訢が熱河の行在に到着する。梓宮(咸豐帝の柩)への参拝は許されたが、載垣らは「両宮太后と甥叔の関係にあり、古礼により対面すべきでない」との理由(軍機大臣杜翰の進言)で謁見を拒む。奕訢は表向き引き下がるが、宦官安得海と密談し、その夜、女装して宮女に紛れ避暑山莊に入り、西太后と密かに一晩策を練って翌朝辞去した。
還御の決定と警戒
まもなく懿旨(西太后の命)により梓宮を奉じて還御する運びとなる。載垣は驚いて延期を願うが、西太后は「一日でも早く先帝の霊を安んじるべき」と一蹴し、載垣・肅順は反論できずに退く。肅順は「還御時は二手に分かれ、王(載垣)が両宮を間道で先導する途中で機を見てそのラ氏を除け」と献策し、自らは梓宮護送に回って前面に立つことを避けた。載垣は端華を誘って同行させることとし、西太后はこれを見越して侍衛栄祿に密命を下した。
還御の道中
出発の翌日、両宮太后・幼帝・妃嬪らは怡・鄭二王に守られて間道を進んだ。大雨の悪路の中、西太后は昼夜を問わず急行を促した。古北口で怡・鄭二王が機を狙うが、栄祿が兵を率いて追いつき両宮を厳重に警護したため手を出せず、無事に九月二十九日、都門に安着した。恭親王らが出迎え、両宮は入城した。
三奸臣の逮捕
翌日、大学士賈禎らが垂簾聴政を求める上奏を行い、また勝保も同様の上奏をした。両宮太后は恭親王奕訢を議政王に任じる。十月二日、梓宮が到着すると同時に、載垣・端華・肅順の解任と、景寿・穆蔭・匡源・杜翰・焦祐瀛の軍機処からの排除を命じる諭旨が下った。恭親王・桂良・周祖培・文祥らが怡邸に踏み込み、載垣を捕縛。折よく現れた端華も同様に捕らえられ、宗人府へ連行された。肅順は密雲に留まっていたところを睿親王仁壽・醇郡王奕譞に急襲され、寝込みを襲われて捕縛された。肅順は「そのラ氏の辣腕よ、我らが命はなくとも、清朝を滅ぼすのは葉赫の者という言い伝えが応験するとは」と嘆いた。
断罪と処刑
宗人府での取り調べで、載垣・端華は言い逃れを試みるが、肅順は「弁明しても無駄だ」と観念し、諭旨に用いられた「同道堂」印が両宮太后のものであることを確認して「良き西太后様よ」と皮肉り、三人とも供述書に署名した。諭旨により、載垣・端華・肅順の罪状(先帝の遺命を歪めて贊襄政務を僭称し、両宮の意向に逆らい、御前で不遜な態度を取ったことなど)が列挙され、本来は凌遅処死とすべきところ、皇族への配慮から載垣・端華には自尽、肅順には斬首が命じられた。景寿・穆蔭・匡源・杜翰・焦祐瀛はそれぞれ処分は軽減された(革職・新疆送りなど、一部は免除)。
垂簾聴政の開始
三人の死により、王大臣は誰も西太后に逆らえなくなり、垂簾聴政の体制が確立した。十月九日、皇太子載淳が太和殿で即位し、翌年を同治元年とする(「同治」は両宮同治の意)。十一月朔日、幼帝は両宮皇太后とともに養心殿で垂簾聴政を始め、諭旨には「同道堂」印が用いられた。
評語
西太后一人に対し、載垣・端華・肅順の三人、さらに景寿・穆蔭・匡源・杜翰・焦祐瀛を加えれば八人。一人で八人を相手にしながら、西太后は秘密裡に事を進め、沈着に立ち回り、果断に決着をつけて、八人を掌の上で弄ぶように処分した。呂后・武則天にも劣らぬ手腕であり、本回はもっぱら西太后の心術と手腕を描き尽くし、婦人の恐るべきさと清朝に人材なきことを示している。