兩晉演義第一百回 寇乱を招き秦関は再び失われ、禅位に迫り晋の祚は永く終わる (招寇亂秦關再失 迫禪位晉祚永終)
後秦の滅亡
- 姚泓の幼子・佛念は父の降伏では身を全うできぬと悟り、自ら宮壁から身を投げて死んだ。
- 姚泓は妻子・群臣を率いて王鎮惡の陣に降伏。鎮惡は劉裕の到着を待って処置し、城内を鎮撫した。
- 劉裕は入城して鎮惡の功をねぎらい、秦の儀器・宝物を建康へ送り、金帛は将士に分け与えた。
- 平原公姚璞・并州刺史尹昭・東平公姚讚らも次々降伏したが、劉裕はことごとく斬り、姚泓も都へ送って市曹で梟首した(享年三十)。司馬休之父子と魯軌は北魏へ逃れ、追捕できなかった。
劉裕の東帰と関中の布石
- 晋廷は瑯琊王司馬德文らを洛陽の五陵に遣わし、劉裕は洛陽遷都を望んだが、王仲德の諫めで沙汰止みとなった。裕は密かに王弘を通じて九錫の礼を求めさせ、相国・宋公・九錫を得たが表向きは辞退を装った。
- 夏主・赫連勃勃は統萬城を築いて自立し、劉裕の伐秦を好機とみて関中侵攻の機をうかがい、秦嶺北の郡県は次々勃勃に降った。
- 裕は勃勃と義兄弟の約を結ぼうとしたが、勃勃の返書の才知に内心舌を巻いた。
- そこへ左僕射・劉穆之の急死の報が届き、内政の要を失った裕は東帰を決意。次子・劉義真(十三歳)を安西将軍として関中の鎮守に残し、王修を長史、王鎮惡を司馬、沈田子・毛德祖・傅弘之を参軍として補佐させた。
- 三秦の父老は劉裕に留まるよう泣いて訴えたが、裕は義真らに任せると告げて出発。王鎮惡は貪欲で沈田子らと不仲であり、田子はたびたび裕に鎮惡の不信を訴えたが取り合われなかった。
王鎮惡の横死
- 夏主勃勃は劉裕の東帰を知ると王買德の策を用い、赫連璝に長安攻略、赫連昌に潼関屯守を命じ、自らも大軍を進めた。
- 秦の民は次々夏に降り、沈田子・傅弘之は劉回堡に退いて劉義真へ急報。王鎮惡は防戦に消極的な王修を難じ、自ら援軍に向かった。
- 田子は鎮惡を恨み、「鎮惡が関中を私し義真を除いて南人を皆殺しにする」との流言を広め、傅弘之の陣で鎮惡を謀殺した。田子は「劉裕の密命」と偽ったが、王修はこれを見破って田子を捕らえ処刑した。
- その後、毛修之を司馬として傅弘之と共に夏兵を撃退した。
関中崩壊
- 王修の報を受けた劉裕は各将の配置を進める一方、宋公から九錫・王封を受け入れつつあった。そこへ長安大乱の急報が届き、裕は蒯恩を関中救援に、朱齡石を新たな雍州刺史として派遣し、危うくば義真ともども撤退させるよう命じた。
- 実は乱の発端は義真自身にあった。義真は放埒で賞賜に節度がなく、諫める王修を側近の讒言で誅殺させたため人心が離れ、籠城するほかなくなった。
- 赫連勃勃は南下して関中郡県を占拠し、咸陽に入って長安の水運を断ち、長安は震撼した。
- 蒯恩・朱齡石の督促でようやく義真は長安を出たが、部下は略奪に走って行軍は遅々とし、赫連璝の追撃を受けた。傅弘之は輜重を捨てて先に義真を逃がし、自らは蒯恩と共に殿軍として奮戦したが、青泥で王買德軍に阻まれ、傅弘之・蒯恩・毛修之はことごとく捕らわれた。義真だけは段宏に助けられ、闇に紛れて辛くも脱出した。
長安陥落と勃勃の即位
- 朱齡石は長安を守れず潼関へ退き、弟の超石と合流したが、赫連昌の攻撃で水源を断たれて陥落。齡石兄弟・王敬・傅弘之らは屈せず殺された。
- 赫連勃勃は長安を得て関中を制し、髑髏台を築いて誇示したうえ、灞上で皇帝を称して昌武と改元し、後に統萬城へ戻って世子赫連璝を雍州牧・南台として関中に残した。
西涼の代替わり
- 劉裕は長安失陥に激怒したが、義真の生還を知り出兵を思いとどまった。
- 西涼公李暠が没し、子の李歆が跡を継いだ(改元嘉興)。李暠は継妻の尹氏を重んじ、遺言で長史宋繇に子の後見を託していた。尹氏は再嫁の身を恥じて貞節を守り、李暠の創業を助けた人物として知られる。
- 李歆は宋繇の勧めで晋への通交を続け、晋は歆を鎮西大将軍・酒泉公に、北涼主沮渠蒙遜を涼州刺史に任じた。この頃すでに晋の詔勅は瑯琊王司馬德文の名で出されており、安帝はすでに劉裕に弑されていた。
安帝弑殺と恭帝擁立
- 六十を過ぎた劉裕は「昌明の後なお二帝あり」との讖文を口実に簒奪を急ぎ、王韶之に命じて安帝の左右を買収させた。瑯琊王德文が病で退出した隙をつき、韶之は安帝を絞殺した(享年三十七、在位二十二年)。
