兩晉演義第七十八回 奸を誅せんと迫り戈を執り北闕を犯し、尊号を僭称し将を遣り西秦を伐つ (迫誅奸稱戈犯北闕 僭稱尊遣將伐西秦)

孝武帝崩御の隠蔽と安帝即位

  • 張貴人は口止めのため賄賂を配り、孝武帝は魘(悪夢による急死)と偽って発表された。会稽王道子をはじめ李太后・瑯琊王德文らも真相を追及せず、闇に葬られた。
  • 王国寶は禁中に駆けつけ遺詔を代筆しようとしたが、侍中王爽に阻まれ果たせなかった。
  • 太子德宗が即位(安帝)。道子は太傅に進み、朝政を専断する立場を固めた。国寶も一時道子と不和になったが復縁し、領軍将軍に栄達した。

王恭の挙兵と国寶の誅殺

  • 平北将軍王恭は入朝時に道子を面と向かって批判し憎まれた。国寶側は王恭排除を図るが、王珣は時期尚早と諫めて思いとどまらせた。
  • 王国寶・王緒は殷仲堪・王恭の兵権を削ろうと画策。桓玄は殷仲堪に、王恭と連携して「君側の奸を除く」名分で挙兵するよう唆した。
  • 王恭は上表して国寶の罪状(先帝崩御時の禁中乱入未遂、東宮兵権の横領など)を訴え挙兵。晋廷は震撼し、道子は窮した国寶を見限り、王恭に国寶・王緒の処刑を約して事態を収めた。国寶は賜死、王緒は梟首され、王恭は兵を退いた。
  • 道子の子、会稽世子元顯(16歳)が父に王恭・殷仲堪への警戒を進言し、征虜将軍として衛府・徐州の軍を統率することとなった。

後涼・呂光の統治と失政

  • 涼州牧呂光は功臣杜進を讒言により誅殺するなど猜疑心が強く、参軍段業の諫言でようやく苛政を改めた。
  • 呂光は酒泉を奪った王穆や張掖の彭晃らの反乱を鎮圧し、自ら三河王、さらに天王・大涼国を称して改元。呂望の子孫を自称するなど権威づけを図った。
  • 張掖督郵傅曜殺害事件では、呂光の夢に現れた冤魂の訴えにより真犯人尹興が処罰された逸話が語られる。

呂光、西秦の乞伏乾歸を攻める

  • 呂光は羌族の彭奚念の反乱を鎮圧した後、西秦の乞伏乾歸との旧怨(弟呂寶の戦死)を理由に、乞伏軻殫の内応も得て乾歸討伐の大軍を三方から発した(金城・陽武・臨洮方面)。
  • 乾歸は寡兵で謀略により迎え撃つ方針を固めるが、緒戦で金城・臨洮・武始・河関が相次いで陥落し窮地に陥る場面で本回は終わる。

(詩:群雄の戦いが絶えぬ中、兵力よりも知略が勝敗を分けることを詠う内容)

評語

会稽王道子は貪欲で酒色に溺れた愚物であり、朝廷に人材があれば道子や国寶を抑えられたはずだが、王珣・王雅らは日和見に終始し、暗愚な安帝を戴いて乱れるのは必然であったと論じる。王恭の挙兵は国寶兄弟の専横を討つ大義があったとし、単純に反逆と断じるべきではないとする。後涼の呂光は乱に乗じて一方に割拠したに過ぎず、大軍を挙げて西秦を攻めながら制しきれなかった無能ぶりを批判する。