兩晉演義第九十九回 荊州に入り異党を駆除し、長安を奪い後秦を翦滅する (入荊州驅除異黨 奪長安翦滅後秦)
後秦の内紛
- 秦主姚興は長子泓を太子としたが、次子の広平公弼が野心を抱き朝廷に勢力を広げた。忠臣らの諫めにも興は決断できず、姚興が病に倒れると弼は反乱を企てたが、興の回復により未遂に終わった。
- 興が再び危篤になると、弼派の南陽公愔が挙兵し宮中に攻め込んだが、興が持ち直して鎮圧を命じ、弼は誅殺された。まもなく興は崩じ、太子泓が即位した。
荊州をめぐる争い
- 荊州刺史司馬休之は劉裕と不和になり、雍州刺史魯宗之と結んで対抗、後秦に援軍を求めた。劉裕は自ら西征し、激戦の末に江陵を奪回、休之・魯宗之父子は後秦へ逃れた。
- 劉裕は太傅・揚州牧を辞退しつつも軍事の全権を握り、後秦討伐を決意した。
後秦滅亡
- 泓の代になっても内紛は続き、北地太守毛雍や長楽公宣らが相次いで反乱を起こしたが鎮圧された。西秦・仇池・夏の侵攻も加わり秦の国力は衰えた。
- 劉裕は諸軍を分けて北伐を発動、王鎮惡・檀道濟らが破竹の勢いで洛陽を陥落させた。魏へは通過の了解を得て軍を進め、崔浩の進言により魏は不介入を選んだ。
- 秦は東平公姚紹を派遣し防戦したが敗死。沈田子・傅弘之らが青泥で秦主泓の親征軍を撃破し、王鎮惡が長安を陥落させた。姚泓は降伏し、後秦は三代三十二年で滅亡した。
評語
- 司馬休之は東晋皇族の中でも有力な存在であり、劉裕が劉毅・諸葛長民を除いた後、次に狙われたのは必然であった。休之を荊州に赴かせたのも実は排除のための計略であった。後秦は姚興・姚泓の代では姚萇ほどの悪行はなかったが、内紛と外患が重なり滅亡に至った。姚泓は仁孝で知られながら国を失い命を落とした点に、時運の非情さが表れている。