兩晉演義第七十六回 子が母に迫り燕の太后は自尽し、弟が兄を陵ぎ晋の司馬道子が権を専らにする (子逼母燕太后自盡 弟陵兄晉道子專權)
王建の献策と参合陂捕虜の処断
- 中部大人王建は捕虜を皆殺しにするよう進言。拓跋珪は仁義を建前に躊躇したが、諸将の後押しを受けて数万の捕虜を坑殺させ盛楽へ引き上げた。
燕、再度の北伐と慕容垂の親征
- 大敗した太子寶は雪辱を望み、范陽王德も垂の親征を勧めた。垂は清河公会・陽城王蘭汗を後方の守りに残し、隆・盛らを召還して来春の北魏攻めを準備。太史令の凶兆の警告も垂は退けた。
- 出征直前に平視・平翰兄弟が叛き、垂自ら討伐に赴くなど内紛も生じた。
- 垂は范陽王德に中山を守らせ、自ら険路を越えて雲中方面に進軍。拓跋虔の守る平城を急襲し、虔を討ち取って魏兵三万を降した。
慕容垂の病没
- 垂は昨年太子寶が敗れた参合陂で戦死者を弔ううち、悲憤のあまり吐血して発病。なおも進軍を続けたが病は篤くなり、上谷でついに崩御した(在位十三年、享年七十一)。遺命により喪は秘され、中山に着いてから発喪された。
- 太子寶が即位し、垂を神武皇帝(廟号世祖)と諡し、建興十一年を永康元年と改元。范陽王德・遼西王農らへの官職配分が行われた。
慕容寶の即位と段太后の悲劇
- 寶は若い頃から見せかけの徳望で太子の座を得た人物で、実権を握ると本性が現れ、内外の期待を裏切った。
- 継母段太后はかつて垂に、寶は非常時の主に不向きであり趙王麟も将来の禍根になると進言していたが、垂は激怒してこれを退けた。この話が漏れ伝わり、寶・麟の恨みを買っていた。
- 寶の即位後、麟が段太后に自裁を迫り、太后は「先祖の血食が絶えることを恐れる」と言い残して毒を仰いで自殺した。
- 寶・麟は太后の喪を軽んじようとしたが、中書令眭邃が漢の閻后の先例を引いて発喪を主張し、寶も結局太后の礼で葬った。
東晋・孝武帝の宮廷
- 孝武帝は淝水の戦い後、政務に努め青兗河南を回復するなど晋の威勢を一時取り戻した。
- 崇德太后褚氏の崩御に際し喪服の議論があり、徐藻の解釈により斉衰の礼が採用された。
- 皇后王氏は驕慢で早世。その後寵愛した陳淑媛・張貴人との間に皇子德宗(後の安帝)・德文が生まれた。
会稽王道子の専権
- 孝武帝が張貴人に溺れて政務を顧みなくなると、同母弟の会稽王道子が軍国の大事を掌握。謝安の死後、道子は録尚書事・揚州刺史として大権を握った。
- 道子は酒色と仏事に耽り、王国寶を侍中に用いて賄賂や不正な人事が横行した。
- 尚書令陸訥、処士戴逵、右衛領営将軍許榮らが時弊を憂えて諫言・上疏したが、道子・国寶の壁に阻まれ実らなかった。許榮の上疏は仏教界の腐敗・司法の乱れ・盗賊の横行なども指摘したが黙殺された。
太子德宗の立太子と朝政の乱れ
- 孝武帝は口もきけぬほど暗愚な德宗を太子に立てた。許榮の諫言も無視された。
- 道子を丞相に推す動きに護軍将軍車胤が異を唱えて署名を拒み、孝武帝もこれを却下。
- 范寧・徐邈らは道子・国寶の不正を厳しく批判。范寧は甥である国寶を弾劾したが逆に讒言され、自ら豫章太守へ左遷を願い出た。離任に際して省刑・倹約を訴える上疏を残したが、これも黙殺された。
- 国寶の不正を密告する書状を孝武帝が目にして関係者を処罰する一幕もあったが、国寶自身は道子の庇護でその都度難を逃れた。
道子の奢侈と孝武帝の対抗策
- 道子は売官と賄賂で私腹を肥やし、寵臣趙牙・茹千秋らを重用して豪奢な邸宅を築いた。孝武帝が視察して諫めても道子は聞き流し、奢侈はさらに増した。
- 孝武帝は道子を牽制すべく、王恭・殷仲堪を要職に起用しようとした。太子左衛率王雅は両者の器量不足を理由に反対したが、孝武帝は聞かず、王恭を青兗州方面、殷仲堪を荊州方面の鎮将に任じた。
(詩:驕縦の習いが兄弟の間から生まれ、身内すら制御できぬまま群臣に累が及ぶことを嘆く内容)
評語
家に賢い子弟がなければ家は傾き、国に賢い子弟がなければ国は滅ぶ。慕容垂は稀代の英傑でありながら太子選びを誤り、その死後に段后が弑逆される事態を招いた。子が母を弑する非道が起きた以上、北魏の侵略がなくとも燕の滅亡は必至であったと論じる。東晋の孝武帝も道子を溺愛し放縦を許した点で同罪であり、大権を委ねながら道子が驕り高ぶってから慌てて牽制しようとした判断の誤りを指摘する。