- 劉裕は安帝急死と偽り、偽の遺詔で瑯琊王德文を立てた(恭帝)。翌年、元熙と改元し、褚氏を皇后に立てた。裕はさらに宋王に封じられ、天子の儀仗を用いる殊礼を受け、母蕭氏を王后、世子義符を太子とした。
禅位と東晋の滅亡
- 翌年、劉裕は壽陽で「爵位を返上し帰隠する」と偽り、意を汲んだ中書令傅亮が「都に戻る」と申し出た。傅亮は夜空の長星を見て天命を確信し、都へ急行した。
- 裕は建康に入り、傅亮の起草した禅譲の詔を恭帝に書き写させた。恭帝は「桓玄の乱で一度失った国を劉公が再興してくれた、今日の禅位も本望」と強いて笑い、璽綬を渡して宮を去った。
- 司馬一族の残存勢力(司馬楚之・司馬文榮・司馬道恭・司馬順明ら)は各地に拠ったが統一を欠き、各地の守将に駆逐されて北魏へ逃れた。
- 劉裕は形ばかりの辞譲の末に受禅し、南郊で即位して国号を宋とし、大赦を布いて元熙二年を宋の永初元年と改めた。恭帝は零陵王に、褚后は零陵王妃に落とされ秣陵の故城に移された。ここに東晋は滅亡した。
恭帝の最期
- 劉裕は廃帝の存在を禍根とみて、六月の受禅からわずか三月後、鴆酒で零陵王司馬德文を弑そうとした。最初に遣わされた張偉は毒酒を自ら飲んで死に主命を拒んだ(晋の忠臣として特筆される)。
- 後に兵士が垣を越えて再度鴆殺を試みたが、德文が拒んだため、兵士は被り物で窒息させて殺した(享年三十六、在位一年余)。裕は表向き哀悼の意を示し三日輟朝、恭帝と諡した。
- 東晋は元帝より恭帝まで十一主・百四年、西晋と合わせて十五主・百五十六年であった。
西涼の滅亡
- 東晋滅亡と同時期、西涼も滅んだ。李歆は土木を好み厳刑を用いて民心を失い、宋繇や尹太后の諫めも聞かず、北涼の誘いに乗って出兵し、蒙遜に大敗して戦死した。
- 蒙遜は酒泉を得て西涼を滅ぼした(李暠より二代・二十二年)。母后の尹氏は蒙遜の前でも節を曲げず、その気概に蒙遜は敬意を示し、子の嫁に尹氏の娘を迎えた。尹氏は後に伊吾へ移り孫らと共に天寿を全うした。
- 北燕・西秦・夏・北涼もそれぞれ後継が魏や夏に滅ぼされ、仇池楊氏も魏に併呑されたが、これらは劉宋期の出来事として『南北史演義』に詳しいとする。
五胡十六国の興亡一覧
- 漢(劉淵、前趙劉曜):匈奴、三主、二趙に分かれ前趙は後趙に滅ぼされる
- 北涼(沮渠蒙遜):二主、北魏に滅ぼされる
- 夏(赫連勃勃):三主、北魏に滅ぼされる
- 前燕(慕容皝):鮮卑、三主、前秦に滅ぼされる
- 後燕(慕容垂):五主、北燕に簒奪される
- 南燕(慕容德):二主、晋に滅ぼされる
- 西秦(乞伏国仁):四主、夏に滅ぼされる
- 南涼(禿髮烏孤):三主、西秦に滅ぼされる
- 後趙(石勒):羯、七主、冉閔に簒奪され、冉閔は前燕に滅ぼされる
- 成漢(李雄):氐、三主、李勢の代に晋に滅ぼされる
- 前秦(苻洪):七主、後秦に滅ぼされる
- 後涼(呂光):四主、後秦に滅ぼされる
- 後秦(姚萇):二主、晋に滅ぼされる
- 前涼(張重華):漢族、五主、前秦に滅ぼされる
- 西涼(李暠):二主、北涼に滅ぼされる
- 北燕(馮跋):二主、北魏に滅ぼされる
結びの詩
(詩:百年の晋祚が宋に移り、他者を簒う者はまた子孫に簒われるという因果を詠み、続けて五胡の乱入で中原が荒廃した悲哀を詠嘆する)
評語
劉裕は義真がまだ幼く関中を保つ器量がないと知りながら鎮守に残した。王修・沈田子らの不和もあり、赫連勃勃の侵寇がなくとも関中は保ち難かったはずである。裕が急ぎ東帰したのは簒奪の心が逸ったためで、関中の統治を顧みる余裕がなかった。結果、裕が去るや秦地はたちまち乱れ、多くの将が死に、義真だけが辛うじて逃れ得た。得失は相償うもので、これにより裕の簒奪への焦りはいよいよ増した。安帝を弑し、さらに恭帝をも弑したその酷薄さは、あるいは司馬氏が魏を簒った報いとも言える。ただし司馬昭が高貴郷公を弑した後も子の炎は陳留王を殺さず、それゆえ晋の祚は百余年続いた。裕は一身で二君を弑しており、子孫の永続を望むのは難しかろう。本回は東晋の滅亡を簡にして略さず叙し、劉裕の心事を誅する筆致である。末尾に五胡十六国の始末を総括し、全書を締めくくっている。