兩晉演義第七十七回 殷仲堪は柄を倒しまにし桓玄に授け、張貴人は凶を逞しくし孝武帝を弑する (殷仲堪倒柄授桓玄 張貴人逞兇弒孝武)
道子と孝武帝の綱引き
- 孝武帝が王恭・殷仲堪・王珣・王雅らを要職に配して道子を牽制しようとする一方、道子も王国寶とその従弟王緒を腹心として対抗、両派は緊張状態にあった。
- 道子は生母李太妃を太后に立て、簡文帝生母鄭氏を宣太后として別廟を建てさせるなど、生母の地位を高めた。
- 道子は自らの封を会稽王に改め、聡明な皇子德文を瑯琊王に立てて太子德宗の後見をさせた。
桓玄の不遇と道子への接近
- 桓温の末子桓玄は父の名声のため官途を抑えられ、23歳でようやく太子洗馬となった。道子に取り入ろうとした席で桓温を反逆者呼ばわりされ屈辱を味わい、以後道子を恨むようになった。
- 義興太守に転じるも不満で辞官し、父の功績を訴える長い上訴文を朝廷に送ったが黙殺された(内容は父桓温の勤王の功を強調し、讒言による不遇を訴えるもの)。
- 桓玄は殷仲堪の鎮する江陵に出入りするうち、次第に仲堪の実権を奪い取っていった。仲堪の前で槍を仲堪に向ける不穏な行動もあり、劉邁・胡藩らが仲堪に危険を警告したが仲堪は動けなかった。
王国寶一族と孝武帝
- 王国寶の兄弟には有能な者もいたが(次弟王忱は荊州で名声を上げた)、国寶自身は道子・張貴人へのすり寄りで栄達し、驕慢の限りを尽くした。道子との一時的な不和から女装して道子邸に入り込み許しを請う醜態も演じた。
- 孝武帝は国寶を寵愛し娘を瑯琊王妃にと約束するが、なかなか実現せず国寶は苛立った。当時「雲中詩」なる風刺詩が流布し、時政の乱れを揶揄した。
- 太子德宗が東宮を出るが、実際は暗愚で儀礼上の存在に過ぎなかった。会稽処士戴逵は再三の召命にも応じず隠棲を貫き、間もなく没した。
孝武帝、酔中の戯言が仇に
- 太元二十年、長星が現れ孝武帝は酒杯を掲げて戯れに「長星よ、万年の天子などいない」と嘯いた。以後も水旱・地震が続いたが孝武帝は酒色に溺れ続けた。
- 王珣・王雅は諫言をせず、張貴人が終日そばに侍り孝武帝を惑わせた。
- 太元二十一年秋、孝武帝は寵愛の衰えを恐れる張貴人に戯れで「もう三十路だ、若く美しい者はいくらでもいる」と言い放ち、酔って彼女に嘔吐までかけてしまう。
- 恥辱と将来への不安に耐えかねた張貴人は侍女に命じ、眠る孝武帝を布団と重石で窒息死させた。孝武帝は在位24年、享年35であった。
(詩:恩愛が一夜で仇となり、女心の恐ろしさを詠う内容)
評語
桓玄は器量の低い人物に過ぎず、殷仲堪はそれに対抗する力もなく利用された。孝武帝は道子を抑えるために殷仲堪らを起用したが、かえって新たな禍根を生んだ。孝武帝は張貴人の本性すら見抜けなかったのであり、酒色の禍は刃物より恐ろしいと結び、褒姒・妲己の故事よりも直接的に君主を弑した張貴人の例を引いて女色を戒める。