兩晉演義第四十九回 桓温を擢用し荊梁の都督に移し、李勢を降し巴蜀を平定する (擢桓溫移督荊梁 降李勢蕩平巴蜀)

穆帝の即位と褚太后の摂政

  • 康帝が病篤くなり後継を巡って議論となる。庾冰・庾翼は年長の会稽王昱を推すが、内政を握る何充・蔡謨は康帝の長子聃(後の穆帝)を太子に立てることで決した。康帝は二十二歳で崩御し、二歳の聃が即位。群臣は康帝后の褚氏を皇太后として臨朝摂政させることを奏請し、褚太后はこれを受けた。
  • 何充は褚太后の父褚裒を推挙するが、裒は外戚の嫌を避けて固辞し、外任(徐兗二州刺史)を望んだ。庾冰は病没(清廉で私財を残さなかったと伝わる)。

荊州人事と桓温の抜擢

  • 庾翼は病篤となり子の爰之への荊州継承を願うが、庾冰没後の廷議で何充が「若輩に西藩は任せられない」として徐州刺史桓温を推挙、会稽王昱もこれに同意。丹陽尹劉惔は桓温の器量を評価しつつも「志が純ならず、得志すれば国の憂いになる」と警告したが容れられず、桓温が荊梁都督に任じられた。
  • 桓温の出自・逸話(父桓彝の横死、江播父子への復仇、劉惔による「孫権・司馬懿の流れ」との評)が語られる。

蜀(漢)の内情と李勢の暴政

  • 李壽の跡を継いだ漢主李勢(李壽の太子)は、諫言する重臣(蔡興・李嶷ら)を誅殺し、弟の漢王広を廃して自殺に追い込み、旧臣馬当・解思明も謀反の疑いで一族もろとも処刑するなど暴虐を極めた。李奕の反乱を退けた後は美女を強奪して後宮に満たし、政務を顧みず、宮中に蛇や虎に化けたとされる妖異が続いたという逸話も語られる。

桓温の蜀討伐

  • 江夏相袁喬の献策により、桓温は寡兵による速攻策を採用し、周撫・司馬無忌らと共に成都へ進軍。彭模で輜重隊を残し、背水の陣で成都へ直進、笮橋の決戦で蜀軍を撃破した(一時桓温自身が矢を受けかけ、鼓吏の誤打が却って将士を奮い立たせる場面もあった)。
  • 成都を包囲された李勢は降伏を申し出て、面縛の礼で軍門に降った。桓温はこれを許して丁重に扱い、李勢は建康に送られ帰義侯に封じられた(李氏の蜀支配は六世四十六年で終焉)。その後も鄧定・隗文らの残党が范賁を擁立して一時抵抗したが、益州刺史周撫により鎮圧され蜀は完全に平定された。

(詩:笮橋の敗戦で蜀の命運は尽き、面縛して降伏したのは恥辱である、十年の帝位よりも諸侯として百代続く方がましではないかと歎ずる内容)

評語

桓温の若き日の事跡(父の仇討ち、殷浩を侮った逸話など)を挙げて一見忠義の士のようだったとしつつ、蜀を一挙に平定し四十六年続いた蜀土を晋に還した功績は庾冰・庾翼や何充・司馬昱の及ぶところではないと評価する。しかし功を誇らず節を全うしていれば祖逖・陶侃にも劣らなかったであろうにと惜しみ、世人が英傑と称える中で劉惔だけが「桓温は主に忠ならず」と見抜いていたことを、曹操・司馬懿ら奸雄が初めは功績で身を立てたのと同じ構図として、劉惔の見識の深さを称える。