兩晉演義第七十五回 都城を失い西燕は滅ぼされ、山寨を圧して北魏が雄を争う (失都城西燕被滅 壓山寨北魏爭雄)
乞伏乾歸の内政と益州の敗戦
- 乞伏乾歸は長子熾磐以下に官職を分け与え、大将軍大単于を自称し続けた。
- 楊定の死後、上邽を奪った姜乳を討たせるため弟の益州を派遣。邊芮・王松壽は益州の驕りを案じて諫めたが、乾歸は益州の勇猛を頼み、韋乾・務和を副えて出させた。
- 益州は大寒嶺で油断して軍紀を緩め、諫言を退けたため姜乳の夜襲を受けて大敗。韋乾らの助けでかろうじて逃げ延びた。
- 乾歸は秦の穆公の故事を引いて自らの過ちとし、益州らを不問に付し、しばらく兵を休めた。
仇池の帰趨
- 楊定に子がなく、従弟の楊盛が仇池を継いで東晋に藩を称し、晋も仇池公に封じた。乾歸も干渉せず、仇池はひとまず安定した。
慕容垂、西燕討伐を決断
- 燕主慕容垂は丁零を平定し中山に戻ったが、翟钊が西燕に奔ったと聞き、慕容永討伐を議した。
- 諸将は疲弊を理由に反対したが、司徒范陽王德は同族の慕容永が僭称して民心を惑わしていることを理由に即時討伐を主張。垂もこれに同意し、諸将に晋陽・沙亭・鄴への進軍を命じた。
台璧の攻防
- 慕容永は諸将を各地に分けて防がせたが、燕軍は迂回策で永を欺き、台璧で激戦となった。小逸豆歸・王次多・勒馬駒らは大敗し、王次多・勒馬駒は戦死、台璧は完全に包囲された。
慕容永の敗走と長子籠城
- 慕容永は自ら救援に赴くが、慕容垂の偽装退却と伏兵の挟撃に遭い澗で壊滅、命からがら長子城へ逃げ帰った。
- 晋陽・沙亭・潞川の守将は次々降伏・敗走し、慕容鍾も垂に降った。永はその妻子を皆殺しにするなど暴虐を重ねた。
- 長子城は燕軍に包囲され、永は東晋・北魏の双方に救援を求めたが間に合わず、内部の大逸豆歸らが燕軍を城内に引き入れ、永とその一族は捕らえられて処刑された。西燕は慕容泓の建国からわずか十一年で滅亡した。
燕、晋領へも侵攻
- 垂は永の旧領を接収し、長子・晋陽に鎮守を置いた後、鄴に帰還。さらに慕容農らを晋の廩邱・陽城・高平方面に進攻させ、晋の防備は次々崩れた。
燕、北魏遠征へ
- 垂は老齢のため太子寶を統帥として北魏遠征を命じたが、散騎常侍高湖は燕魏の旧誼や拓跋珪の器量を理由に諫めた。垂はこれを聞かず高湖を罷免し、寶らを出兵させた。
- 拓跋珪は劉衛辰を討ち滅ぼし、その子勃勃だけが薛幹部に逃れた(後の赫連勃勃)。珪は薛幹部からも財物馬畜を得て国力を蓄えていた。
- 長史張袞の献策により、珪はあえて燕軍を避けて後退し、油断を誘う策を取った。
参合陂の大敗
- 燕軍は黄河を渡る船が突風で対岸に流され、魏軍に捕らえられた兵から偽の情報(垂死去の噂)を流布され、燕軍は動揺し渡河をためらった。
- 太子寶配下の術士靳安は不吉な兆しを繰り返し進言したが聞き入れられず、慕容麟も油断していた。
- 魏軍は凍った黄河を渡って急追し、参合陂で不吉な黒雲が現れる中、沙門支曇猛の警告も無視された。
- 翌朝、魏軍が奇襲。燕軍は統率を失って総崩れとなり、澗で溺死・圧死する者が続出。太子寶らはわずかな兵で辛くも脱出したが、陳留王慕容紹は戦死、多数の将吏が捕虜となった。
- 魏の中部大人王建が捕虜の扱いを巡って強く主張する場面で本回は終わる。
(詩:驕兵必敗を戒め、慈悲を装いつつ結局多くの人命が失われたことを長平の故事になぞらえて嘆く内容)
評語
慕容垂は敵を誘い込む策に長け、拓跋珪もまた同様の策で応じた。垂は国を滅ぼし軍を覆す智略を誇ったが、その子寶は父に及ばず参合陂で全軍を失った。父が虎なら子は豚犬というべき落差であり、これは徳を修めず智謀のみに頼った報いではないかと論じる。